第15話 滲む影
ポタ……ポタ……
玄関の隅に広がる、小さな水溜まり。
由美は思わず息を呑んだ。
(まだ……終わっていない?)
「美咲……今の話、もう一度言って」
声が震えるのを感じた。
美咲は、ゆっくりと頷く。
「……昨日の夜、パパが戻ってきたとき、後ろにもう一人、同じパパが立ってたの」
「それって……」
「どっちが本物かわからなかった。でも、もう一人のパパはすぐに消えたから、ママとパパを見て『こっちだ』って思ったの」
美咲は不安そうに、ちらりと健二を見上げた。
「……パパ、今はパパだよね?」
健二は美咲の小さな手を取って、安心させるように微笑んだ。
「もちろんだよ、美咲。大丈夫、もう怖いことはない」
彼の言葉を聞いて、由美も少し安堵しかけた。
だが、
──水の音は、まだ消えていない。
ポタ……ポタ……ポタ……
水の滴る音が、玄関からじわじわと広がる。
「……」
由美は、意を決して玄関へと近づいた。
しとしとと濡れた床に、小さな足跡が残っている。
誰のものでもない。
まるで、"誰か"がそこに立っていたかのような足跡。
由美はゴクリと唾を飲み込んだ。
(これは……健二のものじゃない……)
「……健二、靴を見せて」
彼は一瞬驚いたような顔をしたが、素直にスリッパを脱ぎ、裸足を見せる。
──違う。
足跡のサイズが違う。
「じゃあ、美咲は?」
娘の足と比べても、明らかに違う。
この家にいるのは三人のはずなのに、四つ目の足跡がある。
……いや。
本当に、健二は本物なのか?
再び、不安が押し寄せる。
──昨日の夜、二人の健二がいた。
美咲は、どちらかを選んだ。
果たして、その選択は本当に正しかったのか?
「健二……」
由美は、ゆっくりと夫を見た。
彼は不安そうな顔をしている。
しかし、それが本当に"彼"のものなのか……確証がない。
この不安を打ち消す方法は、一つだけ。
(試してみるしかない)
由美は、玄関の下駄箱を開けた。
奥にしまってあった、小さな瓶を取り出す。
──粗塩。
それを手のひらに掴み、意を決して、夫の足元に一つまみ撒いた。
「……!!」
その瞬間。
──ザザッ……ザザザッ……!!
健二の足元が、波紋のようにゆらりと歪んだ。
由美の背筋に、冷たい汗が伝う。
(……やっぱり……!!)
「健二……あなた、誰?」
由美の声が、震えながらも静かに響いた。
健二は、ゆっくりと顔を上げる。
だが、その表情はもう、夫のものではなかった。
口元だけが、不自然にニタリと歪む。
「……バレちゃった?」
ゾクリと、全身の血が凍る。
◆偽物の夫
美咲が悲鳴を上げる前に、由美は娘の腕を掴んで後ろへ引いた。
「離れて!!」
その瞬間、健二の姿が変わる。
肌は蒼白に染まり、唇がどす黒く歪む。
目が──黒く潰れた。
「……おまえは……間違った方を選んだんだよ」
その声は、健二のものではなかった。
水の底から響くような、不気味な低い声。
「お前たちは、私を見殺しにした……だから、どちらかは連れて行く」
──そうだ。
由美は、あのとき見てしまった。
あの妊婦が、助けを求めていたのを。
見てしまったからこそ、引き寄せられたのかもしれない。
(でも、だからって……家族まで……!!)
「健二を、返して!!!」
叫びながら、由美はもう一度粗塩を投げつけた。
その瞬間──
「ギィィィ……!!!」
"それ"は、耳を裂くような悲鳴を上げた。
部屋の中に、水が広がる。
──だが、"それ"は徐々に崩れ始めていた。
「ママ!!」
美咲が叫ぶ。
「パパは、どこにいるの!?」
由美は、すぐに答えられなかった。
本物の健二は、どこにいる?
まだ、水の中か?
いや……もしかしたら……
そのとき、玄関のドアが突然叩かれた。
「ドン!! ドン!!」
「開けてくれ!! 俺だ!! 由美!!!」
──健二の声!?
由美は咄嗟に玄関へと駆け寄った。
ドアを開けるべきか?
(もしこれも、偽物だったら……?)
だが、"それ"が今、苦しんでいる。
ならば、今しかない。
由美は、意を決してドアを開けた。
──そこには、濡れながらも必死に立つ、本物の健二がいた。
「由美!! 美咲!!」
彼の目は、正常だった。
「パパ!!」
美咲が駆け寄る。
由美も、迷わず夫を抱きしめた。
(この体温……この鼓動……この声……本物だ!!)
その瞬間、
──部屋の奥で、"それ"が最後の叫びを上げた。
「アアアアアアアアアア!!!!!」
ズズズズズズ……!!!
水の波紋が広がり、"それ"は消えていく。
玄関に広がっていた水も、すべて引いていった。
そして、すべてが静かになった。
ポタ……ポタ……
最後の水滴が床に落ち、消えた。
◆終わりの予感
由美は、ゆっくりと夫を見つめた。
「……本当に、健二なのね?」
夫は小さく笑い、そっと由美の手を握る。
「俺だよ。もう……絶対に離れない」
その言葉を聞き、ようやく由美は深く息をついた。
美咲も、涙を拭いながら笑っていた。
本当に、すべてが終わったのかもしれない。
だが、最後にもう一度、玄関を振り返った。
──そこには、もう何もなかった。
それでも、どこかで誰かが囁く声が聞こえた気がした。
「……また、雨の日にね」
そして、物語は静かに幕を閉じた。