常識改変探偵
・登場人物
山下貴明:視点人物である、しがない会社員。ひょんなことから『常識改変アプリ』を手に入れる。
小鳥遊水面:行きずりの黒髪少女。何か事情を抱えているようだ。
三田陽子:キャンパーの女性。お転婆で、気性は優しい。
江藤遊星:館で出会った男。スポーツ刈りで活発な印象。言葉のなまりが特徴的。
狗山:館の主人。推定三十代といったところの不思議な風貌の男性。
長良橋:館の使用人。腰の低い老爺。
激しい雨が降っていた。もし私が、この部屋以外の、建物の外周沿いの場所にいたならば、叩きつけるような水の音を聞かずにはいられないだろう。今はかえって、そうした喧騒の中に身を置きたかった。
部屋の中は静かだった。置き時計が時を刻む音だけが、響いている。部屋に置かれたビリヤード台には、一五個の球が三角形に整頓され、微動だにしない。反対の隅では、ダーツマシンが扇状の光を時計回りに回転させている。重篤な患者を扱う手術室のような静寂が、私の背にのしかかり緊張をあおる。
娯楽室。そう呼ばれる部屋に、一人の少女が目を閉じ、横たわっている。その四肢は力なく投げ出され、きれいに手入れされた髪も乱雑に床の上に広がっている。近くの高等学校の生徒なのだろうか、セーラー服の胸元にはアルファベットをもじったようなエンブレムがあしらわれている。短く加工されたスカートが、あられもない姿で倒れる少女の無防備さをより際立たせた。
私は改めて少女の肢体を観察する。このような機会は二度と訪れないであろう。ほんの少しの過ちで、私は犯罪者へと転落することになってしまう。注意深く、丁寧に、少女の足先から頭の天辺までを観察するのだ。堂々と、それでいて過信しないこと。私は、結局のところ何かの才によってこのような行為をするに至ったわけではないのだから。
少女の膝にそっと手の甲をあてる。私の体を底から凍らせるような冷たさが伝わってくる。手を滑らせ、だらしなく開かれた脚の内側をなでる。きめ細かい肌が、今は鳥肌を立てるようにチクチクと私の手を逆なでする。
吸い込まれそうなほど白い少女の内腿から視線を外し、青く血管の透けて見える首筋に目を向ける。
急かすように、木目を軋ませる貧乏ゆすりの音が部屋の外から聞こえてくる。私は、自分を落ち着かせるために深く息を吐き、なぜ、このような事態になったのかを思い出すことにした。
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1
始まりと言うものを正しく指定するならば、それはゴールデンウィーク最終日のことだった。世間一般においては、連続した祝日による大型の休暇日であるかもしれないが、そのような常識は私の会社では機能しないようであった。
連勤と言うものは、あまり体に良くない。
そんなことは誰だってわかってはいるが、そのようなきれいごとだけで世界が回っているというわけでもないのもまた事実なのだ。もちろんこうした禅問答をしても、疲弊した肉体は少しでも回復しないということも、わかってはいるのだが。
そう、疲れだ。疲れを癒す方法には、種々の方法があるだろう。私がこの四十年において最も信頼し、多く使ってきた、言うなれば、疲弊後のルーティーンとしては、散財をするというものがある。
普段は馬鹿にして目もくれないもの、今の自分には似つかわしくないであろうもの。そういった、今後の人生においても私にとって全くの無価値であろうものを買うのだ。そうした本当の意味での無駄遣いによって、清々とした気分を味わえる。
アラサーどころか、すでに四十になってしまった身として、このような趣味を持ち合わせているのは、世間様からすれば恥ずかしいことなのかもしれない。しかし、私、山下貴明の人生において、他人の目を気にすることはすでに意味を成しえない。どうせ箸にも棒にもかからない人生なのだ。そのうえ、この年でまだ独り身の人間が、少しでも狂わずにいられるだろうか。
ともあれ、散財と言うものは私の人生のピースの一つである。なんだかんだと言って真面目、実直とこれまで多くの異性から言われてきた(それが誉め言葉でないことを理解したのは、社会人になってしばらくしてからのことだ)私の性質上、家計が破綻するようなことも、危険なものに手を出すなどと言うこともなかった。
それは、ゴールデンウィークが終わり、私の仕事にもようやく折り合いがついた夜のことだった。駅に敷設された大型の書店に何気なく足が向いた。誘蛾灯のように、薄暗いエキナカに話題書のポップアップが大きく張り出されていた。すでに散財をしてやるのだという気概に満ちた私は、いつもは子供だましだと感じる広告にも目を輝かせる。
店先に並んだ大判の新書に何気なく目を落とす。そこには、目に悪い配色で「常識を改変して他人をあなたの思い通りにする」と帯に書かれた、呆れを通り越して出版社に直接問い合わせようかと思うほど滑稽な本があった。
「この国も、いよいよ言論の自由を見直す時が来たか」
おおげさにため息と苦笑を混じらせながら、その本を手に取る。改めて表紙を見ると、過剰なほどに大きく書かれた見出しと小さなQRコード、著名なのかも定かでない人物の評論文、一方で、裏表紙には文字一つないアンバランスさが怪しさを越えて違和感、いや恐怖を覚える。
驚くべきことに、それが最後の一冊だったようで、下からは関係のない料理研究家のレシピ本が現れる。不思議に思い、棚や隣の陳列にも目をやるが、類似のジャンルすら見当たらない。相当に人気なのか、はなから一冊しか入荷されていないのか。
「……面白いじゃないか」
だからといって、この本の信憑性が増すわけもなく、私にとってこの本は無価値なままである。
つまるところ、散財するにふさわしい。おもわず笑みがこぼれる。
私は、このつまらなくくだらない本を購入するために急ぎレジに向かう。
万が一にでも、このような本を買う人間だと他人に思われたくなかった。
速足でレジに向かう途中、漫画棚の方から飛び出してきた男とぶつかってしまう。大柄と言うほどでもないが、しっかりとした筋肉があるようで、ぶつかった衝撃で私はバランスを崩してしまった。小脇に抱えていた本が来た道の方へと飛んでいってしまった。
「す、すみません」
青年は、倒れた私に手を差し出しながら、優しい声色でそう謝った。
「いや、こちらこそ不注意だったよ」
青年の手を取り、立ち上がる。ふと本を落としたことに気が付き、それでは、と断ってその場を去る。今は他人と交流するような余裕はないのだ。貼り付いたような笑みを浮かべながら、目だけで本の行き先を探る。
件の本は床の上を滑って、元あった棚の前に落ちていた。落下の衝撃でカバーが外れ、中の表紙が見えていた。拾い上げようとすると、奇妙な事実に目を疑う。
「これは……どういうことだ」
露出した本体には、先ほどのものとは違う、真っ白なカバーが見える。取り上げてみると、やはりまったく違う。いや、まったく同じであるのだ。
怪しげな表紙の中には、書棚に平積みにされたレシピ本と全く同じ表紙が現れたのである。
つまるところ、この「常識を改変して他人をあなたの思い通りにする」と書かれたカバーは、ハリボテであったというわけだ。
先刻感じた違和感。それは裏表紙に本来あるはずのバーコードがないことによるものだったのだと気づく。
「さながら爆弾、というわけか」
誰ともつかない愉快犯が置いて行った、いかにも不審なブックカバー。
私は、奇妙なことに、いたずらと言うにはあまりにもくだらないその短絡さに心惹かれつつあった。なによりも、表紙に刻まれたそのQRコードがなにか混沌とした刺激へと、私を連れて行ってくれるように感じたのだ。
そっとカバーだけを鞄にしまい、書店を後にした。すでに仕事の疲れなど忘れてしまっていた。
家に帰り着いた私は、ひとまずはいつも通りの生活を送る。スーツを脱ぎ、手と顔を洗い、夕食を食べ、入浴する。鞄の中に明らかに嘘の(いやあるいはもっとタチの悪い詐欺の類かもしれない)ブックカバーが入っているというだけで、日常を乱すようなものではない。
などと考えつつも、やはり意識はこの奇妙な縁について考えてしまう。
本当に「常識を改変して他人をあなたの思い通りにする」ことができるとして何なのだ。陽の光など、とうに沈んだような私に何をもたらすというのだ。
時計の針は深夜十一時を指す。
うじうじ考えていても仕方がない。とりあえず試してみようじゃあないか。そう思って、カバーに刻印されたQRコードを読み込んでみる。スマートフォンの画面はどこかのサイトに遷移しようとしている。
リンクを開くと、どうやらダウンロードページの様だった。簡素なページにはclick here to downloadというテキストだけが表示されている。いかにもな文章に、ダウンロードしてもよいものか逡巡する。
仮にワンクリック詐欺のようなものだとしても、盗られてから考えることにするか、と散財でおおらかになった心が思う。そもそもは無料で取ってきたものだ。もともとは本ごと買う予定だったわけなのだから、多少の損は構うまい。
テキストを指で触ると、画面の上部にダウンロード開始を知らせる通知が現れる。
ダウンロードを待ちながら、帯に書かれている心理学者だという人物について調べてみる。検索結果はいくつか出てきたが、どれも姓名が完全には合致しない。どうやら相当に無名なのか、架空の人物であるようだ。
そうこうしているうちに、画面にアプリのアイコンができている。ダウンロードが完了したようだ。常識改変の四文字が悪趣味にデザインされたアイコンに触れ、起動してみる。アプリが開かれ、画面が一度暗転した。
再び明るくなった画面には、中央に赤いボタンが表示されている。その周りには、ビビットな色の波のような模様がうっすらと見える。ボタンを押せばぼかされた奥の模様が鮮明に映される仕組みなのだろう。
———————それだけだった。
それ以上、アプリはうんともすんとも言わない。せめて使い方くらいは付記しておくのが礼儀なのではないかと愉快犯に腹を立てる。想像の中のそいつは、使い方なんてわかりきっているだろうとでもいうように私を見て嘲笑った。
その時、家の扉が乱暴にたたかれる。
誰か、には心当たりがある。同じマンションの遠藤という住人だ。彼は付近の大学に通う男子大学生で、成人して羽目を外すようになったのか、最近酩酊状態で自分の部屋を間違えては開けろと催促してくるのだ。これほどに迷惑な人間にも、帰りを迎えてくれる相手がいるのかと思うと我が人生の不幸を嘆くほかにないだろう。
そうだ、いいことを思いついた。どうせ遠藤は酔っていて何をされようとも明日には忘れてしまうだろう。ならば、この怪しげなアプリの実験台にはちょうど良いのではないか。
思い立てば行動は早い。スマートフォンを持ってドアを開けると、予想通り顔をタコのように赤くした遠藤がいた。
「あれぇ、ゆみちゃんじゃないなぁ。おい、なんだぁお前、俺の女に手ぇ出したのかぁ?」
どうやら部屋を間違えた挙句、私は不埒者扱いらしい。最近の若者は、とこぼしそうになる自分に老いを感じて悲しくなる。
「ここは私の部屋だ。キミの部屋は、ここではないよ」
「あれぇ、そうだっけぇ」
ろれつの回らない様子で遠藤は私を見上げる。廊下の電灯が消え、部屋から漏れ出る光だけが、彼の足元を照らしていた。
「そうだ。ところで、これに見覚えはないかな」
「あい?」
私がスマートフォンの画面を彼に向けると、無警戒にその模様をのぞき込む。彼は何事か口から漏らしていたが、次第に目が虚ろになり口をだらしなく開いた。
『人と別れるときは、土下座してから離れるのが普通だ』
私はそう彼に告げると、空いていた手で指を鳴らす。パチンという音が彼の耳に届いたとき、一瞬だけ酔いがさめたように彼は目を見開いた。
「あ、すいません、部屋を間違えちゃったみたいです」
遠藤はそういうと、地面に頭をつき、土下座した。そして、何事もなかったかのように自分の部屋の方へと歩いて行った。彼が廊下の角を曲がり、見えなくなるまでその背を見届ける。
玄関扉を閉めると、私は背を預けて恍惚と息を吐いた。これまでの人生の中で、これほどまでに興奮したことが幾度あっただろうか。自分以外の人間の行動を制御する感覚、背徳的なエクスタシーが全身を包み込む。
