第8話 深淵への扉
由美はリビングの窓から視線を外し、深く息をついた。
(もう逃げていられない)
夫の行方を追うこと。
そして、この“何か”を止めること。
自分と美咲を守るために、それをしなければならない。
ふと、視線を下げると、濡れた足跡がまだかすかに残っていた。
エレベーターの方向へと続くそれは、まるで何かがこの部屋を出て、どこかへ向かったかのようだった。
(この足跡をたどれば、何かわかるかもしれない)
ふいにスマホの画面を開く。
通話履歴には、**「健二(発信元不明)」**と記されていた。
番号が消えている。
(こんなこと……ある?)
ぞくりと背筋が冷える。
だが、もう迷っている暇はない。
由美は玄関の鍵を手に取り、ゆっくりとドアを開けた。
濡れた足跡を追う。
それが、この呪われた夜の始まりだった。
◆闇に沈む団地
廊下に出ると、団地の共用灯がぼんやりと暗く照らしていた。
エレベーターの前で足を止める。
──ドアの隙間から、まだ水滴がぽたぽたと落ちている。
(まさか……)
エレベーターの呼び出しボタンを押す。
カタ……カタ……
ゆっくりと、エレベーターが昇ってくる音がする。
数字がカウントアップし、止まる。
「5階」
ドアが開いた瞬間、
──エレベーターの床が、びしょびしょに濡れていた。
水溜まりの中には、夫の革靴が片方だけ残されている。
「健二……?」
恐る恐る中に足を踏み入れる。
まるで、何かがここで消えたかのように、残された靴だけがぽつんと佇んでいた。
──ピチャ……ピチャ……ピチャ……
水の中を歩くような音がする。
後ろではない。
前ではない。
真上から。
(……え?)
ゆっくりと顔を上げる。
──エレベーターの天井に、白いワンピースの女が張り付いていた。
黒く潰れた目で、にたりと笑う。
「──ッ!!!」
悲鳴を上げる間もなく、女の長い手が首に絡みついた。
ぐいっと、水の中へと引きずり込まれるような感覚。
視界が暗転する。
◆沈む記憶
水の中にいる。
そう感じた瞬間、由美の意識は過去へと引き戻されていった。
──10年前。
健二と結婚し、まだ美咲が生まれる前のことだった。
二人で初めて住んだ場所。
築年数の古い団地だった。
雨の日が多く、屋根からぽたぽたと水が落ちる音が、よく響いていた。
ある日、団地の近くで事故があった。
妊婦の女性が、水溜まりに倒れて死亡したのだ。
(……そうだ、覚えてる)
そのとき、誰かが言っていた。
「あの女、助けを求めてたんだよ」
「でも、誰も手を貸さなかった」
誰かが、あのとき笑っていた。
「ああいうのが水に引きずり込まれるんだ」
(違う、違う、私は何も知らなかった……!)
だが、耳元で囁く声がする。
「あなたも見ていたでしょう?」
「でも、何もしなかったでしょう?」
(……見ていた?)
(……私が?)
映像のように過去の景色が広がる。
団地の階段の隙間から、雨に濡れた女が倒れているのを見た。
うつぶせのまま、微かに手を動かしていた。
「……たすけ……て……」
(あ……)
そのとき、確かに私は、立ち止まっていた。
でも、怖かった。
何もできなかった。
そのまま、その場を離れた。
翌日、ニュースで知った。
あの妊婦の女性は、誰にも気づかれず、あの場所で命を落としたのだと。
私は、あの人を見殺しにした。
◆水底の囁き
「……あのとき、私を見てたのね」
耳元で、女の声がした。
「だから、あなたも沈めてあげる」
ずるりと、冷たい手が足首に絡みつく。
由美の身体は、水の中へと引きずられていく。
(いやだ……)
意識が薄れる中、遠くで美咲の声がする。
「ママ!!!」
暗闇の中に、小さな光が差し込む。
光の中に、小さな美咲の手が見えた。
必死に伸ばす。
美咲の手が、強く由美の腕を掴んだ。
◆目覚める夜
──バッと目を開けると、団地のエレベーターの中だった。
「……!!!」
荒い息をしながら周囲を見渡す。
水はない。
女の姿もない。
エレベーターは5階で止まったまま。
「……夢……じゃ、ない……」
手のひらを見る。
美咲の小さな指の跡が、しっかりとついていた。
──あれは、美咲が私を引き戻したのだ。
ぐったりとした身体を引きずりながら、急いで自宅へ戻る。
美咲は、リビングのソファで眠っていた。
「……美咲……」
しっかりと抱きしめる。
震えが止まらない。
もう、これ以上は耐えられない。
この家から、出よう。
明日になったら、すぐに引っ越しの準備をする。
しかし、窓ガラスにふと目を向けたとき、
そこに、消えかけた文字が浮かび上がっていた。
──「まだ……終わらないよ」