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愛で魔法が解けたなら

(1)

 きゅっきゅっきゅっ。ギシッギシッ……。


 私が壁際に並ぶ鎧のしつこい曇りを布で磨いていると、金属が軋む耳障りな音がした。いったい何事だろうと私が振り返るよりも早く、背後に立っていた人物が声を上げた。


「……ディーナ?」


 私の記憶よりもちょっとだけ低い声の主は、鋼の兜で顔をすっぽりと覆っていた。

 顔は見えないが男だ。首から下は平民服を着ているので、全体の違和感がすごい。

だが、その違和感でいっぱいの男性の正体を私はすぐに見抜いた。


「リードリヒ! おかえりなさい!」


 私が飛びつくようにして抱き着くと、リードリヒ――夫は「わっ!」と驚きの声を漏らして数歩後ろによろめいた。

 きっと私が早朝から商品のメンテナンスを行っていたことに仰天したのだろう。かつての私は朝に弱く、リードリヒがいなければ昼頃まで寝過ごしてしまうことがほとんどだったから。


「お疲れ様、リードリヒ。兜がこんなにぼろぼろに……大変な遠征だったのね。あなたが無事でよかったわ」


「うん……長かった……とても……」


 私は傷だらけのくすんだ兜を見つめながら、彼が数年ぶりに生きて帰ってきたことを嬉しく思った。

兜のせいで表情は見えないが、リードリヒはとても疲弊しているように思えた。声が震えているので、つらい戦いを思い出してしまったのかもしれない。


 私たちはお互い十八歳の時に結婚した新婚夫婦だ。

 私は実家で身に着けた鍛冶技術を元手に鍛冶屋を営んでいたのだが、騎士であるリードリヒの剣や防具を何度も打ち直しているうちに親しくなり、めでたく結ばれた。

 けれど、時代は穏やかではなく、リードリヒは早々に徴兵されてしまった。隣国との戦争に駆り出された彼は、「国のために戦うことは、巡り巡ってディーナのためになるから」と、前向きな手紙を度々送ってくれたが、気が付けば数年の年月が経っていた。


「ずっと会いたかったよ。君のことを想わない日はなかった」

「私だって! ねぇ、早く顔を見せて。ハグさせて」


 兜の隙間から聞こえる優しい声にトキメキながら、私は彼の顔に向かって手を伸ばした。

 本当はキスがしたかったけど、ちょっと照れくさいのでハグと言った。ハグをして、彼の濡れ羽色の髪をくしゃくしゃになるまで撫でまわして、その後たくさん頬ずりをして、雰囲気が良ければキスをしよう……私がそんなことを思っていると――。


「ごめん、ディーナ……。顔……見せれないんだ」


 申し訳なさそうに私の手を掴むリードリヒ。

 私は思わず「?」と首をかしげてしまった。


「どうして? 酷い怪我でもした? そんなの気にしないで! 私たち夫婦なんだから!」

「違う……怪我じゃなくて……」

「じゃあ、髪? チリチリに焦げちゃって恥ずかしいとか? たとえ一本もない状態でもかまわないわよ。私はどんなリードリヒでも大好きだもの」


 私が再び兜を取ろうと手を伸ばすと、リードリヒはギシギシと嫌な音を立てて頭を振った。


「触ったらダメだ! 呪いがうつるかもしれない!」

「呪いですって⁉」

「ぼ……僕は【兜が脱げない呪い】にかかってしまったんだ!」

「えぇぇッ⁉」


 つい素っ頓狂な声を上げてしまうほど、突拍子もない発言だった。

 

