『魔女の夢見草』~悪夢は無くなったはずなのに、騎士が常連客になりました~
――またあの夢だ。
重い鎧の隙間から血が噴き出す鈍く湿った音。
耳を塞ぎたくなるような、仲間の叫び声。
血生臭さと肉の焼け焦げた、吐き気を誘う匂い。
夜、眠りにつけば、必ずと言っていいほど戦場へ引き戻される。
騎士ロアンの夜は、いつもこの繰り返しだった。
金属のぶつかる音、肉を裂く感触。
目の前に現れる敵を、ただ無心で斬り伏せていく。
倒しても、倒しても、次から次へと現れる。
それでも、俺は剣を振り続ける。
気付けば、立っているのは自分ひとりで、周りには屍の山。
その中の一人が、ゆっくりと顔をこちらに向ける。
それは仲間だった。濁った瞳と、目が合った瞬間――
「うぁぁぁぁぁぁぁ――――――!」
はっと目を開けると、気の天井が揺れて見えた。
少し開いた窓からは、冷たい夜の風が流れ込み、頬を撫でていく。
静かな寝室には、虫の声がかすかに響くだけだった。
だが、夢で見た恐ろしい光景が頭から離れず、心臓の鼓動は落ち着かない。
汗で濡れた栗色の髪が、額に張り付いて気持ちが悪い。
馬小屋の藁の匂いも、柔らかな寝台も――何ひとつ安心をもたらしてはくれなかった。
戦いから離れて、既に半年が経っている。
それでも、安心して眠れる夜は一向に来ない。
何度も同じような夜を過ごすうちに、街で聞いた噂を度々思い出すようになっていた。
――森の奥深くに、眠りを操る魔女が住む。
彼女の草を煎じた茶を飲めば、どんな悪夢もあっという間に消えて、安らかな眠りが訪れるのだと。
ありえない作り話。
だが、このままでは、自分はきっと壊れてしまう。
ただ、噂だけで、実際にその魔女に会った者にはまだ出会ったことがない。
街のはるか西の森の奥――そう語られるだけで、正確な場所は誰も知らなかった。
もしかしたら存在などしないのかもしれない。
「安眠」とは、眠りではなく『死』を指す言葉なのかもしれない。
それでも縋らずにはいられなかった。
悪夢に削られ続けた心は、もはや限界に近かったのだ。
夜明け前。重たい身体を無理やり起こし、剣と外套を手にして西の森を目指した。
東の空から太陽が昇り、淡い光が道を照らし出す。
その一筋の光が、自分の未来をも導くように思えた。
そして――森の奥で、苔むした屋根の下に、ひっそりと佇む小さな家を見つける。
そこに、眠りを操ると噂される魔女が、確かにいた。
****
森の中の小さな家。
その周りには、夜露に濡れた草花が咲き乱れていた。
木漏れ日に照らされて、草花に付いた雫が反射してキラキラと輝いている。
その一角に、不思議な甘い香りを放つ花が咲いていた。
家の中から男女の話し声が聞こえてきた。
「ヒュメリア、ありがとうな!!」
低く張りのある声。
ヒュメリアの腰ほどの背丈に、床まで届くほどの長いこげ茶のひげ。
がっしりとした体つきのドワーフ――ドーリが、満面の笑みで両手を振り上げていた。
「どういたしまして、ドーリさん。でも、奥さんのいびきが原因で眠れないなら、本当は奥さんに来てもらった方が良いんですよ」
ヒュメリアは棚の奥から小瓶を取り出しながら、少し困ったように微笑む。
窓辺には干した薬草がいくつも吊るされ、室内には瓶や本が整然と並んでいた。
小さなランプが柔らかな光を放ち、家全体に温かな雰囲気を添えている。
「それは分かってんだ! でも『いびきがうるさい』なんて言えねぇよ! こん棒で殴られて死んじまう!」
「……そうですか。ドーリさんの奥さん、お強いんですね……」
「強い強い! ありゃオークもひとりで倒せるかもしれねぇ。だから助かったよ! ありがとな、ヒュメリア! また来るぜ!」
「あはは……。良い夢を」
ドーリは勢いよくドアを開け放ち、そのままバタンと閉めた。
小さな家全体がわずかに揺れるほどの音に、ヒュメリアは思わず目をぎゅっとつぶる。
それから彼女は深呼吸をひとつして気持ちを落ち着ける。
棚の前に歩み寄り、中の瓶をそっと持ち上げた。
瓶の中には乾燥した細かな草が入っており、開ければかすかに甘い香りが漂う。
「……だいぶ少なくなってきたわね。外の夢見草を摘んできた方が良さそう」
独り言のように呟きながら、ヒュメリアはドアを開けて外へ出た。
森の空気はしっとりと冷たく、夜露の名残を含んでいる。
けれど――ふと彼女は眉をひそめた。
(……森の空気が、いつもと違う?)