このアプリはどうやら本物の様だ、と思いたいが、遠藤が酔っ払ってふざけただけかもしれないと思いなおす。このアプリの真偽、そして効果についてはよく確認する必要があるだろう。
胸元に握りしめたスマートフォンの画面を見ると、先ほどとは違いいくつかの広告のようなものが浮かんでいた。
一か月。それから一か月の間、私はこの、「常識を改変して他人をあなたの思い通りにする」アプリについて検証をした。一か月もかけたのには二つの理由がある。
一つ目は使用回数の問題。どうやら初期設定ではスタンダードコースというものに入っているらしく、これが早い話でいうと無料プランにあたる。このプランでは、相手の常識を改変する模様は一日に一度しか使えないらしく、回数もストックされない。かといって、有料のコースにして反社会団体などに私の金が(まして私のクレジットカードの口座から)流れでもしたらと思うと手が出なかった。一日一回の試行という限られた状態であったことが一つ目の理由だ。
二つ目は仕様の問題。単刀直入に言うと、このアプリの実態を把握することがとても難しかったのだ。かといって、何度も使えるようにしていたとしてもすぐに理解できたとも思えない。一回きりの緊張感と、偶然のめぐりあわせによって、私は理解を深めていったのである。
では、一か月の間に理解したこのアプリ、簡易的に「常識改変アプリ」とでも呼称しよう、の性質を整理することにしよう。
まずは使い方だ。初めに見た赤いボタンの画面が、使用できる合図となる画面である。一日の使用回数を超えると、使い終わった後は有料プランへの誘導画面に切り替わる。一日の更新は0時のようだから、これを作った技術者や開発者は日本人か、あるいは使用者を日本人と想定した気の利く奴と言うわけだ。
使い方として、まずは赤いボタンを押し、次の画面に表示される模様を対象に見せる。この対象は一人でも複数でも構わない。その画面を見た全員が対象となる。
次に、命令を出す。うまく相手を操るには、この命令が肝心である。
命令すればなんでもさせられるというわけではない。相手が理解し、実行可能であることでなければならない。すなわち、『東京タワーから飛び降りろ』という命令を出せば、対象はためらいなく飛び降りるだろう。
しかし、『飛び降りて生還しろ』となるとその遂行は保証されない。対象の能力を超えた命令は挑戦こそされるが、完了されることはない。
また、小学生に『でんぐり返しをしろ』と命令を出せば、即時になされるが、『ロンダートをしろ』と言えば、遂行されることはない。理解のできない、意味の分からないことは耳の穴から抜け出るようになかったことにされてしまう。さらに、命令でなくともこの改変は成り立つ。『自分を父親だと思え』と言えば、そのように常識が変わる。他人へ認識を変えることも可能だ。
そして、命令を述べたら、最後に暗示を成立させるために合図を出す。遠藤に私が指を鳴らしたのがこれだ。合図は言葉以外の音であればなんでもよいようだ。この合図に使った音を、対象が再び耳にすれば、その暗示は元に戻る。これは私が行う必要はない。つまり、遠藤にかかっていた暗示も大学かどこかで誰かが指を鳴らし、それを遠藤が聞けば消えてしまうというわけだ。
この一か月の間、私は仕事の疲れも忘れ、常識改変アプリのすばらしさに打ち震えていた。
はじめこそ疑っていたが、なるほど、素晴らしいアプリではないか。
私は通勤途中、人の波に押しつぶされながらも高揚感を抑えられずにいた。駅のホームでけだるげにスマートフォンをいじる少女の姿を目にしたとき、全身を駆け巡っていた全能感が一点に集中し、とめどない劣情が脳内を駆け巡った。きめ細やかな肌、薄く塗られた化粧、控えめに上を向く睫毛、さらりと長い黒髪、わずかに内を向いて伸びる両の脚。そのすべてが、この四十年を孤独に生きてきた私にとって、不可侵の物であった。
それが今、手の届く領域にあるのだ。正確に言うならば、手を伸ばしてもよい場所に、私は立っているのだ。
しかし、まだその時ではない。常識を変えるということは、どこかでほころびを生む。決してそれが私を破滅に至らしめないようにしなければならない。
七月に入り、私は常識改変アプリを使い、四十年の間鬱屈としてきた劣情を晴らすための計画を実行に移すことにした。
まず場所は、生家とも現在の住居とも距離のある内陸部がよいだろう。ロケーションとしては、登山やキャンプのような市街と距離のある山間部で行われるものが好ましい。そこで出会った某を篭絡するのだ。夜を明かすようなものであれば、二度の改変が可能であり、保険としても使いやすいだろう。
このアプリの問題点は、暗示をかけた際の音を再び聞かれてしまうと暗示が解けてしまうというところだ。もちろん、解けてもらわねば困る場合もあるから、リスクヘッジとしては正しい。しかし、こと情欲的な常識改変を行うともなれば、容易に聞くことのできる音を設定してはならない。対象が今後二度と聞くはずもないような音にしなければならない。当然抜かりはなく、奏者の少ない楽器や限られた場所の民俗音楽などをすぐに流せるように別の携帯端末に録音している。
決行日。柄にもなく買ったアウトドア用品を、レンタカーのトランクに詰める。
まだ一年の真ん中だというのに有給休暇を使っているということに奇妙な背徳感を覚える。劣情を叶えるといいつつも、今はむしろ健全な状態にあるのだ。準備段階ですでにかなりの充足感に包まれている。仮に予約した場所の近くに対象として適当な存在がいなかろうと、純粋にキャンプを楽しんで帰ってくればいい。そのような逃げ腰の思いで自分を落ち着かせる。
やはり自分には、他人に介入するような行為は向いていないのだと思わされてしまう。まして、犯罪まがい、いや、手を出してしまえば犯罪となるのだ。そのような考えを持って冷静でいられるほど胆の座った人間ではない。
震える手でトランクを閉める。計画を実行する恐怖よりも、ここで何もせずに自分の人生がフェードアウトしていくことの方が怖かった。
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つくづく自分は運のない男だと思う。
それは、よく練ったはずの計画がうまく行かなかったときに、いつもこぼす言い訳だ。
私の運転するレンタカーは、山沿いの上り坂を走っている。カーナビは上手く働いていない。どうやら電波が悪い上に、この車はカーナビが古いようで、自車を示す矢印は、一面緑の山の中でくるくると回転するばかりだ。おまけにワイパーを動かしても前が見えづらいほどの大雨が降っている。家を出る前に確認した天気予報では、確かに晴れの予報だったのだが。
「——S町で行方不明者と報じられていた女子高校生の事件ですが、先ほど見つかった監視カメラの映像から、先月より捜査が行われております連続誘拐事件との関連性が示唆されています。捜査関係者からは――」役立たずのカーナビは、繰り返し同じニュースを垂れ流している気がした。
ともかく、こんな状況でキャンプなどできるわけもなく、かといって引き返すにも道が悪い。そんな訳で、実際には着くあてもないがとりあえず目的地を目指している。
「本当に、ついていないな」
私はため息まじりでつぶやいた。と前方を照らすヘッドライトに、何かが輝いたように見えた。体格的に女性のように見える。
「うおっと」
こんな山道、誰もいないだろうと油断していたが、何とかブレーキを踏み減速する。水をかけないようにと考えたが、それよりもこんなところにいる事情を聞くべきだろうと思いなおし、道路脇に立つ影の横に車をつける。少しだけ助手席の窓を開け、声を張る。
「こんなところで何をしているんだ。あてがないなら乗るかい?」
私がそう尋ねると、その影は静かに後部座席のドアを開け、中に入ってきた。
「どうも。」とだけ言い、ためらいなく座席に座ると、スマートフォンをいじり始める。傘を持っていなかったのか、雨に濡れたスカートから流れた水で、レンタカーのシートに染みができる。荷物も少なく、少し不気味さを覚える。
「びしょびしょじゃないか。本当に何をしていたんだ?」
「なんでもいいでしょ。おじさんこそ、こんな雨の中どこに行くつもりなの?」
バックミラー越しに少女は私に問う。私は、その横柄な態度に憮然として、アクセルを踏みながら答える。
「キャンプに行く予定だったんだよ。あいにくの雨で流されてしまいそうだがね、文字通りにさ」
少女は興味なさげに制服の水を絞り始める。少しは躊躇いと言うものを持つべきではないだろうか。最近の、と喉元まで出かけた言葉を飲み込み、ちらりと雨に濡れた少女の体を横目に見る。
「でもさ、この先の道、土砂崩れで通れないけど?」と少女はスマホを眺めた。
「本当かい?というか、キミ、ナビができるのか。この車、どうにもおんぼろで困っていたんだ」
「マジだって。あ、来た道もふさがってるみたい。そこの前の細い道には行ったら一応家っぽいとこには着くっぽいけど……あ、電波切れた」
肝心なところでナビが終わってしまった。少女はスマホを横の座席に放ると、今度は長い黒髪を絞り始める。私は釈然としないまま、言われた通りに細い道へと進路を変えた。
細い道を降りた先は、申し訳程度の整備がされた、まさしくけもの道であった。しかし、先駆者がいるようで車輪の跡をたどって進んでみることにする。
「どうやら、そう簡単には帰れないようだが、キミの親御さんは心配しないかい」
「しても一緒でしょ。どうせ連絡できないし」
少女は露骨に面倒そうに返事をする。生意気な態度だが、一理ある。何も考えていないわけでもないらしい。
「改めて聞くが、キミは何でこんなところで路頭に迷っていたんだ?一人でここまで来るのも難しいと思うのだが」
「……人に会いに来たんだよ」
「人?どんな人なんだい?」
少女は思い出すように天井を見上げながら、脱力した様子で答える。
「SNSで知り合った人だよ。話が合うしさ、親より私のことわかってくれるから、会ってみたいなって思って。さっきのとこまでは知らないお姉さんに乗せてもらったんだよ。ヒッチハイクってやつ。あ、今もか」
「ちょ、ちょっと待ちたまえ。最近の、いや————」
暇つぶし程度に聞いただけだったが、これはどう考えても犯罪のにおいがする。SNSで知り合った相手など十中八九信用するべきではないだろう。まして、こんな山の奥に待ち合わせなど、言語道断である。自分も人のことをとやかく言える立場ではないのだが、目の前で狼に食われる子羊を見逃せというのも倫理にもとるだろう。
「なに、おじさん。なんで車止めたの?もう着いた?」
私は車を一度止めると、少女の方を振り向いた。
「いいか、キミね。他人をそう簡単に信用するもんじゃない。私のこともそうだ。信用するな。男女も関係ない。大人なんてものはな、みんな心の中にあれこれ抱えてるんだよ。キミにはまだ分からないかもしれないが、いつそれが解き放たれてキミが泣きを見るかもしれないということだ。
キミは、自分で賢く生きているつもりかもしれないが、あえて言わせてもらうと、キミのような子供の考えなんてものはどうしたって浅いんだよ。へりくだって生きろというわけじゃない。身の程をわきまえたまえよ。キミには、ほかに大切にするべき親や、家族や、友人なんかがいるだろう」
そこまで言って、言い過ぎたと反省する。引っ込みがつかず、荒い息のまま運転席で腕を組む。これではただの僻みだ。自由に生きている少女が輝いて見えるからこそ、老婆心と言う体にかこつけて、くすんだ自分の青春を肩代わりさせようとしているだけの傲慢な押し付けだ。
エンジンをかけなおすと、車内にクーラーの送風音が静かに聞こえ始める。
「……少しくらい、間違えたっていいじゃん」
少女の制服が、また濡れる。その雫は染みにはならず、制服に溶けるように消えていった。嗚咽交じりの声で、おじさんには関係ないよ、と小さくつぶやく声が聞こえた。
私は、助手席に置かれたスマートフォンをちらりと見た。
少しの間違いが、取り返しのつかないほどの傷になることもある。少女はまさに、そのような途上にある。それは、私には関係のないことだ。しかし、私には彼女を地獄へと突き落とすことも、正しい道へと導くこともできる力を持っている。ならば、関係を作り出しても構わないだろう。結局のところそれは偽善で、私が少女に差し出した手と同じ手で、別の少女を食い物にするかもしれないとしても、私は、私の常識をゆるがせたりはしない。私は、私の思った通りに生きるのだ。