 私たちの暮らすクリミール王国は騎士国家。剣や火器の技術は発展しているが、呪術や魔術の類は古代文明と共に滅びたとされていた。今ではおとぎ話といった感覚だ。


 けれど、リードリヒは落ち着いた声音で、「終わったから話せるけど、戦争の相手国は水面下で呪術の研究を進めていたんだ」と語った。


「まだ開発段階の呪いだったから、僕ら王国軍が引けを取ることはなかった。でも僕は上官を庇ってこんなことに……」

「こんなことにって、兜が脱げないこと⁉ そんな呪いある⁉」

「これが相当大変なんだ。常に視界は狭いし、隙間からしか飲食もできない。横たわって眠れないし、髪も洗えない」

「わ……っ!ばっちい……」

「ごめんよ、ディーナ。こんな夫で……」

「仕方ないわよ。あなたのせいじゃない」


 おとぎ話の斜め上をいく展開に驚きを隠せない私は、リードリヒを気の毒に思いながらも、件の兜に触れたくてうずうずしていた。

 たが、彼はそれを許してはくれなかった。呪術を帯びた兜は、呪いを受けたリードリヒ本人以外にも何らかの害をもたらすそうだ。


「術師を捕えて吐かせた情報だから、間違いないよ。同時に呪いを解く方法も聞き出した。それは――」

「それは?」


 リードリヒが少し恥ずかしそうに躊躇い、私が身を乗り出して促す。

 リードリヒは言った。


「……『愛が満ちること』」

「なんだそんなこと!」


 私は再び素っ頓狂な声を上げた。てっきり呪いに打ち勝つ伝説の宝具なんかがいるのかもしれないと身構えてしまったが、この条件なら問題ない。妻の私がいるのだから。

 私はむんっと胸を張り、リードリヒに向かって力強く頷いた。


「任せて、リードリヒ! 私が愛の力で呪いを解いてあげるわ!」

「ディーナ、心強いよ。ありがとう」


 リードリヒが私の言葉を受けて、どんな表情をしたのかは分からない。傷んだ兜の隙間からは、彼の綺麗なエメラルドのような瞳しか見えない。多分、嬉しそうにしているんじゃないかと思う。

 早く彼の優しい顔が見たい一心で、私は呪いと戦うことを決めたのだった。


(2)


 たくさんの商人たちが露店を並べる、町の賑やかな商業通り。

 そこを軽やかなエプロンドレス姿の私と、全身鎧姿の騎士が行く――。歩くたびに耳障りな音を立てる兜の浮きっぷりがすごい。 町行く人々が思わずこちらを振り返り、「あの人、どうしたのかな?」と呟く。首から上が兜なのだから、目立って当然だ。


 彼は、護衛騎士ではない。私の夫だ。

 皆の不思議そうな視線に晒されながら、私とリードリヒは腕を組んで歩いていた。こんな状況だが、数年ぶりのデートである。


 私たち夫婦がデートに繰り出した理由は、もちろん【兜が脱げない呪い】を解くためだ。


「――で、『愛が満ちること』って、具体的にどうすればいいの? キス……とか?」


 鍛冶屋の店舗で私が照れのぼせながら尋ねたところ、リードリヒは「兜が脱げないから、それは無理……」と、残念な返事を口にした。

 訊くと、どうやら身体接触が解呪のトリガーになるわけではないらしい。精神的に愛情を感じ、それが募れば兜をすぽっと脱ぐことができるそうだ。


 私からすると、ボディタッチから得られる精神的愛情もたくさんあると思う。だが、あまりしつこく触れ合いを提案すると、はしたない女のように思われてしまいそうなので引き下がった。


(そうよね。私たち、離れ離れになる前もピュアな関係だったもの……。そういうコトは、兜が取れた時に取っておきましょう)


 というわけで、とりあえず二人で出掛けようということになったのだ。


「一刻も早く、リードリヒを兜地獄から解放してあげないと可哀想だもの! あとその兜、無事に取れたら研究させて。鍛冶師の血が騒ぐのよ!呪われた兜は品質が変わるのかとか、呪いへの耐性ができてるんじゃないかとか……あぁ~! 考え出したら止まらな~いッ!」

「ディーナが相変わらずで嬉しいよ」


 リードリヒは鍛冶オタクの私が好奇心を隠さないことにも怒らずに、朗らかな笑い声を聞かせてくれた。きっと兜の中でも穏やかな笑みを浮かべているに違いない。

 彼の少し垂れたグリーンアイが柔らかく細められている様子を想像することしかできないことがもどかしく、私は兜の隙間から何か見えないかと必死に中を覗き込んでいた。


(うーん……、瞳くらいしか見えないなぁ……。これは改良の余地ありね……)


「今度兜を作る時は、装備者の顔が見えやすいようにしようかしら」

「それじゃあ、こちらの表情から思考が敵にバレてしまうかもしれないよ」

「あぁ、たしかにそうね」


 他愛のない会話を交わしながらも、私は周囲の声に顔をしかめていた。


「あの人大丈夫かしら……?」

「ちょっと変な人じゃない?」

「こら、近付いちゃダメよ」


 冷ややかな視線と心ない言葉。町の人々は、私とリードリヒを遠巻きに見つめながら、ひそひそと喋っている。たいへん感じが悪い。


(好き勝手言って……。リードリヒは国のために戦った騎士なのに……)