かすかな緊張が背筋を走った、その時だった。
――バキッ。
すぐ近くで枝が折れる鋭い音。
ヒュメリアは思わず声を張った。
「……誰かいるの?」
静かな森の中へ問いかけると、太い木の陰からゆっくりと姿を現したのは――ひとりの青年だった。
薄明の光を背に、まだ表情は影に隠れている。
ただ、その眼差しだけは、ヒュメリアをまっすぐ見つめていた。
「……眠りの魔女か?」
低く警戒を帯びた声。
「そう呼ぶ人もいますね。……私を殺しに来たんですか? それとも、茶葉が欲しいのですか? もしそうなら用意しますので、その物騒な剣をしまってください」
淡々とした口調の奥に、かすかな緊張が滲む。
ロアンははっとして、慌てて剣を鞘に収めた。
「あ、あぁ……すまない。俺はロアンだ。ここから東にある街から来た」
名乗ると同時に、ヒュメリアは小さく息を吐き出す。
「……どうぞ、中へ」
彼女が家に向き直る。
その瞬間、森を渡る風が吹き抜け、ヒュメリアの白い長髪が宙を舞うように広がった。
淡く光を含んだような髪は、森の深い緑の中ににひときわ際立ち、白いローブとともに揺らめきながら彼女の輪郭を溶かしていく。
一瞬、そこに人ではなく森の精霊が立っているのではないかと思わせるほどだった。
扉を閉めた瞬間、外よりも濃厚な甘い香りがロアンを包み込む。
ロアンは思わず鼻をひくつかせながら、部屋を見渡した。
生活感のある小さな家だが、不思議と心を落ち着ける温もりがあった。
「……店ではないのか?」
澄み切った青空のような瞳をキョロキョロとさせながら、ロアンが問いかける。
「ええ、私の家です。茶葉作りも、好きでやっていることですから」
ヒュメリアがやわらかく微笑んだ。その穏やかな表情に、ロアンは思わず言葉を失う。
――彼女は命を奪うような、恐ろしい魔女ではないのかもしれない。
「……そうか」
ヒュメリアはソファの傍らに置かれた椅子へ静かに腰を下ろす。
その瞳は、深い海の底を思わせるような、静かで穏やかな青。
見つめられるだけで、波に揺られるように心が落ち着くような――安らぎを宿していた。
「それで――なぜ夢見草の茶葉が必要なのか、詳しく話していただけますか?」
「戦場では……よくあることなんだ」
ロアンは低い声で淡々と語り始めた。
「仲間を失うなんて、珍しくもない。俺も、何度も……」
そこで言葉が途切れる。
それまで毅然としていた声が、かすかに震えた。
「……ただ、一人だけ、どうしても忘れられない奴がいる」
膝の上で握りしめた拳が白くなる。奥歯を噛みしめ、俯いたまま吐き出す。
「俺が……もっと強ければ……! あいつを……家族のもとへ帰せたはずなんだ」
堪えていた後悔が、堰を切ったようにあふれ出す。
「俺のせいで、あいつは……!」
それ以上、言葉にならなかった。
ロアンは肩を震わせ、俯き続けた。
ヒュメリアはそっと彼の言葉を受け止めるように、柔らかく口を開いた。
「親しかった戦友を亡くし、家族のもとに帰してあげられなくて……苦しいのですね」
「あぁ、そうだ……その戦いの夢で、いつも目が覚める」
「……ロアン。あなたはきっと、できる限りのことをしたのでしょう。それでも自分を責めてしまうのは、それだけ、その戦友を大切に思っていたから……。夢に見て苦しんでしまうのも、当然なのかもしれません」
その言葉に、ロアンは一瞬、息をのんだ。
街では誰も彼の苦悩に触れない。
騎士として当然のことだと、戦いがあれば、また剣を握らされる。
心の奥にある痛みを知ろうとする者など、いなかった。
「……俺は、眠れるようになるのか?」