しばらくして、後部座席の少女が不機嫌そうに言い放つ。
「それと、水面。小鳥遊水面。私の名前。キミって言われるの、腹が立つから」
私が、「小鳥遊さん」と言おうとすると、少女は「水面」と被せてきた。
「……分かったよ、水面。ひとまず、これからどうするかは、この先にあるという家に着いてから考えようじゃないか。」
雨でぬかるんだ道は、それだけでも足を取られるはずなのに、まるで吸い寄せられるかのように、車は順調に進んでいった。
その家は、まさに隠れ家と呼ぶべき風貌であった。二階建ての洋館。客人用なのか広く取られた駐車スペースにはすでに二台の車が停まっている。その内の一台は、私と同じようにこの大雨から逃げてきたのだろう、辿ってきた轍の先にあった。
「ひとまず、話を聞いてくるよ。どうやら先客も多いようだし、どうにか車中泊は免れられそうだ」
「そこの車、さっき言ったヒッチハイクしてくれたお姉さんの車と一緒だ。多分、同じようにここに来たんだよ。だから、大丈夫だと思う」
水面の言葉に一層希望が見える。
館に着いても雨は変わらず降り続いており、止む気配はなかった。
外に出てみると、館の広さに目を細める。キャンプを地図上で下見した際には気にも留めなかったが、このような山の中にあるにしては随分と広い敷地だ。案外、キャンプ場の管理人か地主あたりの家なのかもしれない。
後部座席から降りてきた水面は、両肘を抱えながら憎らしげに空をにらむ。半袖の制服は、ぴったりと肌にひっつき、淡く少女の肌の色を透かしていた。私は小雨を想定して持ってきていたアウターを水面の背に被せる。彼女は小声で「ありがと」と言うと、袖を通さずに襟元を寄せた。かすかに触れた指先は、凍り付くのではないかというほどに冷え切っていた。
「今から、ここに泊めてもらえないか交渉するわけだが、先に言っておく。キミは私の娘だ、ということにする。でなければ、怪しまれてしまうからね。いいかい。キミは娘だ。」
玄関口とみられるポーチライトを頼りに歩く途中、水面に告げる。「はいはいお父さん」と少女はけだるげに返す。
玄関扉のベルを鳴らすと、数コールの後に扉が開いた。とっさに尻ポケットに入れているスマートフォンに手をかける。いつでも準備はできている。使うつもりもないが、手段があるだけで安心できる。扉の先には、山奥だというのにスーツ姿に身を包んだ老爺が立っていた。
「これはこれは、雨の中よくお越しくださいました。ささ、どうぞおあがりください。ご主人様がお待ちです」
事情も聞かない態度に、水面と顔を見合わせる。使用人のような老爺が扉の奥へ消えていったのを見て、着いていこうと水面を促す。
外観の洋風な意匠通り、中も洋風な生活が想定されているようだ。土足のまま古い木目の床を進む。ラグやあちこちに置かれた彫刻も、年代こそ古いものに見えるのだが、よく手入れがされており清潔な印象である。
老爺の入った扉を開けた先は、どうやらダイニングルームの様だった。煌々と焚かれた暖炉の前に男女が一組いる。二人は、扉の音に反応してこちらを振り向いた。反対に顔を向けると、長いテーブルで紅茶を嗜む青年が目に入る。年は自分よりも若い、三〇代半ばといったところか。老爺が傍に立っているところを見るに、この館の主人は彼なのだろう。
「これは、ご親切にどうも。私たちは――」
「あら。あなた、ごめんなさいね。さっきは途中で!」
私が自己紹介をしようとするのに割り込む形で、女性は水面にまくし立てた。その言葉に私は思わず言葉をなくす。ああ、ツイていない日というものは、とことんうまく行かないものだ。水面の言った通り、先客の女性は水面を山中まで送った人物であった。すなわち、その時に水面が一人でいたことを彼女は知っているわけだから、私と水面が家族であるという方便は使えない。困ったことになった、と口をつぐんだ私の緊張を破るように、主人が立ち上がると手をたたいた。
「お客人はこれでお揃いですかね。いやはや、普段は家族と静かに暮らしておりますが、こうしてにぎやかなものも悪くない。急ぎ夕餉の支度をさせますので、震えておられるお嬢さんは先に体を温められるとよろしい。申し訳ありませんが、三田様。お嬢さんをご案内いただけますか。ここには男手しかありませんので」
主人にそう頼まれた女性が「あ、はい」と遅れて返事をして、ダウンジャケットを抱えたまま水面を連れていく。水面は不安げに私を見つめたので、私は判断のつかないまま頷きを返す。私の横を通って二人は廊下の向かい側へと消えていった。
「挨拶が遅れまして申し訳ない。山下と申します。峠のキャンプ場へ向かう予定だったのですが、道が崩れてしまったようで立ち往生してしまいまして……寛大に受け入れていただけて助かりました」
私は館の主人と思われる男性に謝辞を述べる。彼は、よくあることです、と前おいて、先客の二人を紹介してくれた。
「あちらで座られているのが江藤様、先ほどお嬢さんを連れて行ってくださったのが三田様です。三田さまは山下様と同じ境遇の様ですから、話も合うやもしれませんね。そして、ご挨拶が遅れましたが、私はこの館を管理しております狗山と申します。山下様を連れてきたのは、使用人の長良橋です。まぁ、名前などすぐにお忘れになるかもしれませんが、ここで出会ったのも多生の縁というものでしょう」
あまり堅くなさらず自由にされてください、と主人は紅茶をすすった。私は改めて礼を言うと、とりあえずは夕食、あるいは水面の湯上りを待つほかなさそうである。
とはいえ、洋館のダイニングルームで時間を潰すというのは、私のような碌に文化的あるいは美的な教養のないものにはいささか手に余るものだ。机の下や暖炉の前に敷かれたラグマット、天井のシャンデリアやぼんやりと橙に灯るウォールランプ。どれも高価に見えるし、何か主人の意向による統一された家具なのだということは分かるが、格別の知識や感想を披露することもできない。ただそう、落ち着く空間であると漠然と感じる。
「失礼、隣よろしいですか?」
暖炉の前に置かれた四人掛けのソファに座る男に話しかける。年齢は盛っても三十代だろうか、スポーツ刈りと健康的な小麦色に焼けた肌が若く見せる。上はシャツ一枚に、下はジーンズとかなりの軽装である。すでに入浴を済ませたか、あるいはキャンプ以外の用事でここを通ったのだろう。彼の第一印象からすれば、軽装でキャンプをしているといわれても納得してしまうかもしれないが。
「あ、ああ、もちろん。ええと、山下さんやったかな」
「ええ。あなたは江藤さん」
「すまんね、後ろで話してるの聞こえてきたもんやから。どうも暇なもんで話が入ってきてまうんよ」
口調に独特のなまりがあるが、自分の生活圏では聞きなじみのない方言だ。かといって、この周辺の地域もそうなまりは強くなかったと思うから、西からの旅行者だろうか。
「それは失礼。ところで、今日は災難でしたね。まさか土砂崩れが起きるほどの雨とは」
「ああ、そうみたいやね。ボクは、別で狗山さんに用事があってここにおったんですけど、えらい雨や思たら帰られへんくなってるでしょ。堪忍やわ」
おおげさに身振りしながら江藤は苦笑する。ずけずけと物を言う、というよりは一度話すと止まらなくなるタイプか。となんとなく分析してみる。活発そうで苦手なタイプだと思っていたが、どうにも江藤もまた客人同士での距離感を掴みかねているらしい。
「ほんで、山下さん。さっきのツレは娘さん?えらいべっぴんさんや思うたけど、制服でこないなとこ来るかいな。あんたらもなんか訳ありなんとちゃうん?」
「彼女は、娘ではなく――何というか、行きずりで連れてくることになったというか」
家族と嘘をついてもよかったが、いずれバレると分かっていてわざわざつく必要もない。いっそ信じがたい真実を語る方がよいだろう。
「行きずりってなぁ。何をズってもろたんやら」
無遠慮に江藤は私の腿をたたく。前言撤回、苦手なタイプだ。ともあれ、不快感さえ我慢していれば、とりあえず大事になることもなさそうだ。
しばらくして、ちょうど水面がカジュアルな部屋着(主人の娘さんの物を貸してもらったらしい)を着て戻ってきたのと同じくらいに、長良橋が夕食を運んできた。それぞれ席に着き、とりあえずの自己紹介を済ませる。
「あ、私、三田陽子と申します。キャンプに行く予定だったのですが、待ち合わせに遅れちゃって、その上、雨も降ってくるしで、気づいたらここに着いてました……その、粗相のないように努めますが、失礼をいたしましたらすみません」
水面と共に浴室へと行っていた三田は、どうにも危なっかしいというか、よく言えばお茶目な印象の女性であった。落ち着きなく全員をきょろきょろと見回しながら挨拶すると、勢いよく席に着いた。怯えるように席を引いてまたきょろきょろと目を見開く。小動物のような動きに対し、その丸い体躯は水面の倍はあるように思える。
「小鳥遊水面です。その、ヒッチハイク、してて、そしたら、運悪くというか、あの三田さんと同じ感じです」
水面には、家族のふりをしなくてもよいと伝えたところ、たどたどしいながらも上手くごまかしてくれた。車ではずいぶんと横柄な態度だった気もするが、多人数ではやはり緊張が勝るのか、どこか恥ずかし気に彼女は座った。
「娘の服、サイズが合ってよかったです。娘にも会わせたいところですが、あいにくと病弱でしてね。人と会わせるのは、控えているのですよ。とまぁ、暗い話はこのくらいで結構。雨はどうにもまだ止まないらしいですから、ひとまずはここだけでも明るくいきましょう。それでは、乾杯」
主人の言葉にそれぞれグラスを傾ける。もともと、大人数での食事を想定しているのか、食器はもちろん食事も人数分滞りなく用意されていた。どこか丁寧すぎるところもあるが、穏やかな主人の口調と温かな空気に、料理への不安や疑念はどこかへ消え去っていった。
食事を終えると、客室として二階の個室へ案内された。もともとは親族が集まるときやキャンプ者向けの民宿の経営を視野に入れて作ったのだ、というのが長良橋の言だ。室内は一般的なビジネスホテルのように、シングルサイズのベッドと鏡台付きのデスクが備えられていた。さすがにトイレは階段横に共用の形であったが、あまり個人の邸宅という雰囲気のしない間取りである。
個室で一人になり、特にすることもないのでスマートフォンを開く。暇つぶしに動画でも見ようかとアプリをいくつか開いてみたが、画面にはどれも通信失敗の文字が現れる。不思議に思い、Wi-Fiの設定を開くと、どうやらこの建物の中も山の中と同様に携帯電話の電波が届かないらしい。
そうなるといよいよ退屈が極まる。そもそも、使用人の長良橋は雑務をこなしているとして、主人はどうやって、この閑散極まる山中で気の一つも壊さずに暮らしているのだろう。洋館の周りの庭を見るに、庭園があるわけでもなく、夕食の献立を見るに、山菜取りや猟を生業にしているでもない。もし三〇代の自分が同じ場所に住んでいたなら、一週間と経たずに下山するだろう。
この疑問が一応の解決を見たのは、その夜、入浴後のことだった。
どうせ風呂に入るのだと、バケツをひっくり返したような雨の中を車まで取りに行ったキャンプ用の寝巻に着替え、浴室の前の廊下から出たときだ。そこはちょうどダイニングルームの扉の正面になる、左手の部屋から明かりが漏れ出ているのに気が付く。誰かいるのだろうかと興味本位で扉を開けると、そこは娯楽室の様だった。ダーツ、ビリヤード、種々の盤上遊戯が置かれた棚。やや古風というか、むしろ私にとっては心地よいくらいのよくある昔の娯楽室だ。
部屋の中では、主人がビリヤードを突く手を止め、意外そうな目でこちらを見つめた。
「おや、山下様。湯上りの様ですが、お好きでしたらどうでしょう。一ゲームだけでも」
「ご厚意はありがたいですが、私、ビリヤードはてんでダメでして。ご主人なんかとでは相手になりませんよ」
「そうでしたか、これは失礼。私もそう上手というわけでもないのですが。この娯楽室も遊ぶ相手もいないもので、ほとんどハリボテのようなものなのです。やりなれたビリヤードやダーツほど退屈なものはない、と申す方もいるそうですが、私は何年練習してもなかなか思うようにはいきません」
主人はやれやれといった様子で肩をすくめる。
