第12話 帰還者
玄関の前に立つ健二は、全身びしょ濡れだった。
水滴がポタ……ポタ……と床に落ちる音が、異様に大きく響く。
「健二……?」
由美は恐る恐る声をかけた。
彼の顔は青白く、まるで水死体のようだった。
それでも、目を開き、じっとこちらを見ている。
その目は……
──黒く潰れていない。
「……帰ってきたの?」
由美の声が震える。
健二は、ぼんやりとしたまま、ぎこちなく口を開いた。
「……由美……?」
掠れた声。
けれど、それは確かに夫の声だった。
「パパ!!」
美咲が玄関へ駆け寄ろうとする。
だが、由美は咄嗟に娘を引き止めた。
「待って!」
美咲が戸惑いながら由美を見上げる。
由美は健二を見つめたまま、慎重に問いかけた。
「あなた……本当に、健二なの?」
一瞬の沈黙。
そして、健二の唇がわずかに歪んだ。
「……誰か、他にいるのか?」
微かな笑み。
そこには、いつもの健二がいた。
由美の中で、張り詰めていたものが緩んだ。
「……本当に、帰ってきたのね……」
彼女は、そっと夫に駆け寄り、しがみついた。
健二の体は冷たかったが、確かに存在していた。
「よかった……本当に……」
健二は何も言わず、ゆっくりと腕を回して由美を抱きしめた。
美咲も堪えきれず、二人に飛びつく。
「パパ……!」
三人は玄関先でしばらく抱き合った。
すべてが終わった。
そう思った。
──だが、そのときだった。
◆異変
「……パパ、ねえ、なんでそんなに濡れてるの?」
美咲が不思議そうに尋ねる。
確かに、健二の服は水浸しのままだ。
由美が顔を上げた。
「健二、あなたどこにいたの? 何が……」
その瞬間、背筋が凍る。
健二のスーツの襟元から、白い布切れが覗いていた。
白いワンピースの、切れ端のような布。
ぞわりと悪寒が走る。
「健二……」
「ん?」
夫は不思議そうに首を傾げた。
由美は恐る恐る、彼の手を取る。
──冷たい。
まるで、今もまだ水の中にいるかのように。
(……まさか……)
不安が広がる中、ふと足元に目をやる。
──そこには、濡れた**"もう一つの足跡"**があった。
健二のものとは違う、小さな裸足の足跡。
まるで、誰かが一緒にここまで歩いてきたかのように。
息を呑む。
「由美?」
健二が、にこりと笑った。
その笑みの奥の瞳が、一瞬だけ黒く潰れた気がした。
終わりではない
風が吹き抜ける。
遠くで、ポタ……ポタ……と水の滴る音がした。
それは、まだ終わりではないことを告げていた。