第7話 沈みゆくもの
──冷たい。
まるで水の底にいるように、体が動かない。
ぼんやりとした意識の中で、由美は浮かんでいた。
何も見えない暗闇。どこからともなく響く、水の滴る音。
ポタ……ポタ……ポタ……
(ここは……どこ……?)
手を動かそうとするが、身体が妙に重い。まるで水に沈んだ服が肌に張り付いているようだった。
──そのとき、不意に耳元で声がした。
「もうすぐ……こっちにおいで」
ゾクリと背筋が凍る。
視界の隅、闇の中にぼんやりと白いワンピースが浮かび上がる。
あの女が、すぐそばにいる。
(逃げなきゃ……)
必死に体を動かそうとするが、まるで何かが足を引っ張っているかのように、自由が効かない。
じわじわと、冷たい水が口元にまで迫ってくる。
──このまま沈んでしまうのか?
このまま、私は……
「ママ!!!」
遠くで、美咲の声が聞こえた。
その瞬間、世界が引き裂かれたように視界が揺れる。
一気に現実へと引き戻された。
◆目覚め
「ママ!! ねえ、しっかりして!!」
ハッと目を開けると、目の前には美咲の顔があった。
涙を浮かべ、必死に由美の肩を揺さぶっている。
「……美咲……?」
体が冷たい。まるで本当に水の中にいたかのように、肌に湿った感触が残っている。
「ママ、急に倒れたの! ずっと呼んでたのに、全然起きなくて……」
倒れた? いつ?
──そうだ。
窓の外に、夫の姿をした何かがいた。
リビングの隅に、白いワンピースの女が立っていた。
だが、今、窓の外には誰もいない。
「……夢だったの……?」
そんなはずはない。
恐る恐るリビングを見渡す。
──そこには、はっきりとした痕跡が残っていた。
窓ガラスには無数の濡れた手形がついていた。
そして、床には水溜まりが広がり、その中に、夫のネクタイが落ちていた。
「パパ……」
美咲が震える声を出す。
由美はゆっくりとネクタイを拾い上げた。
ずっしりと濡れている。
水の滴るそれは、まるで夫が最後にここにいたことを証明するように、冷たく重かった。
◆電話の向こう
その瞬間、スマホが震えた。
画面には「健二」の名前。
「……!」
手が震える。
通話ボタンを押すべきか、押さないべきか。
恐る恐る指を伸ばし、通話ボタンを押した。
「もしもし……健二!?」
「…………」
ノイズが走る。
水が滴る音が聞こえる。
ポタ……ポタ……ポタ……
「健二!? どこにいるの!? 返事して!!」
──ザザ……ザザ……
音が途切れ、次の瞬間、
「もう……迎えに行った?」
女の声だった。
「──ッ!!」
由美は思わずスマホを投げた。
通話が切れる。
美咲が怯えた顔で、スマホを見つめる。
「ママ……パパ、どうなっちゃったの……?」
由美は答えられなかった。
夫は、まだどこかにいる。
だが、それはもう"夫"ではないかもしれない。
◆消えた足跡
夜が更けていく。
美咲を寝かせ、由美は一人、リビングの窓ガラスを見つめていた。
何も映っていない。
それでも、そこに何かがいる気がしてならない。
ふと、床の水溜まりを見る。
おかしい。
──水が消えている。
夫のネクタイも、どこにもない。
(まさか……)
鼓動が速くなる。
もう一度、玄関を確認する。
──何もない。
しかし、ドアの外、廊下の奥へと続く濡れた足跡があった。
足跡は、エレベーターの方向へと続いている。
まるで、何かが由美たちの部屋を出て、どこかへ向かったかのように。
「……健二?」
思わず呼びかける。
静寂だけが返ってきた。
──このままでは、美咲まで連れて行かれる。
由美は決意した。
何が起こっているのか、すべてを知る必要がある。
そして、それを止めなければならない。
たとえ、それが"彼岸"へと足を踏み入れることになったとしても──。