顔を上げたロアンの瞳は、どこか子どものように不安げだった。
ヒュメリアは静かに微笑む。
ヒュメリアは静かに立ち上がり、お盆にティーカップとガラスのティーポットを乗せて戻ってきた。
透き通るポットの中では、淡い緑の茶葉がゆるやかに舞い、やがてキャラメル色の茶になった。
彼女が注いだ瞬間、湯気とともに甘やかな香りがふわりと広がる。
「戦場の夢は、鋭い棘のように心を刺します。けれど、この夢見草の香りは棘の先をやさしく包み、安らかな眠りへと導いてくれるのです」
ティーカップがそっとロアンの前に置かれる。
彼は一瞬ためらったが、やがて両手で包み込むように持ち上げ、一口含んだ。
舌に広がるのは、ほろ苦さとほのかな甘み。
香りが鼻を抜け、胸の奥に積もった重さをほんの少し溶かしていく。
「……美味い」
思わずこぼれた言葉に、自分でも驚いたようにロアンが瞬きをする。
ヒュメリアは静かに微笑んでいた。その瞳には「強さ」を求める影はなく、ただ「弱さを見せてもいい」と伝えているようだった。
ふっと肩の力が抜ける。
ティーカップを半分ほど空けた頃には、まぶたが重くなり、ロアンはソファの背に体を預けていた。
「……眠っても、良いのですよ」
その声を最後に、ロアンは深い闇に落ちるのではなく、やわらかな光に包まれるように意識を手放した。
ヒュメリアは横になったロアンにそっと毛布を掛けると、テーブル置かれたティーカップを持ち上げた。
彼女が手をかざすと、底に残ったお茶から、淡い煙が立ちのぼる。
揺らめく煙は形を変え、やがて戦場の光景を描き出した。
血と叫びに満ちた戦場——。
鋼の剣が交わる音が部屋の空気を震わせ、土を蹴る兵士たちの足音が床に響く。
兵士たちの雄叫びが部屋中に響き渡る――。
そこに、剣を振るうロアンの姿があった。
彼は向かってくる兵を切りつける。
その顔は、苦しみではなく、笑みが浮かんでいる。
「笑う彼と苦しむ彼——どちらが本当の彼なのかしら」
ヒュメリアは煙に映る光景をじっと見つめる。
ロアンは敵も味方も関係なく斬り伏せていた。
その肩に黒い影のようなものが漂っている。
「……これは……」
小さなささやきが、かすかに聞こえる。
『もっと戦え……もっと奪え……』
ヒュメリアは息をひそめ、その黒い影がロアンの肩で小さく渦巻く様子を観察した。
「なるほど……これが原因ね」
そっと手をかざし、低く呟く。
「エルヴィラ、封じなさい――」
指先が淡く光り、鎖のような光が現れる。
『な、なんだ!? やめろォ――!』
黒い影は引きはがされるようにロアンから浮かび上がり、光の鎖に絡め取られた。
ひゅるりと小瓶の中へ吸い込まれ、栓が音を立てて閉まる。
瓶の中では影がなおも揺らめいていたが、しっかりと封じられて出てこれない。
次の瞬間、夢の景色が揺らぎ、変わった。
ロアンは涙を流しながら、瀕死の戦友を抱きしめていた。
「……すまなかった」
ソファで眠るロアンの唇からも、同じ言葉がこぼれる。
閉じた瞳から、一筋の涙が伝い落ちた。
それは夢の中の戦友に向けた、心からの謝罪だった。
景色が目まぐるしく変わっていく。
幼い少年二人が木の剣を打ち合わせて遊ぶ姿。
やがて成長し、騎士の鎧をまとって並び立つ姿。
戦地でお互いの背中を預けて戦う姿。
結婚式や赤ん坊を抱き、笑顔を交わす姿。
そしてロアンが国王から称賛を受ける姿――。
そのすべてが走馬灯のように流れ、また戦地へと戻る。
そこには、泣き崩れるロアンの姿があった。
彼が救えなかったのは、ただの戦友ではない。
幼いころから剣を交え、共に夢を語った親友だった。
夢の中で、その親友はやさしく微笑む。
