第9話 離れられない家
翌朝、由美は不安を抱えたまま目を覚ました。
本当にすべてが終わったのだろうか?
昨夜、あのエレベーターでの出来事は夢ではなかった。
そして、窓ガラスに浮かんでいた**「まだ……終わらないよ」**の文字も──。
時計を見ると、午前8時を少し回ったところだった。
隣では美咲がまだ小さな寝息を立てている。
(この家を出よう)
もう決めた。
幸い貯金もある。無理をすればすぐにでも引っ越せるはずだ。
健二のことは……
──本当に、もういないのだろうか?
そう思った瞬間、玄関のインターホンが鳴った。
「……え?」
一瞬、時が止まる。
美咲はまだ眠っている。
恐る恐る立ち上がり、玄関へ向かう。
「どなたですか……?」
そう問いかけるが、返事はない。
インターホンのモニターを確認する。
……そこには、誰も映っていなかった。
ザザ……ザザ……
ノイズ混じりの画面に、何かがちらつく。
(おかしい……絶対に誰かいたはず……)
すると、ふいにモニターが一瞬暗くなり、
次の瞬間、黒く潰れた目の女の顔が画面いっぱいに映った。
「──ッ!!!」
とっさにモニターの電源を切る。
心臓が跳ね上がる。
ドアの向こう側には、あの女がいる。
(鍵は……閉めたはず……)
そう思った途端。
──カチャン……
内側から、鍵がゆっくりと開く音がした。
「……ッ!」
誰も触っていない。
由美は震える手でドアノブを押さえつけた。
すると、ドアの隙間から、じわじわと水が染み出してくる。
ポタ……ポタ……ポタ……
まるで、向こう側が水の底になっているかのように。
そして、再び、女の声がした。
「……もう……離れられないよ……」
ドンッ!!
突然、ドアが内側から強く叩かれた。
「やめて!! 来ないで!!!」
悲鳴を上げながら、必死にドアを押さえつける。
だが、ドアの下の隙間から、じわりと何かが覗いている。
──白い、細長い指。
「やめて……!!!」
恐怖で思考が真っ白になる。
すると、不意に背後から声がした。
「ママ……?」
美咲だった。
振り返ると、寝起きのぼんやりした表情で、こちらを見ている。
「どうしたの……?」
由美は、必死に笑顔を作る。
「大丈夫よ、美咲。ママがいるからね……」
そう言いながら、背後のドアを振り返る。
──もう、水の気配はなかった。
(消えた……?)
それでも、まだ恐怖は拭えない。
とにかく、ここを離れなければ。
「美咲、学校が始まる前に、ママと二人でおばあちゃんの家に行こうか?」
「え? なんで?」
「……ちょっと、ママが疲れちゃってね。気分転換しようかなって」
美咲は不思議そうな顔をしたが、コクリと頷いた。
(そう、今すぐ準備しよう)
そう決めた瞬間、リビングのテレビが突然ついた。
砂嵐のノイズが映し出される。
そして、ザザ……ザザ……という音とともに、テレビの画面の中に映ったのは──
水の底で、白いワンピースの女に抱かれる夫の姿だった。
「──ッ!!!」
映像の中で、健二は目を閉じ、無抵抗のまま、女に引き寄せられていた。
水の中で、夫の顔がゆっくりと女の肩に沈んでいく。
「やめて……!!」
必死に叫ぶ。
すると、画面の中の女が、ゆっくりと顔を上げた。
黒く潰れた目が、こちらをじっと見つめる。
「……おまえも……おいで……」
その瞬間、テレビが消えた。
部屋の中は、恐ろしいほどの静寂に包まれる。
「ママ……?」
美咲の震える声が聞こえる。
由美は、ゆっくりと娘を抱きしめた。
もう決して、この家にはいられない。
健二を救う方法はあるのか?
この呪いから逃れることはできるのか?
窓の外では、また雨が降り始めていた。
そして、遠くで聞こえる。
ポタ……ポタ……ポタ……
水の滴る音が、じわじわと、こちらへと近づいてくる。