 戦争から騎士が帰還したのだから、労いの言葉の一つでもかけたらどうだと言ってやりたくなってしまう。

 兜は十年以上使ったのではないかと思えるほどにボロボロ。裂傷や凹みがあちこちに見られる。リードリヒの手だって数年前と比べると傷だらけで、たくさんの戦場を経験したことを物語っていた。


「リードリヒ……私……」

「ディーナ、僕はすごく嬉しいよ。君と二人で歩いているだけで幸せなんだ」


 私の胸の憤りを見透かしたかのようにリードリヒは言った。

 彼はいつだって穏やかで優しい。


 鍛冶屋の客だった頃もそうだった。

 私が売り上げの伸びに悩みを話すと、「それは僕が原因かも。君の仕事が減ったってことは、世界が平和に近づいたってことだから」と、実におめでたい答えをくれた。

 なら、戦争が終わったら、私もリードリヒも失業しちゃうわね……なんて、笑えない冗談で笑い合ったものだ。


 他人や世間を恨まず、常に前向きなリードリヒのことが、私は大好きだった。


(早く呪いを解いてあげたい……。生きて帰って来たんだから、リードリヒを自由にしてあげたい)


 私が絡めていた腕に力を込めると、リードリヒの頭の兜からガシャッと不快な音が鳴った。ちょっと照れて反応してしまったのかもしれない。思わず胸がキュンッとしてしまう。


「ねぇ、そういえば今日はやけに賑わってるわね。お花にアクセサリー、異国の織物のお店なんかもあるわ。普段、この辺じゃ見かけないわよね? お祭りでもやってるのかしら?」

「そうかもね……ますますデート日和じゃないか」


 胸キュンを誤魔化そうとして話題を変えるが、重ねてキュンとしてしまった。

 私は見慣れない露店の数々をしげしげと眺めながら、夫との非日常を楽しむことにした。


「リードリヒ! あれ、なにかしら? なんだか美味しそうよ!」


 私がハッと惹かれたものは、長細い形の揚げ菓子だった。短剣くらいの長さの小麦粉生地に粉砂糖がたっぷりまぶされている。周囲を見てみると、若者や子どもたちが片手にそれを持ち、歩きながら食べている。


「棒ドーナツだよ。東の方の郷土菓子で、今、国中で人気なんだ」

「へぇ! よく知ってるのね!」

「うん。僕はお菓子が好きだから」


 私はリードリヒ情報に「ほうほう」と頷くと、「一緒に食べる?」と彼を見上げて尋ねた。カップルが仲良く食べ歩きしている姿も多く見受けられ、つい自分たちも……と思わずにはいられなかったのだ。

 しかし、彼は残念そうに兜をギシギシと横に振った。


「ごめんね、ディーナ。僕、何か食べる時は、兜の隙間から捻じ込まなくちゃいけないから……」

「ご、ごめん……! それは私の配慮が至らなかったわ!」


 可哀想なリードリヒ。今の主食はパスタがグリッシーニだろうか。


 私が今のリードリヒでも楽しめる何かを捜していると、素材屋の露店の看板が目に飛び込んできた。


(これだわ!)


 私は「ねぇ! 見て見て!」と、リードリヒの手を強引に引き、素材屋の商品の前で腰を屈めた。


「オリハルコン、水晶石、ダークメタル……! 鍛冶素材がこんなにたくさん!」


 私がキラキラと瞳を輝かせ、リードリヒはふむふむと商品のラインナップを眺める。鍛冶師と騎士の夫婦というだけあって、私たちはこういった物に目がなかった。

 リードリヒの騎士装備一式も、私が彼と相談しながら選んだ素材で打った一点ものなのだ。この素材があれば、綺麗に打ち直すどころか、さらに強化できるに違いない。


「わわっ! なんだ、その兜。鍛冶屋の旦那のあんちゃん、そんなに防具が好きだったんだな」


 ちなみに素材屋の店主の反応はこんな感じだった。まぁ、妥当なところだろう。


「はい。僕も奥さんも防具が好きで。相変わらず、いい品揃えですね」

「おう、まぁな! うちは品の多さが自慢なんだ!」


 恰幅の良い中年店主は誇らしそうに商品の説明を始め、私は頷きながら耳を傾けていた。あまり裕福ではない身の上なので、あれもこれもというわけにはいかないが、商売人としてレアアイテムとのめぐり逢いは見逃すわけにはいかない。


