ep.3
(やっと帰ってこれた……)
死なずに済んだという安堵感が、遅れて胸に広がる。
さすがの僕でも、車に轢かれそうになった経験はない。
あの運転手、多分酔っていたんじゃないだろうか。
飲酒運転は犯罪だ。
しかもこちらは、文字通り死にかけた。
——だが。
問題はそこじゃない。
車と衝突しかけたあの瞬間、確かに“何か”を使った。
今思い返しても、不自然すぎる現象だ。
体の奥を、得体の知れないものが巡る感覚。
現に今も、その余韻ははっきりと残っている。
(……まさか、魔法使いにでもなったのか?)
我ながら馬鹿げた発想に、思わず鼻で笑う。
(……いや、さすがにそれはない)
そう思いながらも、車と衝突しかけた瞬間を思い出す。
体の内側で、何かが蠢くイメージ。
次第に体が温まり、その力を手に集める。
——小さな炎を、イメージする。
ボン。
小さな音がした。
「……まじかよ」
立てた人差し指の先に、確かに“火”が灯っていた。
熱さは、なぜか感じない。
ただ一つだけ、はっきり分かったことがある。
——どうやら僕は、本当に“おかしなもの”を手に入れてしまったらしい。
僕は、必死に思考を巡らせる。
次から次へと考えが浮かんでは消えていくが、そのどれもが支離滅裂で、この世の道理に反している。
——それでも。
一つだけ、あまりにも馬鹿馬鹿しい仮説が、頭から離れなかった。
それは。
三十歳まで童貞を貫いた結果、魔法使いになってしまったのではないか。
意味不明にもほどがあるし、理屈も根拠もあったものじゃない。
正直、冷静な状態なら一笑して終わりだ。
だが、思い返してみる。
昨日——僕が三十歳を迎えたその瞬間。
この部屋で鳴るはずのない、あの鐘の音。
そして直後に、理解不能な“何か”が頭の中を駆け巡り、意識を失った。
……妙に辻褄が合ってしまう。
(多分、その時だ)
あの瞬間を境に、僕は魔法を使えるようになった。
そう考えると、指先に灯るこの炎の説明が、なぜか一番しっくり来てしまうのが腹立たしい。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
それは恐怖でも混乱でもなく——
今まで感じたことのない、高揚感だった。
これまでの僕は、現実主義で、効率を最優先して、
感情を押し殺し、まるでロボットのように人生をなぞってきた。
無駄な挑戦はしない。
リスクは避ける。
夢なんて、コスパが悪い。
——そんな生き方に、正直うんざりしていた。
だがもし。
もし本当に、僕が魔法使いになってしまったのだとしたら。
この退屈で、予定調和で、何も起こらない人生は——
今日、この瞬間に終わるのかもしれない。
指先で揺れる小さな炎を見つめながら、僕は思った。
(……悪くない)
少なくとも、
三十年間、何も起こらなかった人生に比べれば。
そして僕は、他にどんな魔法が使えるのかを試してみることにした。
まずは、水魔法。
テーブルの上に置いた空のコップを見つめ、
そこに水が注がれる光景を、できるだけ具体的にイメージする。
次の瞬間。
ちゃぽん、と小さな音を立てて、コップの中に水が現れた。
(……あっさりだな)
拍子抜けするほど、簡単だった。
次に、風。
部屋の空気を押し出すような感覚を思い描くと、
カーテンがふわりと揺れた。
土魔法も同じだ。
床に落ちていた小さな砂粒が、意思を持ったように動く。
(待て待て待て)
ゲームなら、普通は適正属性がある。
炎が得意とか、水が苦手とか、そういう制限があるはずだ。
だが、今のところ——
僕にはそれがない。
(これ、すごくないか?)
興奮がこみ上げる一方で、
自分でも少しだけ引いているのがわかった。
(一体、どんな力を授かったんだよ……)
それでも、試す手は止まらない。
次に思い浮かんだのは、回復魔法だった。
——その瞬間、あることを思い出す。
「あ」
車を避けたとき、足を擦ったのだ。
ズボンの下に、ヒリつく感覚がまだ残っている。
アドレナリンと、魔法が使えるという異常事態に、
すっかり忘れていた。
僕は傷口を見つめ、
皮膚が再生していくイメージを頭の中で組み立てる。
細胞が分裂し、つながり、元の形に戻っていく——そんな感じだ。
すると。
じんわりとした熱とともに、
皮膚が閉じていく感覚が伝わってきた。
数秒後、痛みは消え、
そこにあったはずの傷は、きれいに塞がっていた。
(……すごすぎるだろ)
しばらく、言葉も出なかった。
そして、ふと冷静になって思う。
(もう、病院行く必要ないじゃん)
——いや、そういう問題じゃない気もするけど。
しかし、僕はすぐに重大な問題点に気づいた。
——この力を、公にすることはできない。
もし、この超常的な現象が世間に知られたら。
僕が平穏な生活を送れる保証は、どこにもない。
それどころか、実験台として扱われ、
研究施設に閉じ込められる未来すら想像できてしまう。
あるいは——
この力を理由に、戦争や紛争へと駆り出される可能性だってある。
そこまで考えたところで、背中に冷たい汗が流れた。
(……洒落にならない)
結局。
どれほど特別な力を手に入れたとしても、
自由を失ってしまえば、意味なんてないのかもしれない。
生活が多少便利になるだけで、
堂々と使えない力は、むしろ足枷になる。
魔法が使えるからといって、
人生が劇的に変わるわけじゃない。
少し落胆しながら、現実に意識を戻す。
会社を辞めるわけでもない。
いきなり億万長者になれるわけでもない。
結局、僕に残された道は——
今まで通り、社会人として生きていくことだけなのだろう。
(……これも夢かもしれないしな)
一晩寝たら、
この力そのものが、綺麗さっぱり消えている可能性だってある。
そう考えながら、僕は風呂へ向かおうとした。
——その時だった。
ピーンポーン。
突然、インターホンが鳴り響いた。




