第13話 連れてきたもの
「由美?」
健二の声が穏やかに響く。
だが、由美の心臓は早鐘のように鳴っていた。
足元にある、もう一つの濡れた足跡。
誰かが健二と一緒に、この家の中に入ってきた。
そして、ほんの一瞬見えた健二の黒く潰れた瞳──。
(……違う……)
(この人は、本当に健二なの?)
不安が膨らむ。
だが、目の前の夫は、何も知らないように微笑んでいる。
「ずっと眠っていた気がするんだ……」
健二は静かに呟いた。
「気がついたら、水の中にいて……由美が呼んでる声がして……気がついたらここにいた」
「……覚えてないの?」
「覚えてることもあるけど……全部が夢みたいで……」
健二は困ったように笑う。
その表情は確かに夫のものだった。
──だが、どこかが違う。
「パパ……お腹すいた?」
美咲が健二の腕を掴み、嬉しそうに見上げる。
「ああ、すごく腹が減ったよ」
「じゃあ、ご飯作るね!」
美咲は元気よくキッチンへ向かう。
由美は立ち尽くしながら、もう一度足元を見る。
濡れた足跡は……
──健二の後ろの廊下の奥へと、ゆっくりと続いていた。
まるで誰かがそっと歩いていったかのように。
「……健二、服、着替えたほうがいいわ」
由美はできるだけ落ち着いた声を出した。
「そうだな」
健二は素直に頷き、寝室へと向かう。
(廊下の奥……)
由美は、ぎゅっと手を握りしめた。
そこに"何か"がいる気がする。
◆廊下の奥の影
美咲がキッチンで作業を始める音を聞きながら、由美は廊下の奥をそっと覗いた。
──暗い。
そして、そこには確かに濡れた足跡が続いている。
(誰かが……家の中にいる)
背筋に寒気が走る。
ゆっくりと、奥へ進む。
足音を立てないように。
──ふいに、開けっぱなしになっていた洗面所の鏡に目が映る。
(……あれ?)
鏡の中に映る自分の姿が、少しおかしい。
顔色が青白く、髪が濡れている。
まるで、水の中に沈んでいたかのように。
「──ッ!!!」
驚いて振り返るが、背後には何もいない。
……いや、違う。
後ろの廊下の奥で、何かが立っている。
暗闇に溶け込むように、じっとこちらを見ていた。
──白いワンピースの女。
そして、彼女の隣には、もうひとつの影があった。
それは、小さな女の子だった。
……誰?
心臓が凍りつく。
次の瞬間、
──女の子がこちらに向かって、にたりと微笑んだ。
「……ママ、ただいま」
声が、美咲とそっくりだった。
◆もうひとりの娘
「ママ……?」
ふいに、背後から美咲の声がした。
由美は凍りついたまま、ゆっくりと振り返る。
そこには、美咲がいた。
いつもの、美咲。
「……どうしたの?」
「……」
由美はもう一度、廊下の奥を見た。
だが──そこには、誰もいなかった。
(……いまのは、何?)
寒気が止まらない。
「ママ?」
「……なんでもない」
そう言いながら、震える手を握りしめた。
確信する。
健二だけじゃない。何かが、この家に入り込んでいる。
「ねえ、美咲」
「なあに?」
「……この家から、出ようか」
美咲の表情が曇る。
「……でも、パパが帰ってきたのに?」
(違う……違うのよ、美咲)
由美は叫びたかった。
だが、美咲の無邪気な瞳を見て、口を閉ざす。
「……明日、もう一度話そうね」
今は何も言わないほうがいい。
ただ、ひとつ確かなのは──
まだ、終わっていない。
◆深夜0時の囁き
その夜、深夜0時。
由美は眠れず、リビングのソファに座っていた。
健二はすでに寝室で眠っている。
美咲も寝息を立てている。
静かな夜。
……のはずだった。
トン……トン……
どこかで、ノックの音がした。
玄関ではない。
リビングの窓でもない。
音は、寝室から聞こえた。
由美は息を呑んだ。
ゆっくりと立ち上がり、そっと寝室のドアを開ける。
──健二が、立っていた。
「……健二?」
だが、彼はただ壁の前でじっと立っている。
その視線の先には、クローゼットの扉があった。
「……開けなきゃ……」
掠れた声が聞こえる。
健二が、ゆっくりとクローゼットの扉に手をかける。
「開けたら、ダメ!!!」
由美は叫び、夫の手を引き止めた。
──だが、遅かった。
クローゼットの扉が、ゆっくりと開く。
そして、そこにいたのは──
黒く潰れた目の、美咲だった。
にたり、と微笑む。
「ママ……こっちにおいで」
──ザザッ!!!
突然、部屋の電気が一瞬消え、再び点いた。
クローゼットの中は、もぬけの殻だった。
「……健二……?」
由美が夫を振り返る。
彼は、呆然としたまま立ち尽くしていた。
だが、彼の肩には──
白いワンピースの女の手が、そっと触れていた。
ポタ……ポタ……ポタ……
再び、水の滴る音が響く。
(まだ……終わっていない……)
由美は絶望に包まれながら、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。