『お前を恨んでなんかいない。この国を……家族を救ってくれて、ありがとう』
「……ダリオ……っ」
名を呼ぶ声が震え、涙が頬を伝った。やがて嗚咽は静まり、安らぎが訪れる。
――数刻後。
ロアンはゆっくりと瞼を開けた。
「……俺は、寝ていたのか?」
身体を起こすと、そばにいた魔女が近づいてくる。
「ええ。とても安らかに」
「また……あの戦場の夢を見た。だが、今回は違った。戦いが終わり、友が俺を許してくれる夢だった。……思い出したんだ。ダリオは最期、笑っていたんだ。それなのに、俺はずっと――彼を見捨てたと思い込んでいた。夢の中で笑う自分が怖かった。あの時も、敵を倒すのが楽しくて……だから助けられなかったんじゃないかって……!」
「夢であなたが戦いを楽しんでいたのは、影の魔物のせいです」
「影の、魔物……?」
ヒュメリアは棚から小瓶を取り出す。黒い影がゆらめいていた。
「弱った心にしか棲めない、小さな影の魔物です。あなたの罪悪感に寄生し、苦しみを深めるために戦いの夢を見せていたのでしょう。きっと、戦友を失った心の隙を狙われたのです」
「それじゃあ、俺は――」
「あなたは人の命を奪うことに楽しさを覚えるような人ではありません」
ヒュメリアの声は、迷いなく澄んでいた。
「……そうか……」
ロアンは深く息を吐き、肩の力を抜いた。
「ご友人を悼んでいる時点で、戦いを楽しむ姿など本来あり得ませんから」
ようやく笑みを取り戻したロアンは、ぽつりとつぶやく。
「……起きて、こんなに心が軽いのは、久しぶりだ」
「目覚めが良いのは、心と身体を整えます。――守りたいものを守るためにも大切なことです」
「……俺に、まだ守れるものがあるだろうか?」
「悲しみを抱えて生きるのも自由です。でも、その悲しみを、今生きる人を守る力に変えることもできます。亡くなった人のために。残された人たちのために。そして――あなた自身のために」
ロアンの脳裏に、仲間の遺族、そして街の人々の笑顔が浮かぶ。
「……そうだな」
ヒュメリアは小分けの茶葉を差し出した。
「これは夢見草のお茶です。夜に一杯、七日間飲み続けてください。心が癒える助けになります」
「……あぁ、ありがとう」
ロアンは茶葉を懐にしまい、外套を羽織る。
扉を開ける直前、ふと振り返った。
「……本当に、ありがとう」
ヒュメリアはやわらかく微笑んだ。
「いいえ。――どうか、良い夢を」
****
一か月後――
「どうしてまたいらしたんですか? 眠れるようになったと仰っていたはずでしょう?」
「あぁ、眠れている」
「なら、なぜ……」
「君が言ったんだろう? 今、生きている人を守れと」
「……? 言いましたけど?」
「だから、俺は君も守ることにしたんだ」
「はぁっ!?」
ヒュメリアの声がひときわ大きく響き、家のまわりの鳥たちが驚いて飛び立った。
「必要ありません! 私は魔女です。人に守られるような存在じゃ――」
「それでもだ」
ロアンは真っ直ぐに彼女を見た。
「俺は、もう大切な人を見失いたくない。君がどう言おうと、俺は勝手にそう決めただけだ」
「……勝手に、って」
ヒュメリアは呆れたようにため息をついた。
「本当に、厄介な人ですね」
ロアンは肩をすくめ、静かに答えた。
「厄介でも、これからも通うつもりだ。……迷惑か?」
「……迷惑です」
言葉とは裏腹に、ヒュメリアの声は柔らかかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
ブクマ、評価などして頂けると励みになります!コメントなどもお待ちしております!