第6話 水の底からの呼び声
スーパーを飛び出し、必死で自転車を漕いだ。
帰宅しても何の解決にもならない。むしろ、自宅こそがすでにあの女の領域になりつつあるのではないかという不安があった。
それでも、美咲をひとりにしておくわけにはいかない。
「お願い……どうか、何も起こっていませんように……」
震える声で祈りながら、団地の自宅へと急ぐ。
階段を駆け上がり、息を切らしながら玄関のドアを開けた。
「美咲! ママ帰ったよ!」
リビングを見渡す。
テレビがついたままになっていた。
美咲はソファに座っていた。
「……ママ、おかえり」
声は普通だった。だが、何かが違う。
由美は足を止め、慎重に美咲を観察する。
(なにか……おかしい……)
違和感の正体を探るように、美咲の顔をじっと見つめる。
──そして、気づいた。
娘の足元が、また濡れている。
「……美咲、どうしたの? なんで、また足が濡れてるの?」
「……?」
美咲は不思議そうに自分の足を見る。
「わかんない。さっき、部屋でお昼寝してたの」
「……」
娘の部屋の襖に目をやる。
少しだけ開いている隙間の奥から、何かが覗いている気がした。
「美咲、ちょっと待っててね」
ゆっくりと歩み寄り、襖を開ける。
──濡れた足跡が、布団の周りに点々とついていた。
「……ッ!!」
由美は息を呑んだ。
この家のどこにも、水がこぼれた形跡はない。
それなのに、濡れた足跡だけがある。
「美咲、本当に誰も来なかった?」
「うん……でもね」
美咲は何かを思い出したように言う。
「さっき、夢の中で、パパがいたよ。」
「え?」
「パパね、部屋の隅に立ってたの。でも、ママが来るから隠れなきゃって言って、すぐに消えちゃった。」
「……」
言葉を失う。
(パパが……? それとも……?)
昨夜、玄関の向こうにいた黒い目の女。
スーパーに現れた、黒い瞳の健二の幻影。
そして、今度は娘の夢の中にまで──。
じわじわと、何かがこちらへ入り込んできている。
そして、美咲の次の言葉が、由美の全身を凍りつかせた。
「ねえ、ママ……パパがね、ママに言ってたよ」
「……なにを?」
美咲はにこりと笑った。
「『もうすぐ迎えに行くからね』って」
◆異形の影、再び
その瞬間、リビングの窓ガラスが**コツン……コツン……**と鳴った。
反射的に窓を振り返る。
夕方の薄暗い光の中、ベランダの向こう側に、ぼんやりと人影があった。
「──ッ!!!」
凍りつくような恐怖が全身を走る。
窓ガラス越しに立っていたのは、夫だった。
ずぶ濡れのスーツ姿。
その瞳は、やはり黒く潰れている。
そして、その後ろに、白いワンピースの女が寄り添うように立っていた。
由美は咄嗟に娘の腕を引き、部屋の奥へ逃げ込んだ。
「美咲、ママの後ろに隠れて!」
美咲は怯えた表情をしながらも、素直に従う。
窓の向こうの影が、動く。
ゆっくりと、手を上げた。
ガリガリ……ガリガリ……
爪が窓ガラスをこすりながら、じわじわと音を立てる。
「やめて……」
涙が滲む。
健二の姿をしている。だけど、もう彼ではない。
「もうすぐ迎えに行く……」
窓越しに、低く掠れた声が響いた。
それは、夫の声のようであり、まったく別の何かの声のようでもあった。
由美は、限界だった。
このままでは、美咲まで連れて行かれる。
恐怖を振り払いながら、震える手でスマホを掴む。
助けを呼ばなければ──そう思った瞬間、
「……もう、遅いよ」
耳元で囁く声がした。
振り向く。
リビングの隅、壁にべったりと張り付くようにして、あの女がいた。
「──ッ!!!」
目が合った瞬間、暗闇が広がった。
由美は、真っ逆さまに深い水の底へと沈んでいくような感覚に陥った。
どこか遠くで、美咲の声が聞こえた。
「ママ!! ママ!!」
必死にしがみつこうとするが、体が動かない。
視界が揺れ、薄闇の中に何かが浮かび上がる。
水の中、遠くに揺らめく黒い影。
その影はゆっくりと近づいてくる。
(……誰……?)
ぼんやりとした意識の中、由美はその顔を見た。
それは、青白く濡れた、自分自身の顔だった。
「……ママ……もう、戻れないよ」
自分の口が、勝手にそう呟く。
次の瞬間──
世界が、ぱたりと閉じた。