「ご婦人や娘さんとは遊ばれないのですか?まぁ、娘さんはまだ興味を持つような年頃ではないのかもしれませんが」
「ええ、まあ。二人ともどうにも体が弱いもので、あまり遊戯に熱中するのは体に障りますからね。本当なら、家族水入らずで談笑する場となるはずでしたが……と、暗い話をするつもりではなかったのですが、申し訳ない」
言いながら主人の突き出したキューが、白球を小気味良い音ではじく。白球は5と書かれた球を弾き、台の隅にある穴へと落とした。主人は球の行く末など気にも留めない様子で、キューを体の横に添えると穏やかに笑った。
「本日は災難でしたが、賑やかなものは久しぶりでして、私としましてはとても楽しい時間であると感じます。なんていうと、妻から怒られてしまうかもしれませんが」
「私も水面も、そう口数の多い方ではないので恐縮です」
「いえいえ。人がいる食卓というものは、それだけで温かで素晴らしいものですよ」
個室に内鍵があることに気づいたのは、そうして部屋に戻って来た時だ。閉める必要もないか、と思いつつも、スマートフォンを盗まれてはかなわないので、やはり就寝の前には確認しておくことにしよう。
スマートフォンを使う用事はほとんどが機能していないため、鏡台の前に放り出したまま、ベッドに仰向けで寝そべる。天井の赤みがかった茶色の木目を眺めていると、今日の一日分の疲れがどっと瞼に押し寄せる。
嵐のような一日だ。実際に嵐の中にいるようなものだから、比喩ですらないのだが、そう例えておくことで、今日の非常識的な出来事が他人事に思えてくる。
そう、計画がうまく行かなかった、などということはないのだ。行き当たりばったりではあるが、旅行をして気分転換をするという大本の目的は、ほとんど果たされている。不安など何もないではないか。いかなる犯罪や違法行為も、発生条件がそろうだけなら数えきれないほど起こっている。しかし、それでも発生しないのが常識なのだ。誰かの杞憂がうまく作用して、未然に防がれる。そう簡単に犯罪は起こらない。
もし、不安というものがあるとしたら、まさにこの状況のことだ。次第に重たくなる瞼とゆっくりと回転する思考。大雨で行く道も帰る道もふさがれている。そんな状況で複数人の男女がたどり着いた、詳細不明の主人と使用人の住む洋館。大雨によって帰路のないこの状況は、ミステリー何かで言うところの、クローズドサークルというやつではないか。
いや、しかし。考えを変えてみるならば。ミステリなんていう非常識的なものに巻き込まれるとして、私は何者なのだ。『常識改変アプリ』なんていう馬鹿げた凶器を持った犯人ではないか――意のまま他人を操り、自殺も他殺もお茶の子さいさいのB級殺人鬼。犯行内容が常軌を逸しすぎて、これにはむしろワトソン君の推理が当たってしまうかもしれない――と、そんなことではなく。
この洋館内の人物——すなわち、私・水面・江藤・三田・主人・長良橋——の中で言えば、私ほど犯人らしいものもいない。つまり、私が何もしなければそれで事件は起きないのだ。簡単な話ではないか。犯人は二人もいないのだから。
そんな都合のいい妄想をしながら、やがて瞼は完全に閉じる。木目よりも暗い闇が満ちていく。
うたた寝。そう形容するほかない。いつのまにか寝ていた。
薄目を開けると、ベッドのふちには何者かが顔をうずめている。長い黒髪が床まで垂れている。水面だ。部屋の扉を見やると、内側から鍵が閉まっている。水面はどうやって入ってきたのか、と疑問に思ったが、違う。外から入ってきた彼女が、中から鍵をかけたのだ。
「おい、水面さん。ここは私の部屋だよ。正確には私に割り振られたというだけで、所有権があるわけでも、君の部屋とに何か差異があるわけでもないが、少なくとも、私の安寧を主張することくらいはできると思うんだがね」
寝起きでどうにも頭がまとまらず、思ったままに言葉を垂れ流してしまう。少女はいまだ顔を伏せたままだったが、どうにもそれは眠っているのとは違うようだった。肩を震わせている。かと思うと、顔の前に組んだ両の手を強く締めた。
「ごめん、なさい」
伏せたままの顔から、くぐもった声が聞こえる。
「知らない人、信用したらだめって、わたし、何もわかってなかった。怖い……怖いの」
少女は、水面は泣いていた。ベッドのシーツから顔を上げ、私を見つめる。
「お願い、一緒にいて」
水面は震える声で、そう絞り出した。今にも壊れそうな表情で、わずかに呼吸を上気させながら胡乱に見つめてくる。彼女は震える両手で、私の手を取った。湯上りで私の体温が高いのか、彼女の手は氷のように冷たく思えた。
少女の視線が私の目を貫いたとき、私の心に浮かんだのは、保護者としての責任だった。この少女を守らなければならない。そして、導かなければならない。行きずりの関係とはいえ、身を預かることになった大人の立場として、彼女を不安にさせることなど、あってはならないのだ。
とはいえ、彼女をこのまま部屋に留まらせ続けるというのも難だ。どれだけ高尚な弁を並べても、心の奥底に雄々しく猛る情動の獣を押さえ続けられる自信はない。大人だなんだと言って、純粋無垢な少女を傷つけるのが私でないとも限らない。
そして、彼女を不安にさせず、傷つけない選択肢を、私なら選べる。
片手で手繰り寄せたスマートフォンを開くと、時刻は二三時四〇分であった。迷わず常識改変アプリを開き、水面の前にかざす。少女は、ポカンとした顔で画面を見つめた。
『何も怖くないよ。キミは、何も怖がる必要はない。私がキミを、必ず助けてあげるから』
そして、指を鳴らす。この暗示は、彼女と別れる前に解かなければならない。
「気分はどうだ」
「なんだか、不思議な気分。迷いが晴れた感じというか、落ち着いたというか。ありがと、楽になったかも」
水面はぎこちなく笑う。まだ心の深いところに恐怖が残っているのだろうか。そう感じたのもつかの間、勢いよく立ち上がると「寝るなら鍵は閉めときなよ、おじさん」と生意気に部屋から出ていった。まったく、センチメンタルだがお転婆だかわからない奴だ。
改めて鍵を閉めると、今度こそ私は深い眠りについたのであった。次の日までの間に起きていたことなど、そのときの私には知る由もなかったのだ。
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2
人には誰しも、他人には知られたくない秘密というものがある。
例えば、私にとってそれは、異性に対して抱く情欲の類であったり、狂気的な暴力衝動や乱心のことであったりする。
現実、それを恥ではないとしている人はためらいなくするであろう、男性としての権力の誇示や弱者の蹂躙といったことを、私は避けて生きてきた。誰かに手を差し伸べたり、見捨てなかったりしたとき、人は私を優しいと称賛した。しかし、それは表面的な賛辞であり、実質的な私の内面というものは誰に理解されるでもなく、また誰に理解してもらおうとも思わなかった。優しいから助けるのではない。助けないことは罪であるから、そうするほかにないのだ。正しくあろうとする呪いが、私にはかけられているのだ。自分の中の正しさを曲げることはできない。
それがたとえ、私の首を絞め、四肢をもぎ、感覚を奪ったとしても、私の人生にはその苦痛が必要であったと思うほかにはない。
気持ちの良い目覚めではなかった。まぁ、悪い目覚めでもなかった。ただ、目が覚めたのだという感覚がやってきたというだけだった。
暖かくも寒くもない。空調もないのにこうした建築の妙には感心するばかりだ。単にそういう気候であるのかもしれないが、見知らぬ環境では良い風に思いこんでいた方がなにかと気分がよくなる。文句ばかり言っても仕方がないのだ。
目覚めたのだから朝なのだろうが、どうにも雨のせいで実感がない。部屋に置かれた時計を見ると、時刻は八時を回っていた。とにかく着替えてダイニングルームにでも行ってみようか。誰かいるかもしれないし、誰もいないというならだれよりも早起きであったという優越感と共に二度寝を決め込もう。
そんなことを考えながら一階に降りると、ダイニングルームの入り口扉がうっすらと開いていた。中から柔らかな光が漏れている。
「皆さん、お早いですね」
そう声をかけながら、その場にいた三人に声をかけた。
「おはようございます、山下さん。どうにもキャンプの癖か、日の出るくらいの時間に起きてしまって、ダイニングでくつろいでいたら江藤さんと狗山さんがいらしたものですから、のんびりおしゃべりしていたところなんです」と三田。
「ちょうど、朝ごはんの支度をお願いしたところです。山下さんも是非お席に」
「ああ、それなら水面を呼んできますよ。どうも、大人の方が朝は強いようですから」
「どうやろな、案外嬢ちゃんの方が、娯楽室なんかで夜を明かしてるかもしれへんけど」
江藤が意地の悪い笑みを浮かべるのを背にして、二階に戻る。
水面の割り当てられていた個室に大きめにノックして声をかけてみるが、反応がない。少し逡巡した後、ノブをひねる。扉は、開いていた。
正確に言うならば、開け放しにされていたというのが結果的だろうか。中には昨夜水面が着ていた服が置かれているだけで、ほかにはこれといったものはなかった。端的に言えば、水面は部屋におらず、盗られるものもないから部屋は開け放しだったというわけだ。
肩透かしを食らった気分で部屋を後にする。まぁ居ないとは思うが、見当のつく場所もないし、娯楽室を見に行ってみるか。そう思いながら階段を降りる。
もし江藤の言うように水面が娯楽室で夜を明かしてダーツやビリヤードなんかをするような人間であったのなら、何と言ってやろうか。それこそ常識改変アプリをちょちょっと使って、面白いように使ってやろう。
今度は私が、意地の悪い笑みを浮かべながら、娯楽室の前に立つ。常識改変アプリを開き、すぐに使える状態にしておく。悪い子がいたら容赦はしない。私の力をなめるなよ、なんて家族という設定は瞬く間に水泡に帰したというのに、兄だか父だか分からない、つまらない独占欲のような妄想を働かせながら扉を開いた。
そして、私が娯楽室で目にしたのは、少女の真っ白なふくらはぎ、太もも、無造作に広がったスカート、控えめな尻、惜しげもなくさらけ出された脇腹、触れば折れそうなうなじ、ゴッホの描く糸杉のように渦を巻いた長い黒髪。詰まるところ、うつぶせになった水面の姿だ。
私はまず困惑する。これは何の冗談だろう、と。
近づき、跪いて彼女の肌に触れる。ぞっとするほど冷たい。触れた傍から、私の手まで凍っていきそうなほどに、体温を感じられない。
現実を逃避するように少女の内腿を何度もさすっていると、不意な足音が意識を呼び戻す。
「山下さん!あなた、何をしているんですか!」
思わず振り向くと、そこには恐怖と驚きの目でこちらを見つめる江藤と三田の姿があった。
「その子、死んでるんやないか……なぁ、山下さん、あんた……」
江藤は虚ろに、しかし確かにこちらを刺すように声を震わせる。三田は水面が死んでいるという事実が受け入れられずに、江藤を一度振り返り、それから私を侮蔑するような目で見た。
私は、江藤がそれ以上何かを言う前に、そして自分の口と手が怯えや当惑ですくむ前に、スマートフォンを目の前にかざした。二人の目線がこちらに集中する。
『私は、探偵です』
即座に内ポケットのMP3からどこか西洋のあたりの民俗音楽で使われるような木管楽器の旋律が一音流れる。音が終わると同時に、素早くスマートフォンをポケットに入れる。
「お二人とも、落ち着いて聞いてください。彼女は、小鳥遊水面は死んでいます。これは、殺人事件です。ここは、探偵である私が調査をいたします」
きわめて冷静な口調で、いつもそうしているかのように、私は告げる。
「……山下さん。あなた、探偵って……でも、どうしてこんな山中に?キャンプをしに来られていたのですよね。」
「ええ、それもありますが、実は別件である事件の調査のために来ていたのですよ。まさか、その道中でこのような不幸に合うとは思いませんでしたが」
「あんた、探偵って。事件ってまさか……いや、ほんまに探偵ってのは事件を引き寄せるんやな」
「そんなことを言っていられる状況でもありません。この洋館は、大雨で交通の遮断された、いわゆるクローズドサークル。すなわち、この中に犯人はいるのですから」
