第5話 消えた夫
翌朝、由美はほとんど眠れないまま、警察に連絡した。
「夫が昨夜から帰ってこないんです。連絡も取れなくて……」
捜索願を出そうかと考えたが、警察の対応は淡々としたものだった。
「成人男性の行方不明は、事件性がない限りすぐに捜索はできません。もう少し待ってみて、それでも戻らないようなら再度ご連絡ください」
そんな悠長なことを言っている場合ではない。
昨日、玄関のすりガラスの向こうに立っていたあの女──あれは夫ではなかった。
では、夫はどこへ行ったのか?
何が起こっているのか?
由美は不安と恐怖で押しつぶされそうになりながら、スーパーへ向かった。
今日こそは何も起こらないことを願って。
だが、その願いは、あっけなく打ち砕かれることになる。
◆夫の帰還
シフトの途中、スマホが震えた。
(健二!?)
急いで確認すると、確かに夫の番号からの着信だった。
「もしもし!? 健二!? どこにいるの!?」
「……」
返事がない。
だが、電話の向こうで、かすかに水の滴る音が聞こえた。
ポタ……ポタ……ポタ……
「健二!? 返事して!!」
だが、プツンと電話は切れた。
「由美さん? どうしたの?」
坂井さんが不思議そうに声をかける。
「ご、ごめんなさい、ちょっと……」
言葉がまとまらない。
夫が……どこかで……何かに囚われている?
そのとき、スーパーの自動ドアが開いた。
──そして、そこに立っていたのは、夫だった。
「健二……?」
声が震える。
夫は、まっすぐ由美を見ていた。
だが──
──その瞳は、黒く潰れていた。
「……お前……」
夫の口がわずかに動いた。
だが、声が異様にくぐもっている。
まるで、水の底から響くような声だった。
「健二……なの?」
夫は、ゆっくりと歩み寄る。
不自然にぎこちない動きだった。
「やめて……」
震える声で言う。
だが、夫は止まらない。
彼は、もう夫ではなかった。
◆異形の姿
夫の足元から、水が広がっていく。
ポタ……ポタ……ポタ……
気づくと、夫の服は湿っていた。
それだけではない。
夫の首の後ろに、白い手が絡みついていた。
由美は悲鳴をあげた。
その手は、細く、異様に長い指だった。
まるで、水の中から伸びてきた手のように。
(あの女が……健二に……!?)
夫が、にたりと笑った。
「……おまえも……こっちへ……」
その声は、もう夫のものではなかった。
恐怖で足が動かない。
「由美さん!? どうしたの!?」
坂井さんの声がした。
次の瞬間、夫の表情がぐにゃりと歪んだ。
そして──
──自動ドアが閉じた瞬間、夫の姿は消えていた。
床に残ったのは、びしょびしょに濡れた足跡だけだった。
◆水の中からの囁き
由美はその場に崩れ落ちた。
周囲のパート仲間が駆け寄る。
「大丈夫!? 何があったの!?」
「……夫が……そこに……」
しかし、誰も見ていなかったらしい。
「え? さっきから由美さん、誰もいないところを見てたけど……」
「そんな……確かに、いたの……」
放心しながら、足元の水溜まりを見つめる。
だが、それすらも、すぐに消えてしまった。
(……嘘でしょ……)
そのとき。
「……たすけて……」
耳元で囁く声がした。
「──!!!」
由美は、思わず後ずさる。
スーパーの奥、バックヤードへの通路。
そこに、誰かが立っていた。
白いワンピースの女。
黒く潰れた目で、じっと由美を見ている。
「……お前も……すぐに……」
掠れた声が響く。
「やめて……!」
目をつぶる。
次に開けたとき、女の姿は消えていた。
だが、由美はわかっていた。
──もう、どこにいても安全ではない。
そして、由美の耳には、また水の滴る音が響いていた。
ポタ……ポタ……ポタ……
──それは、確実に近づいてきている。