表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/15

第15話 滲む影

ポタ……ポタ……


玄関の隅に広がる、小さな水溜まり。


由美は思わず息を呑んだ。


(まだ……終わっていない?)


「美咲……今の話、もう一度言って」


声が震えるのを感じた。


美咲は、ゆっくりと頷く。


「……昨日の夜、パパが戻ってきたとき、後ろにもう一人、同じパパが立ってたの」


「それって……」


「どっちが本物かわからなかった。でも、もう一人のパパはすぐに消えたから、ママとパパを見て『こっちだ』って思ったの」


美咲は不安そうに、ちらりと健二を見上げた。


「……パパ、今はパパだよね?」


健二は美咲の小さな手を取って、安心させるように微笑んだ。


「もちろんだよ、美咲。大丈夫、もう怖いことはない」


彼の言葉を聞いて、由美も少し安堵しかけた。


だが、


──水の音は、まだ消えていない。


ポタ……ポタ……ポタ……


水の滴る音が、玄関からじわじわと広がる。


「……」


由美は、意を決して玄関へと近づいた。


しとしとと濡れた床に、小さな足跡が残っている。


誰のものでもない。


まるで、"誰か"がそこに立っていたかのような足跡。


由美はゴクリと唾を飲み込んだ。


(これは……健二のものじゃない……)


「……健二、靴を見せて」


彼は一瞬驚いたような顔をしたが、素直にスリッパを脱ぎ、裸足を見せる。


──違う。


足跡のサイズが違う。


「じゃあ、美咲は?」


娘の足と比べても、明らかに違う。


この家にいるのは三人のはずなのに、四つ目の足跡がある。


……いや。


本当に、健二は本物なのか?


再び、不安が押し寄せる。


──昨日の夜、二人の健二がいた。


美咲は、どちらかを選んだ。


果たして、その選択は本当に正しかったのか?


「健二……」


由美は、ゆっくりと夫を見た。


彼は不安そうな顔をしている。


しかし、それが本当に"彼"のものなのか……確証がない。


この不安を打ち消す方法は、一つだけ。


(試してみるしかない)


由美は、玄関の下駄箱を開けた。


奥にしまってあった、小さな瓶を取り出す。


──粗塩。


それを手のひらに掴み、意を決して、夫の足元に一つまみ撒いた。


「……!!」


その瞬間。


──ザザッ……ザザザッ……!!


健二の足元が、波紋のようにゆらりと歪んだ。


由美の背筋に、冷たい汗が伝う。


(……やっぱり……!!)


「健二……あなた、誰?」


由美の声が、震えながらも静かに響いた。


健二は、ゆっくりと顔を上げる。


だが、その表情はもう、夫のものではなかった。


口元だけが、不自然にニタリと歪む。


「……バレちゃった?」


ゾクリと、全身の血が凍る。


◆偽物の夫

美咲が悲鳴を上げる前に、由美は娘の腕を掴んで後ろへ引いた。


「離れて!!」


その瞬間、健二の姿が変わる。


肌は蒼白に染まり、唇がどす黒く歪む。


目が──黒く潰れた。


「……おまえは……間違った方を選んだんだよ」


その声は、健二のものではなかった。


水の底から響くような、不気味な低い声。


「お前たちは、私を見殺しにした……だから、どちらかは連れて行く」


──そうだ。


由美は、あのとき見てしまった。


あの妊婦が、助けを求めていたのを。


見てしまったからこそ、引き寄せられたのかもしれない。


(でも、だからって……家族まで……!!)


「健二を、返して!!!」


叫びながら、由美はもう一度粗塩を投げつけた。


その瞬間──


「ギィィィ……!!!」


"それ"は、耳を裂くような悲鳴を上げた。


部屋の中に、水が広がる。


──だが、"それ"は徐々に崩れ始めていた。


「ママ!!」


美咲が叫ぶ。


「パパは、どこにいるの!?」


由美は、すぐに答えられなかった。


本物の健二は、どこにいる?


まだ、水の中か?


いや……もしかしたら……


そのとき、玄関のドアが突然叩かれた。


「ドン!! ドン!!」


「開けてくれ!! 俺だ!! 由美!!!」


──健二の声!?


由美は咄嗟に玄関へと駆け寄った。


ドアを開けるべきか?


(もしこれも、偽物だったら……?)


だが、"それ"が今、苦しんでいる。


ならば、今しかない。


由美は、意を決してドアを開けた。


──そこには、濡れながらも必死に立つ、本物の健二がいた。


「由美!! 美咲!!」


彼の目は、正常だった。


「パパ!!」


美咲が駆け寄る。


由美も、迷わず夫を抱きしめた。


(この体温……この鼓動……この声……本物だ!!)


その瞬間、


──部屋の奥で、"それ"が最後の叫びを上げた。


「アアアアアアアアアア!!!!!」


ズズズズズズ……!!!


水の波紋が広がり、"それ"は消えていく。


玄関に広がっていた水も、すべて引いていった。


そして、すべてが静かになった。


ポタ……ポタ……


最後の水滴が床に落ち、消えた。


◆終わりの予感

由美は、ゆっくりと夫を見つめた。


「……本当に、健二なのね?」


夫は小さく笑い、そっと由美の手を握る。


「俺だよ。もう……絶対に離れない」


その言葉を聞き、ようやく由美は深く息をついた。


美咲も、涙を拭いながら笑っていた。


本当に、すべてが終わったのかもしれない。


だが、最後にもう一度、玄関を振り返った。


──そこには、もう何もなかった。


それでも、どこかで誰かが囁く声が聞こえた気がした。


「……また、雨の日にね」


そして、物語は静かに幕を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