暗示によるなりきりは、とにかく最初の印象が大事だ。これは当然のことながら、暗示とは関係のない社会生活においてもそうであるように、第一印象において不審なものは、いかに暗示で思い込んでも不審に思われてしまうのだ。その不審さを後から解くには、作為的に見えないようにそれとなく日常的な行動で改善するしかない。
ともかく、うろ覚えの探偵知識というか、それっぽいことを言うほかにないのだが、この私自体の怪しさを取り払えるのは『探偵』という要素にしかなしえないはずだ。仮に『私は刑事だ』などといえば、警察手帳を持たないことを真っ先に怪しまれてしまうし、『私が犯人ではない』と暗示で信じ込ませても、人狼ゲームで潔白が証明された市民のようにあっという間に狼に殺されてしまう。いや、それは探偵も同じなのだが。
遅れて、部屋に狗山と長良橋がやってきた。
「皆様、この状況は一体……」
「狗山さん、これは殺人事件ですよ。人が殺されているんです。まずは、遺体の状況を調べます。それと、しばらくこの部屋で一人にさせてください。不安でしたら、変な物音なんかがしないか扉のとこに誰かを番させてくれたって構いません。それと、できれば全員で固まっている方がよいでしょうね。バラバラになったら、犯人が証拠を隠してしまうかも。そう、現場保存というやつです」
私は思いつくままにべらべらとしゃべり、とりあえずは落ち着いて考える時間を得ることに専念した。こんな状況で、誰が犯人かなど考えていられない。そもそも、なぜどうやって水面が死んだかすらわからないのだから。
私は改めて、少女の死体を見た。
そうだった。おそらくは犯人というやつに私はハメられたのだ。
不幸にも彼女を呼びに行ったところに、すでに死体となった彼女を発見した挙句、死体性愛よろしく冷たい体を撫でまわしていると勘違いされたところ、唯一の悪運として常識改変アプリによって、自分が探偵であり死体を調べているのだという暗示に成功したのである。
とはいえ、やはりまずい状況なのには変わりがない。探偵が卑劣な犯人に負けるということも往々にしてありうるのだ。というか、もうすでに負けかけている。私は、探偵ではないから仕方のないことか。
……見方を変えてみよう。卑劣なのはそう、犯人の奴だけではない。常識改変アプリなどという小狡いものを、私は使えるのだ。とりあえずは命がかかっているときに、お金のことなど気にしてはいられない。暗示の回数を増やすべきだ。
私は、逸る気持ちを押さえながら、尻ポケットからスマートフォンを取り出す。やけに時計の針がうるさく聞こえる。
アプリを開くと、画面にはいつものように課金を催促する広告群が表示されている、はずだった。そこに表示されていたのは、薄水色の四角形に数色の円が隅に集められた、端的に言えば、画像の表示に失敗したことを表すアイコンだ。何度再起動しても、画面は変わらない。
「圏外……か」
絶望ではない。途方に暮れてしまう。
電波が悪く、アプリは自動的な更新以外の機能を制限される形になっていた。少なくとも、この館にいる間はアプリのアップグレードはできないようだ。
もちろん、外に出ようにも昨日から降り続く雨の影響で外に出ることすらままならないだろう。仮に電波の通じる場所まで足を運べたとして、雨中の山では私の命の方が保証されない。殺人が起こったからと何かしら理由をつけて館を飛び出すなど、不幸にも死んでしまう人間の前振りとしては上出来すぎるほどだ。
それに、限られた残りの人間を置いて、私だけが外に出るというのも悪手だ。残された私たちの中に、必ず犯人は潜んでいるのだから。
「そろそろ、なんか分かりはったか?」
扉の向こうから焦るように江藤が急かす。
「ええ、もう少しです。もう少しで、そう、死因がわかりそうです」
「ほんなら早くしてくれや。こっちも落ち着かれへんやろ」
慌てて返事をしたものの、実際のところ何もわかってはいない。とにかく、水面の死体を俯瞰してみることから始めてみよう。
少女の死体は、娯楽室に倒れている。
服装は、初めて会った時と同じ制服姿だ。全身はだらんと投げ出され、力ない様子である。長い黒髪は体を動かせばさらりと水のように流れるであろう、根元から毛先まで絡まりなく広がっている。
改めて全身を見ると、奇妙なほどに外傷がない。制服の下を確認しても、内腿、二の腕、手首に見られる古い切り傷を覗いて目立った傷はない。試しに、そう何らかの弾みに証拠が見つかるかもしれないという希望を込めた試しとして、彼女の内腿の切り傷をなぞってみる。
それは浅く、しかし確かに裂断の感触が指先に伝わるような傷の残り香の様だった。痛々しくも甘酸っぱいような、こちらまで息の詰まるような深刻さと思わず嘆息してしまいそうな軽薄さの同居した奇妙な感覚だ。今にもなぞった先から血が噴き出しそうな生々しさでありながら、すでにぴったりと閉じた表面は、その傷がかなり古いものであることを示している、と思う。そっと這わせた指がスカートの裾に触れたところで、はっと我に返る。今は調査をしているところなのだった。
当然のことながら、見てわかる範囲で出血している様子もない。触ってみた限りでは、打撲痕のようなものも感じられなかった。死体というよりも、本当に眠っているような外見である。
総合的に、というか傍から見ても死因は毒や中毒の類だろう。
時間帯は、昨日の深夜から今日の早朝にかけて、具体的には私と別れた後から、江藤・狗山・三田が集まったという日の出前の時刻まで。残念ながら、死斑や死後硬直といったドラマでしか聞かないような専門的なことまでは、私には見当もつかない上、インターネットの使えないこの洋館では、調べて照らし合わせることすらままならない。しかし、死因が毒だというのならば、これはある程度計画的な犯行ということにならないだろうか。山中に構えられたレトロチックな洋館に、人を殺すような毒が常備されているものだろうか。ましてや、キャンプをしにやってきた旅行者が、鞄にひっそりと毒を忍びこませていたとでも考えるべきか。どちらも可能性は低い。
とはいえ、そうなると、偶然にもこの洋館にたどり着いたはずの水面という少女を、計画的に殺す動機があり、周到に準備をする時間があった人物がいることになってしまう。それもまた考えにくい。ともすれば、そのすべてを包含するような偶然が、この洋館では起こったというのだろうか。
私は、水面の死体を調べることを中断し、娯楽室の扉を開く。外で待っていたらしい江藤と三田が、こちらを振り向くと縋り付くようにすり寄ってきた。
「探偵さん、水面ちゃんがなぜ亡くなったのか、わかったんですか」
「もちろん。ですが――」
確かなことはわからない、などと言っても仕方がない。だが、わからないものは逆立ちしたところで見えてくるはずもない。
「——それはまだ、語るべき時ではありません」
三田の問いに、果たして私は探偵を演じざるを得ないのだった。
水面の遺体は、いったん彼女の個室に運んでおくことになった。狗山の言うところでは、明日の朝には雨も止み、帰ることができるようになるだろうとのことだ。警察を呼び、彼女の遺体を運ぶまでの一時避難というわけだ。江藤と二人で二階まで運んだ体は、存外軽かった。最近の若者は不摂生なのだろうか、見た目よりもかなり軽く思えた。「死体ってこんな冷たいもんやねんな~」などという江藤の気の抜けた、というかかなり非常識な発言に、しかしながら、私は水面の死という非現実を改めて実感させられたのであった。
遺体を運び終えた後、全員でダイニングに集まるように指示する。本当ならば、発見現場となる娯楽室の捜査をするべきなのだろうが、彼女の体に外傷が見当たらない以上、娯楽室に痕跡が残っている可能性は低いと判断するほかになかった。ほかになかった、というのはあくまでも私の所感であり、実際にはそう、気が動転していて正常な判断ではなかったと言ってしまっていい。かといって、どうすればいいのか、判断を仰ぐ相手もおらず、ひとまずは全員にアリバイを聞くことにしたわけである。
結論から言って、全員のアリバイがはっきりとすることはなかった。そう探偵小説でもあるまいし、うまく読者が推理できるように巧妙な時間割で風呂に入ったり、階段を上り下りしたりしていたわけではないのだから、当然と言えば当然のことだ。
まず、館に来た時から指の一本すら見ていない狗山家のご婦人とそのご息女。二人は部屋から動くことはないはずという主人の証言のみで、かといって取り立てて怪しいわけでも、接点があったわけでもないかという納得に落ち着いてしまった。
次に、三田だが、彼女は食事のあと部屋に戻り、日課であるところの体操やらストレッチなんかをしていたのだという。それから、誰かと話せないかとダイニングに行ってみたものの、そこには誰もいなかった。ダイニングの振り子時計は、二二時過ぎだったと思いますと彼女は話した。食事を終えたのがちょうど一九時くらいであったから、彼女は三時間ほど部屋にいたことになる。「まぁでも、寂しかったので少し暖炉にあたって気を紛らわせようと思って」というのはキャンパーの性なのだろうか。ともあれ、しばらくはダイニングにいたというわけだ。
そうだ、と思い出したように言うと、水面ちゃんとすれ違ったんです、と重要なことをさらりと言う。
「一息ついて、部屋に戻ろうとしたときに、階段で制服姿の水面ちゃんとすれ違ったんです。まさか、こんな風に証言みたいになるだなんて思ってないから、表情とかそういうのは全然覚えていないのですけれど」
部屋に戻った後は、ゆったりとした森林の環境音を聞きながら就寝したという。その間に、何か物音なんかも聞こえたわけでもないそうだ。
「というかこのお家、ホテルなんかよりもよっぽど快適ですよね。音漏れとかも気にならない感じで」
今のこの、行きずりの少女が何者かに殺害され、あわやその嫌疑を自分が背負いかけているという事態でなければ、この館の防音設備を設計した者を手放しで称賛したいところだ。
江藤については、ほとんど情報がなかった。要するに、ずっと部屋にいたというのだ。私自身も、部屋で寝ていたというほかないため、そのことを責める立場にはないが、どうにも推理が進まない。
狗山は、食事のあと、時間を取って娘と妻とにそれぞれ食事を介助していたという。二人分の介助が終わったのが二〇時過ぎだという。それから娯楽室でしばらくビリヤードをしていたらしい。「確か山下様ともお会いしましたよね」という狗山の言葉にうなずく。それ以降は誰とも会っておらず、行動の証明は難しいという。
手詰まり。悲しいことにそう形容するしかあるまい。そもそも行動が怪しかったとして、この場にいる誰にだって、水面を殺すような動機があるとも思えない。仮にその理由を誰かに求めるのであれば、それは誰だっていいのだ。誰にだって彼女を殺してしまう動機があったと言えるし。誰にもそんなことは言えない。
「探偵さんもお悩みの様ですし、ひとまずは昼食にしませんか。疑心暗鬼になるのも仕方ありませんが、それとこれとは別の話でございましょう」
どんよりとしていた空気は、狗山の言葉によって、一旦の区切りを迎えた。
「明日には道も戻るでしょうから、捜査やらはそのときに警察の方々にお任せすればよい話ではありませんか」
狗山は、あたかも水面の死など何でもないかのようにそう告げたのであった。
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3
この洋館の見て回れる範囲、正確に言えば、一日目に水面が行ったであろう娯楽室、浴室、ダイニング、自室は隅から隅まで見て回った。
探偵というのは、もっとこう、上手いこと筋道を立てて調査したり、偶然にも証拠品を見つけてしまうみたいなものだと思っていたが、所詮は偽物の探偵だ。結局、一日かけても何も見つからず、三田の「むしろ現場を荒らす形にならないですかね」という言葉にすっかり意気消沈してしまい、私は自室で一人、寂しい夜を明かそうとしている。
まぁ、ともあれ明日になればまた暗示が使えるようになる。一度だけだが、上手く使えば犯人を自白させることもたやすいだろう。そうだ、私にはこの常識を改変する暗示があるのだ。なぁんだ、何も恐れることはない。
だがしかし、なんだろう。この心の底の方を冷やすようなうすら寒い感情は。
恐怖。言ってしまえばその一言に尽きる。しかし、何に対して、どのような恐怖を私は抱いているのだ。
スマートフォンを開いて時刻を確認する。二三時四〇分。偶然にもよく見る時刻である。後二〇分すれば、昨日のこの時間に私に対して助けを求めた少女を、何の証拠も残さずに殺した非常識な不届き者の正体を明らかにできるのだ。
少しここで、現実逃避を挟ませていただきたい。
犯人が明らかになるということはつまり、水面の死が確定するということであり、事によっては、堂々たる態度で彼女の死をつまびらかに解説されてしまうかもしれないということだ。
それこそ探偵小説なんかなら、手口や動機なんかが明らかにされれば、さぞ気持ちの良くなることだろう。謎が解けるというのは、胸のつかえや疑心や恐怖から解放されるということなのだから。しかし、現実において、行きずりとはいえ目をかけていた少女が、己が至らなさゆえに殺され、その死を目の前で解剖されるなど、侮辱と言わずして何とするというのだ。探偵だ何だとうそぶいているが、謎が解けようが解けまいが、私はすでに負けているのだ。私の探偵としての物語は続いても、水面の人生という物語は決して続かないのだ。人は死んでしまえば、それで終わりなのだ。それが常識なのだ。
だから、一度現実逃避をする。つまるところ、もしかしたら水面は生きている、という妄想をしてみる。
思えば、体を調べたり運んだりしたものの、脈を測ったり、心臓が動いているか確かめたり、息をしているか確かめたりはしていないのだ。なぜしていないのかと問われれば、私自身の保身と楽観視のためだ。昨日の夜、彼女のためを思うと言いつつも、彼女を部屋に置かなかったように、私は、彼女自身に触れることを躊躇した。もしかしたら彼女は生きていて、後になって彼女の体に触れたことを言われて赤っ恥をかくかもしれない、なんていう平和ボケした楽観視とともに。
もし、水面が生きていたとしたら、この先どうしていただろう。
当然誰かが死ぬなんて言う物騒なことは起こらず、不幸中の幸いというかキャンプには行けなかったが、品のある洋館でもてなされ、少女と奇妙な縁を結ぶという経験を得る。ともすれば、事あるごとに呼び出され、便利なアシとして使われたり、今度は偶然なんかではなく、予定を合わせてどこかへ旅行へ行ったりなんかして。行ったりなんか。そう、イタリアなんかどうだろう。海外に行くとなると、ビザやパスポートが必要になってくる。そうしたら、水面のご両親はどう思うだろうか。
そう、ご両親。
私は、くだらない妄想を野放図に広げながら、彼女の遺体をフラッシュバックする。彼女の体に見られたいくつかの傷。数日前のものだと思われ、少なくとも事件とは関係ないと見過ごしたが、彼女の体には、一見するだけでは見えないあちこちに、青あざや切り傷がみられた。
彼女はたしか、人に会いに来たのだといった。SNSで意気投合した誰かに。車内では思わず、なんと非常識な少女だと激高したが、彼女には彼女なりに、そうせざるを得ない事情があったのだろう。もっとも、見知らぬ誰かに会わざるを得ない事情などはないと、私は思う。だが、そんな非常識な行為が救いだと見紛うほど、彼女は追い詰められていたのかもしれない。
もし、彼女が生きていたならば、私は、彼女が家庭において抱えていた問題を、解決してやれただろうか。ただの行きずりの中年が、彼女に何かをしてやれたのだろうか。
そんな今となってはどうしようもないようなことで悩みながら、二日目の夜を明かした。
**********************
目覚めの悪い朝だ。それもそのはず、時刻はいまだ五時。太陽ですらようやく起きようかという時間だ。普段であれば、迷いなく二度寝を始めるのだが、ふと昨日の三田の発言を思い出して、ベッドから這い出す。彼女は確か、日の出るくらいの時間にはダイニングにいたと言っていたのではなかっただろうか。
やはりというか、さすがというか、ダイニングには狗山と三田がいた。私の姿を認識すると、長良橋が追加でコーヒーを持ってきた。
「山下さん、今日はお早いんですね」
「ええ、まあ。何というか、あまり眠れなくて」
半分本心、もう半分は疑念だった。本当に彼らは朝からいたのだろうか、そして、朝から何をしていたのだろうかという疑念だ。三人が共犯という線は、今日も私が生きているという点から、無いとみてよいだろう。三人ともが犯人であるならば、私を生かしている理由も、犯人を追及せずにいる理由もない。
果たして、私の疑念は空振りに終わった。穏やかな朝である。雨も止み、静かに暖炉は燃え、鳥の声が聞こえてくる。そう穏やかで、静かな朝だった。
「昨日も、こんな風だったのですか?」
「こんな風、と言いますと」
私の何気なく出た言葉に、狗山が反応する。コーヒーの苦みが、冷たく舌をしびれさせる。
「いえ、昨日の朝もこのように静かだったのかと思いまして。私が降りてくるまでは、三人でおられたのでしょう?」
「ええ、まあ。昨日はどうにも雨の音が耳に入ってきましたから、今日ほど心地の良い静寂は感じられませんでしたが」
狗山がしみじみとコーヒーをすする。カップがコースターに着くカシャンという音と合わせるように、三田が思い出したように言う。
「そういえば、今日はまだ、江藤さんは起きてこられてないですね。昨日なんか、私よりも先にここにいたものですけど」
彼のことだから、水面の死体を見て気を病んでいるなんてこともないだろうし、ただの寝坊だろうか。いささか寝坊というには早すぎる時間ではあるが。
それから、しばらく経っても江藤は起きてこなかった。むしろ彼のことだから、起きていても面倒で部屋から出てこないなんてことの方があるかもしれない。とはいえ、朝食の時間には降りてきそうなものだが。
「そろそろ朝食の時間ですし、呼んできましょうか」
狗山がそういって席を立とうとすると、折角ですから、と三人で呼びに行くことになった。
年長の功というか損というか、彼に呼びかける役は私がすることになった。
「江藤さん、熟睡しているならば申し訳ないのだが、朝食にしないか。幸いにも雨は止んでいるし、早いうちから帰り支度をしようじゃないか」
最初は優しく、しかし反応がないため徐々に激しく扉をノックする。それでも何の反応もない。私は不審に思い、後ろに立っている二人と顔を見合わせた。
私の渾身の呼びかけにも微動だにしないドアと、改めて相対する。まさか、と思いながらドアノブに手を伸ばす。
ひんやりとしたドアノブは、まさに赤子の手を捻るように、容易く捻られた。背筋にイヤな汗が垂れるのを感じる。
私はゆっくりと、扉を開く。思えば、先に水面の部屋を見ておくべきだったのだ。帰り支度というのなら、彼女の支度を先に済ませておけばよかったのだ。そうして彼女の部屋を訪れていたならば、多少は心の準備というものもできていたはずなのだ。
部屋は薄暗く、カーテンが閉められていることがわかる。扉を抜けて正面に鏡台のついた机がある。しかし、今は鏡に私の姿は映っていなかった。鏡に幕が降ろされていたわけではない。鏡の正面に置かれた、いや吊るされた大きな影。その影、変わり果てた姿の江藤が、私と鏡の間にあったからだ。
死、というものは、非日常のものであり、非常識のものである。しかし、どうやら、慣れというものは恐ろしいもので、目の前で吊るされた江藤が、すでに死んでいるということを、私は常識的に理解してしまっていた。
縊死、あるいは絞殺された死体を発見したときの常識とは何だろう。その肉体に一切の力が感じられない、重力というものに流されているように思えたら、それはもう死んでいると言って良いのだろう。息を吹き返すことを信じて、縄なりロープなりを切り、哀れな被害者を地面に寝かせるのが第一だろうか。呼ぶべきなのは警察だろうか、救急車だろうか。
————もしその縊死体のそばに、別の死体があったとしたら、どうだろうか。
縊死は、足元の何者かを殺したことへの自責の念に耐えきれなくなったために行われたのだ。これは、自殺に間違いない。そう考えるのが常識だろうか。
私は、江藤の足元、の机の足元を見た。彼の荷物だろうか、大きなキャリーケースに、少女の四肢が詰め込まれていた。無造作に、乱雑に、無秩序に、無配慮に。
四肢の上に、ぽつんと顔が置かれている。顔が、こちらを見ている。
小鳥遊水面が、こちらを向いている。ぽっかりと空いた眼窩の奥に、私は吸い込まれるように感じた。
私は、ゆっくりと、しかし確かな一歩を、江藤の縊死体に向けて歩み始める。後ろから、状況を理解した三田の悲鳴がか細く聞こえる。
机の上には、一枚の手紙が置かれていた。江藤の体液で、ところどころ染みになっているが、読むのには不自由ない程度だった。
「私が小鳥遊水面さんを殺しました。この館に来た理由は、元々、下界でニュースになっている少女の連続誘拐事件の捜査の目から逃れるためです。
山奥のこの館は、捜査から逃れる良い場所であると思い、主人を脅して、居座るつもりでいました。しかし、大きな誤算がありました。探偵さん、あなたのことです。ある事件を追ってと言っていましたが、おそらくそれは、私のことでしょう。私の人生も進退窮まったものだと思い、最後に水面さんを殺し、昨夜は存分にその若い体を楽しみ、私がこの館に連れてきた少女と同じ場所へ、ご覧のように送ってあげました。じきに私も参ることにします」
私は、手紙から視線を外すと、机の一番上の引き出しを開けた。そこには来客用の設備としてハサミが入っているはずだった。私はゆっくりと、丁寧に縄を切り、江藤の死体をベッドに寝かせ、「狗山さん、申し訳ないが今すぐ警察に来てもらえるように連絡してもらえないか」と言う。主人は、分かりましたと平坦な声で言うと一階へと降りていった。私は、右の拳を強く握った。
これは、侮辱である。探偵を偽った愚かな私と、大人に騙されて哀れにもその命を落とした水面への。
しかしながら、私にはそれを糾弾する術がない。何者かの掌の上で踊らされたこの吊るされた男に、すべての罪を擦り付けることしかできないのだ。だからせめて、拳を強く、ただ強く握った。昨夜の非常識な妄想を引き継ぐならば、この時、水面を殺した犯人という存在を私が認識したことで、疑いようもなく小鳥遊水面の死が確定したと言えるだろう。
**********************
4
数時間の後、洋館に警察がやってきた。洋館の正確な場所は私にもわかっていないが、おそらく県外の刑事だった。連続少女誘拐事件の担当なのだろう。顔に疲れの見える男は、使い古したロングコートに血が付くことも厭わず、江藤の死体、そして水面の死体を入念に調べた。本来の捜査というのはそうして行うのだと、一時は探偵を詐称していたくせに門外漢のような感想を抱く。
江藤の遺書を裏返したり、電灯に透かしたりしながら何度も見た刑事は、「遺書の内容に、皆さんから見ておかしいと感じた点などはありませんか。些細なことでも構いません」と聞いて来た。私たちは一様に首を振る。おかしな点は当然ある。
彼の日常的な口調と、文体の違い、水面の死体には少なくとも昨日の時点では強姦の後は見られなかったこと、彼が探偵という存在を恐れていたということ。しかし、それらを指摘することは、自分が江藤を殺したのではないかという疑いを強めるだけで、意義の薄いことだと感じた。
「彼が私の追っていたホシであることは、間違いないようです」
刑事はそう言い残し、遅れてやってきた仲間の捜査関係者と共に江藤の部屋から証拠を余すことなく持ち帰った。水面の死体もまた、ほかの少女と同じように回収された。それぞれできるだけきれいな姿に戻してから家族に対面させることになるそうだ。
「酷なようですが、もう少しこの洋館に留まってから帰ることをお勧めします。山道はまだ不安定ですから、気持ちが動揺しているままで運転されるのは危険です。ひとまずはご自分の身を大事になさってください」
刑事はそう私に言い残すと、もう少し事情聴取をします、と狗山をどこかへ連れて行った。
私はどこか気が抜けたというか、緊張がほどけてしまい、自室に戻ることにした。回らない思考をそのままに、半ば放心状態で荷物を整理する。この館に入ってきた時よりも、少しだけ荷物が少なくなった気がした。
そうだ。水面に貸したアウターを返してもらっていないのだ。
私はそこで我に返る。彼女の死は、江藤の凶行と自殺によって片づけられてしまうだろう。連続少女誘拐殺人事件のかわいそうな被害者として注目を浴び、そして、やがては誰の記憶からも忘れられてしまうだろう。その真実は二度と明かされることはないのだろう。
「そんなことは、させない」
私は常識改変アプリを開き、そして画面を閉じた。
私は、探偵ではないのだ。これからすることも、探偵として謎を解くためではない。私が、私自身の常識から逸脱しないために、彼女の死が改変されてしまうことを止めるのだ。
意気軒昂に部屋を飛び出したものの、特にあてがあるわけではなかった。ただ、手のひらを返すようだが、探偵的直感に従うならば、秘密のある場所に手掛かりを求めるべきだろう。
私は、刑事が狗山に話を聞いていることを確認したうえで、狗山の自室を探ってみることにした。場所を知っているわけではないが、捜査の時に入っていない部屋のいずれかが当たりのはずであった。
そうして、廊下に並んだ三つの扉を私は眺める。彼の談を思い出すならば、婦人と息女の部屋が並んでいるのだろう。家の中に警察が入ってきているというのに一言どころか息遣いの一つも感じないというのはやはり妙である。二晩の宿を借りた身であるからと詮索はしなかったが、こうして隠蔽が重なると無視しきれない怪しさを放っている。
最も近い扉を無警戒に開けた私は、室内の光景に絶句する。
一言で述べるならば、狗山に妻は、さらに言えば娘も、いなかった。いや、今はもういないというのが、おそらく正確な表現なのだ。
女性の、というよりは中世の令嬢のためにといった意匠で、美しくもかわいらしくゴシック調で飾られた部屋には、いたるところに人形が寝かされていた。一見すると、人に錯覚してしまうようなそれらは、それぞれドレスを着て、ベッドにソファに鏡台に、生活のストロボかのように配置されている。
一歩近づこうとして気が付く。ツンと鼻を突く香水の匂い。それに混ざった腐敗臭。
思わず部屋にゾンビのように倒れる人形の一体を起こし、その体を触ってみる。その肌触りに言葉を失う。
これは人形ではあるが、マネキンでもラブドールでもない。
部屋の人形を半分ほど確認してようやく見つけた腐敗臭の正体。死体のような人形から見つけた、人形のような死体。その人形の太ももには、幾筋もの古い切り傷の跡があった。その傷跡に、私は見覚えがあった。それは犯罪の甘美さが、あるいは罪悪感がいつまでも気味の悪い感触として残るように、私の指先に思い出された。
「三田様は帰られましたので、山下様も帰られたのかと思っていましたが、まさか、ここにおられるとは。……探偵、でしたか。好奇心が旺盛なのは結構ですが、秘密の部屋を暴くのは、品がないですね」
不意を突いたのは、狗山の声だった。入り口を塞ぐように扉に背を預け、妖艶に笑った。
「これは、ご主人。釈明する気もないご様子で、ずいぶんと余裕そうですね」
私は、早鐘を打つ心臓を気取られないように彼に笑い返しながら、尻ポケットのスマートフォンに手を伸ばした。暗示をかけて凌ぐほかにない。だとしても、なんとごまかすのだ――。
「おっと。山下様、早合点はいけません。部屋の外に長良橋を待たせております故、私を懐柔したところであなたの安全は約束できませんよ。昨日はどうやら、うまくこなしたようですがねぇ」
狗山の言葉に絶望する。こいつは、知っているのか。常識改変アプリのことを。そして、私が探偵などと言う特別な存在ではないことを。
「な……んの話ですか。それに二対一であればそちらが有利、どうぞ出てきて私をひっとらえればいい。罪状はそうです、不法侵入とか。お嬢さんに触ってしまい申し訳ない」
「しらを切るならば構いませんが、山下様は不思議な暗示を使えるのですよね。そのような催眠術に似た眉唾のアイテムの噂は、こちらの世界でも耳にしたことがあります。なんでも使いようによっては神にでもなれるのだとか。探偵という自称は、たとえ本当であってもあれほど信じ込むというのは考え難い。とすれば、裏道があると考えるのは必定でしょう」
犬山はクククと笑うと、一歩私に近づいて来た。
「それに、その様子では、水面様のお体にもお気づきのご様子ではないですか。いやはや、探偵というにはあまりにも愚かですね。いえむしろ、探偵を自称したあなただからこそ、こうして最後には真実にたどり着かされてしまう、とでも言った方が良いでしょうか」
また一歩、狗山がこちらに踏み出す。
「私は、収集家なのです。人間というものは愚かで傲慢で腹の足しにもなりませんが、時に神から与えられたかのような美を体現した人間もいる。私はそのような美に愛された人間の体を収集しているのです」
「美学を語る割には、ずいぶんと小児性愛が過ぎると思いますね、変態紳士さん?」
私は部屋に置かれた人形たちを順に目で追いながら笑った。体躯から見るに、高校生かそれよりも若い、体のどこが切り取られたかを思考に入れれば、もっと幼い可能性すらある。
「負け探偵の遠吠えをどうも。あなたの喉も収集してあげたいくらいだ。それと、美しいものに年齢など関係ありませんよ。美しいものは新鮮なうちに保管するべきだ。腐った果実には、微塵にしても価値は生まれませんからね」
狗山は嫌なものを思い出したようにわずかに顔をしかめたが、すぐに不気味な笑みを浮かべなおした。
「江藤は、遺書に書いた通り少女を何人も連れこの館にやってきました。そして、しばらく匿えと私を脅してきたのです。彼はどこからかの情報筋から、ここが人形館であることを知っていたようでした。長良橋と二人とはいえ、彼を追い返すのは簡単ではない。彼は俗世の注目を浴びすぎていますから、殺して隠すには都合が悪かったのです。だから要求をのむことにしました」
「自白とは、ありがたいですね。探偵の役が奪われたようですが」
「まぁ、あなたにも関係のある話です。そこからは知っての通りですか、皆さんが雨に寄せられてやってきた。あなたが少女小鳥遊を連れてきたのです。彼女は一人でここを訪れるはずだったのですが、偶然にもたくさんの邪魔者がいた」
私は、来る途中の車内で彼女が話していたことを思い出した。
「あなただったわけですね、水面がSNSで知り合ったというのは」
「おや、ご存じで。……しかし、真実はそうではない。彼女は嘘をついていた。彼女は、小鳥遊水面ではなかった。彼女は、妹の名を騙ってここにやってきたのです」
水面が、水面ではなかった……つまり彼女は、匿名の何者かに騙され、会う約束をしてしまった妹の代わりに、ともすれば、妹を助けるためにあの雨の中を立ち尽くしていたというのか。
「あの夜、彼女は私の部屋を訪れて言いました。彼女の妹に送らせた写真を消せ、とね。ずいぶんと平和ボケした考えというものです。彼女は私が、品定めのために送らせた写真を使って妹を脅していたとでも思っていたのでしょう。
まぁ、予定外でしたがこの館には少女一人を隠す場所ならいくらでも、なんなら江藤に押し付ければ済む話です。彼は真正の少女性愛ですから、さぞ喜んだでしょう。ともかく彼女を一度捕まえてしまおうと思ったわけです。姉妹であれば体も似るはず、そうでなければ妹を脅す材料になります。事実、彼女の肉体は実に素晴らしかった」
狗山はそこで言葉を切ると、突然「ですが、ですがですが!!」と床を踏みつけ暴れ始める。
「彼女の身は穢れていた。純潔という話ではありません。彼女の体には、自傷の跡がみられたのです!
聖女にあって、生を諦めるなどは美に反するというもの。私はその悲しみに暮れ、この世界の果てまで運命のめぐりあわせについて思考を飛ばしておりました。いつのまにか組み伏せていた少女もおらず、逃げられたのだと遅れて察しました。しかし、運命とは実に数奇なもの、少女はまた、私の前に帰ってきたのです。その時、私の中の美に衝撃が走ったのです。彼女は戦士としての美を、こうして凱旋することで烈士たる姿を見せつけたのだと。私はその気付きで感涙にむせぶばかりでしたが、彼女を収集に加えるにはあまりに時間がなかった。ですから、眠らせたのです」
「は?」
私は思わず聞き返した。眠らせた、だと?それではまるで――————。
「ですから、眠らせ、娯楽室に放置した。その時に江藤に知らせ、あなたが見つけるように仕向けたのです。この館のことであれば、私が手綱を握れると判断しました。余談ですが、この時、江藤を始末し事後処理を任せる算段を思いついたのです」
「ちょ、ちょっと待て。それでは、私があの時調べていたのは――」
死体ではなかった。生きている、脈が弱いだけの小鳥遊水面だった。
もっと前提を、先入観を疑うべきだったのだ。犯人という汚名をすすぐため、探偵という自称に背かないため、私は、彼女の死体ということを疑いもしなかった。
それに、狗山の言う「凱旋」も、私のせいなのだ。私が、彼女を励まそうと、安易な暗示などに頼ってしまったばかりに、自分の力も彼女の力も信用しなかったばかりに、このような最悪の展開を生んでしまったのだ。
「探偵さんの言うことを信じ切った彼らは、随分と滑稽でした。まだ生きているままの彼女を部屋に運び、後はあるはずもない証拠を探す退屈な時間。おかげで、いい作品ができました。なにしろ、江藤の連れてきた少女は、見るにも耐えない醜悪な姿でしたから、その分彼女に集中できたというものです」
狗山の言う醜悪な姿とは、考えたくはないが、江藤が彼の欲望をぶつけた後の、ということなのだろう。あながち遺書のでっち上げは事実無根ではなかったらしい。
「それで、探偵さん。あなたはどうするおつもりなのですか。別に私はあなたを取って食おうというつもりではないのです。ただそう、探偵気取りのあなたに、真実を教えるというのも悪くはないと思っただけでね」
私は、どうにかしてこいつに一泡吹かせてやりたいと思った。
それは刹那的な願いであったが、ある意味で、常識的な、正義をなそうとした水面を愚弄して、美なんていう格好つけたことを言う狗山への反抗みたいなものだ。
水面、実際には水面なんて名前ではなかったようだが、彼女の死はもう変えられないことだ。その責任の一端は自分にもある。彼女の正義を私は応援したいと思ったのだ。そのために情欲を捨てて、彼女を助けようと思ったのだ。しかし、私のした、私の考えた常識的な行いでは、彼女の一つも救ってやれなかった。
ならば、そんな常識こそが改変されるべきなのだ。
「私は、探偵ではありませんよ。私は探偵ではありませんから、謎を解き明かすということには、あまり興味がないのです。しかし、探偵ではない故に、行きずりとはいえ、あのようにうら若い少女の身を預かることになった大人としての責務を自覚しています。彼女を美しく思い、情欲を抱いていた私には、あなたを責める資格はないのかもしれない。しかし、常識などという、私には何の利益ももたらさないようなもののために、私は自らの欲望を抑え込まなければならなかった」
私は、決心を固めるように息を深く吐きなおした。なるべくこんな時でも格好をつけるように、天国か地獄か知れないが、私に恨み言を吐いているかもしれない彼女のことを思い出しながら、私は続けた。
「もう一度言います。私は探偵ではない。だから、謎を解いてスマートにとはいきませんが、この身を、私の常識を投げうって、彼女の正義を守りたい。少なくとも、あなたには汚させない」
「大層な口上ですが、具体的にどうするのです。どうあがいても逆転はできないと思いますが」
私は、余裕そうに笑う狗山の目の前で、人形を片手で抱きながら、ゆっくりと立ち上がり、そして――ズボンを勢いよく降ろした。
「なっ!にをしているのですか!」
半裸になった私は、素早く人形に恥部を押し当てると、すべての思考を放棄し、一心不乱に人形——小鳥遊水面の体を舐めまわした。
「止めろ!今すぐその下劣で低俗な行為をやめろ!」
近づいてくる狗山の方に、固く屹立した愚息を向ける。彼は一瞬怯んだ様に立ちすくんだ。
外皮を一通り舐め終えると、私は滑稽な姿のまま、呆然と立ち尽くす狗山の方を見た。彼は震えていた。怒りからか、失望からか、あるいはその両方か。少なくとも一矢くらいは報いることができただろう。彼の尊厳はこれ以上ないほど傷ついたことだろう。まぁ、水面の尊厳も同様に傷つけてしまったことになるのだが。
結局のところ、悪いのは私なのだ。それだけの話のはずだ。最適解ではないとしても、彼女の選択は正しかったのだと言いたい。非常識な中年の男が、彼女の常識的な正義を遂行できなかったというだけだ。それも、結局のところは私欲を断ち切りきれなかったために。
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5
洋館には、専用の火葬場があった。洋館には、というよりも洋館に面したキャンプ場の敷地に、である。野生動物の処理や解体のための施設として紛れ込まされた中に、狗山が密かに死体を処理するために作っていたのである。
「言っておきますが、あなたに負けた、というわけではなく同情しているのです。正義がどうとか語りながら、あまりに非常識なことをするあなたに」
水面の死体、頭は江藤の死体と共に(そして少女たちと共に)警察が運んでいったが、体の方は、遺骨という形で骨壺に入れて引き受けることにした。というか、狗山がそうしろと脅してきたのである。
あの後、狗山は突然吹っ切れたようにため息をつくと、着いてきてください、と私を館の裏に連れてきた。私が当初目的としていた場所とは違うが、そこには別のキャンプ場があり、狗山の言では彼の私有地兼貸キャンプ場らしい。
「せめて火葬した方が、お嬢さんの穢れもよくなるでしょう。ともかく、館から離してもらえるとありがたいのですが」
彼女の骨壺を受け取ると、思ったよりもあっさりと狗山は私を見送った。長良橋がいつの間にか支度を整えてくれていたらしく、幸いにもレンタカーは借りたときと同じかそれ以上にきれいになっていた。
「これは私の携帯のアドレスです。素敵な少女と出会ったら……いえ、もし裏社会や犯罪に興味を持ったならば、多少は情報をお教えできるかと思います」
「随分と親切ですね」
「その代わり、二度とこの館には近づかないでください。汚い探偵さん」
「分かりましたよ。私も、二度と会えないことを祈っています」
そう言い残して、私は館を去った。もちろん、キャンプの予定は白紙である。
帰り道、パーキングエリアで休憩していると、見覚えのないアドレスからメールが届いていた。よく見ると狗山のものだ。
「あなたとこれ以上関わりたくはないので、今回の件については、このメールを最後にします。精々責務とやらに押しつぶされないよう、足掻いてみてはどうですか」
という厭味ったらしい文章と共に、ある住所が付されている。添付にはSNSのアカウントへのリンクが張られていた。辿ってみると、どうやら水面、本当の小鳥遊水面のアカウントの様だ。
私はよし、と誰にともなくつぶやくと、常識改変アプリを開き、プレミアムコースに契約した。そして、車に戻るとレンタカー会社に貸与期間を延長できるか交渉し、次なる目的地へと向かったのであった。
*******************
勇んで帰路をたどったものの、高速を進む中で、やはり私は部外者ではあるわけだから突然押し掛けるのもよろしくないのではないか、という実に意志薄弱な面が強くなってしまった。
結局、一度生家へと戻りキャンプの道具はすべて棚にしまった。家に帰ってみれば、未使用の寝袋やテント、飯盒やランプが酷く陽気な笑い声と共に私を嘲笑っているように感じた。一か月ほど綿密に考えたと思っていた計画すら、実際は一つも果たせていないのだ。それどころか、現実に私があの少女に作用させた常識の改変は、結果的に少女を死に追いやったようなものであった。
棚の奥から、もう何年も使っていない葬式用の礼服を取り出す。友人関係に乏しく、職場においては、上司が過労死したことすら葬儀の一週間後にようやく知ったような、喪に服す機会など身内以外に無い身である。一〇年ほど前に祖母が亡くなってから、喪服は棚にしまったままだった。あの時の私は、次に棚から取り出すのが行きずりの女子高校生のためであるなど、空想でも考えなかったであろう。
次の日、葬式に参列しようという気はさすがに起きなかったが、喪服を着て水面の住む町へ向かった。彼女の死を悼む気になれないというよりも、どんな顔で水面の葬式に行くべきかが分からなかったのだ。彼女とは、どこまでいっても行きずりの関係なのだ。彼女は私を守ろうとしたわけではなかったし、私も彼女を守ることはできなかった。
事件がどれほど報道されるのかは分からない上、葬式に顔を出せば、無遠慮な報道陣に囲まれる可能性もあった。そうなれば、私は水面を死の館へ連れこんだ犯罪者と非難され、そこに弁明の余地はないだろう。むしろ、私は非難されるべきなのだ。少女一人守れなかった弱く愚かで矮小な小心者だと、家族からなじられるべきなのだ。
だから、私自身の保身としては、葬式になど行かない方がよかった。テレビのニュース何かで少女の死を見て、そこらで生きている人々と同じように話半分で忘れていけばいい。そうして割り切るのが、個人の生き方としてずっと正しい。ずっと常識的だ。客観的に見れば、私と彼女に接点はないのだから。
だけれど、私は彼女の葬式に行かなければならないと強く感じていた。
それが、小鳥遊水面という少女に対する、私なりのけじめなのだと思っている。それは酷く偽善的で、私自身を納得させるための行為でしかない。しかし、そうしなければ、私の中で、この豪雨によってもたらされた一連の事件は、結末を迎えたと思いたくなかったのだ。さながら、完全犯罪を遂行した犯人が、手口をボトルに詰めて流してしまうように、私は哀れな被害者としての制裁を受け入れ、稚拙な加害者としての責任を果たさなければならない。
果たして、私は狗山から受け取った住所付近の式場を順に回っていった。小鳥遊水面という名前が偽名やハンドルネームである可能性もあったが、先に確認した住所の表札には、確かに、家族全員の連名の形で「小鳥遊水面」の名前は存在していた。
しかし、彼女の葬式はどこでも取り行われていなかった。私はまだ、両親ともに健在であることも影響して、喪主になったことがないため、葬式というものがどういった段取りで行われていくのかに明るくないが、それでも家族の死が分かれば、すぐにでも行われるものだと考えていた。
水面の死が未だ家族に伝わっていない可能性もあったが、江藤が連続誘拐殺人事件の犯人であったこともあり、すでにラジオでも報道され、被害者についても実名こそ出されなかったが少女の死を悼む文面が繰り返し流されていた。
私は結局、小鳥遊水面の生家を訪れることにした。これは、すでに義務感や責務と言ったある程度の偽善を越えた、私自身の興味や好奇心による行為だ。彼女の死は、どのように家族に受け止められているのか。彼女を守れなかった私を、どのように誹謗しているのか。彼女の親族から直接そうした嘆きや非難の声を聞くことで、私は被害者としての自責の念を強めようとしていた。そうして傷つくことで、彼女の死を納得しようとしていた。彼女の死は、私の弱さが原因であり、水面は彼女の正義に従って善く生きたのだと認めたかった。
再び訪れた小鳥遊家は、外から見ればほかの家庭と同じように生活を続けているようであった。何の変哲もない、かといって窮屈さを感じるほど厳かでも整ってもいない家だった。
インターホンを鳴らすと、まだ幼い声が返ってきた。推察するに、水面の妹だろう。「警察です。娘さんの件でお話を伺いたいのですが」と告げると、玄関の扉が開きおずおずと少女が出てきた。庭に面したリビングルームと思しき場所の電気がついており、両親のいずれかも家にいることがわかる。
ひとまずはこの少女を対処するべきだと思い、右手に構えていたスマートフォンを少女の方にかざすと、少女は画面を見る前に、まるで常識改変アプリのことを知っているかのように、両腕で目を覆った。
「やめて。あなたを信用したいの」
毅然とした態度で少女は告げると、続けて私に衝撃的な名前を口にする。
「私は、小鳥遊水面。あなたの認識では、妹ということになるのかな」
少女は、私がスマートフォンをしまうことを条件に、彼女の部屋へと私を招き入れた。
「警戒心が低いと思った?むしろ、それはあなたの方だと思う。あなたの手口はばれているわけで、それならいくらでも対策を練ることができるわ。勝手の知れた家の中の方が、ずっと私には安全。それに、あなたはお姉ちゃんの死をまだ納得しきれていないからここに来たのでしょう。あなたには、お姉ちゃんの運命を改変するだけ力はなかったのに、それをまだ認めきれずにいる。いまだにお姉ちゃんを救いたいと思っている。そんなお人よしを、私は信用してあげたいの」
少女はベッドに腰掛けると、私にそうまくし立てた。
「とりあえず、状況を整理させてくれないか。君は小鳥遊水面と言ったね。つまり、彼女、君のお姉ちゃんは、妹の名前を偽名として使っていた。そういうわけか」
「偽名というか、私に成りすましてあの館に向かっていたから、そう自称した方が、都合がよかったって言うことでしょうね」
「もう一点聞きたい。君は何らかの理由があって、私がこのスマートフォンを使って行う行為について知っているんだね」
「催眠術、みたいなものでしょう。あなたの言ったことを信じ込んでしまう、とかそんなトンチキなことを現実にしてしまう」
画面を見なかっただけで、暗示という核心まで知っていると決めつけるのは早計だろう、と判断したが、杞憂だったらしい。
どうにもあの少女は厄介な置き土産を残していったようだと、私はため息をついた。
「それで、水面。君は何の目的があって、私を信用したいだなんてことを言うのかな。君の言い方を見るに、どうにも私がここに来るということすら予想の範囲内だったみたいだ」
少女————この際水面と呼ぶのが良いのだろう————は待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべると、懐から取り出したスマートフォンの画面を見せた。そこには、SNSの会話画面が映されている。
「匿名の、と言っても、私をだましてお姉ちゃんを殺したクソ野郎のだけど、タレコミがあったの。私を救ってくれる格好いいおじさんが来てくれるっていう話だったけど、あなたみたいなさえない男だなんて思ってなかったわ、正直」
ずいぶんな言い様だが、事実反論できるような経験もないわけで、試すような目線から目をそらす。
「あなた、お姉ちゃんのお葬式にでも行くつもりだったんでしょう。でも、残念。お姉ちゃんのお葬式は開かれないわ。あの人たち、お姉ちゃんのこともう忘れちゃってるから」
「あの人たちというのは、ご両親のことか」
「…………そ。うちの親は少し前に変な宗教にはまって、それからおかしくなっちゃった。お金も権利も何もかも捧げて、今はリビングで儀式ってやつをしてるみたい。馬鹿らしいわよね。……そろそろ分かったかしら。あなたの催眠術ってやつを、私が知っていた理由」
水面は一瞬だけ床に落ちた自分の影に目を落とした。
「あいつら、名前も知らない宗教の教祖を名乗ったあいつらは、私のお母さんにスマホをかざしておかしくさせたの。ねぇ、あなたならあいつらのこと、何か知っているんじゃないの?同じようなことができるんでしょう」
思えば、最初からその可能性をもっと考えるべきだった。私だって、たまたま書店で見つけたような偶然によって出会ったのだ。そうした機会が、ほかの人間に無いということがあるわけがない。様々な場所、様々なタイミングで、同時多発的にこの常識改変アプリはまき散らされたのだ。
「悪いが、そいつらについて、私は何も知らないよ。強いて言うなら、もし最悪な偶然が重なれば、私がそいつらの共謀者になっていた可能性があるというくらいだ」
私は、小鳥遊水面という存在を悼み、弔うことで今回の事件を清算しようとしていた。妹である彼女の話を聞くのも、その一環であると。しかし、現実には、私はようやくこの常識改変アプリをめぐる数奇な運命の始まりに立たされたに過ぎないのではないだろうか。そんな嫌な予感に、背筋を冷たい汗が垂れていくのを感じた。
「————だが、それでも君を救うことはできる。きっと、救ってみせるよ」
それがきっと、あの小鳥遊水面が妹のふりをして、明らかな罠であるとしても、狗山の館を目指した理由なのだから。
スマートフォンはポケットにしまったまま、しっとりと湿った手を静かに握りしめる。それが偽りのない言葉になることを願いながら、一人の大人として私は微笑む。
「私は、探偵だからね」
部屋の照明が照らす私の影は、背を降って部屋の入り口までどこまでも伸びていくようだった。