「やっぱりここは、黒曜石かしら……」

「すみません。黒曜石はいくらですか?」

「目の付け所がいいね! 黒曜石はひとかけらで一万ゴールドだ」

「うわ! 高いわね!」


 せっかくリードリヒが尋ねてくれたものの、私は思わず悲鳴を上げてしまった。


「嘘でしょ! ミスリルじゃないんだから、そんな値段!」

「けっこうな値段ですね……」


 やはり、リードリヒも眉を寄せている。


「すまねぇな。今、各地で価格が高騰してるんだ」

「うぅぅ……でも、これがあれば、リードリヒの兜を……」


 素材屋の店主の前で私が唸っていると、リードリヒが懐からサッと革袋の財布を取り出した。


「買います。その黒曜石、包んでもらえますか」

「リードリヒ……!」


 私はリードリヒの男前っぷりに感激してしまった。まさか優しくて穏やかな彼に、こんな豪気な一面があったなんて。


(なんだこのイケメン……! 顔、見えないけど!)


「おいおい、大丈夫か? 財布のほとんどがなくなっちまうぞ?」

「そうよ。本当に大丈夫?」

「蓄えはあるので心配いりません。一人だとお金を使う機会があまりなくて」

「そうか。まぁ、悪い買い物じゃねぇけどよ」


 私と店主の二人から心配されるリードリヒだったが、彼は黒曜石を硬い意思で購入した。

 戦争の報奨金がそれなりにもらえたのかもしれない。うきうきと尋ねることでもないと思ったので、私は蓄えの出元については触れないことにした。


 表情は見えないけれど、リードリヒの声からは時々ふっと陰を感じる。私と話していると楽しそうに弾む声が、ふとした瞬間に知らない人の低いものに変わってしまうような感覚だ。


(戦争……つらかったのかしら……。気丈に振る舞っているけど、きっと心も体もたくさん傷ついたのね……)


「ありがとう。リードリヒ」


 私は黒曜石を自分の鞄にしまうリードリヒににっこりと笑い掛けた。


「大好きな妻にプレゼントくらいしたいさ。僕も男だからね」

「もうっ! こんなところで恥ずかしいじゃない!」

「そうか……いいと思うぜ、あんちゃん! 喜んでもらえるといいな!」


 リードリヒの男気に感激した様子の店主は、目を潤ませながら水晶石をおまけしてくれた。いい人だ。また買いに行ってもいいなと、私の足取りは軽くなった。



(3)


 その後は、服屋に行った。数年ぶりに帰還したリードリヒには普段着が不足しているに違いないと思い、私は若者向けの服をたくさん彼に勧めた。

 けれど、リードリヒは派手で恥ずかしいと言って購入を断固拒否し、代わりに私に余所行きのワンピースを買ってくれた。


「今までこういう可愛い服、贈ったことなかったから」


 照れくさそうな声を出すリードリヒが可愛くて、私はそれだけで胸がいっぱいになった。

 もちろん、新しいワンピースも嬉しくてたまらない。流行に疎い私は知らなかったが、今若い女性の間で流行っているらしいふんわりと軽いデザインの洋服だ。色が淡い桃色でちょっと気恥ずかしいが、リードリヒが「絶対に似合う」と言ってくれたので、着るのが楽しみになった。


 さらにその後は町の中央地区へ移動し、生まれて初めて歌劇を見た。

 こんなところに劇場があることすら知らなかった私は、美しく舞い踊る演者たちに感動してしまい、見終わる頃には舞台を拝み倒していた。


「すごかったわよね、リードリヒ! 歌姫の圧倒的な歌唱力! 音楽の妖精みたいだった!」

「ディーナが喜んでくれてよかった。僕、ずっと君と来たかったんだ」

「いじらしいわねぇ、あなたは!」


 兜の隙間から注がれる、温かい眼差しが幸せでむず痒かった。

 チケット売り場の売り子や、歌劇を観に来ていた他のお客からは、「あの人どうしたのかしら?」という奇異なる視線を向けられていたものの、気にせずデートを楽しめるくらいだ。


(なんだか、私ばっかり愛を感じてる気がする……。私の愛、リードリヒにちゃんと伝わってるのかしら……)


 彼の【兜が脱げない呪い】はいつ解けるのだろう。彼に私の愛をもっともっと感じてもらうには、いったいどうしたいいのだろう――。


 悩みながら劇場を出ると、オレンジ色と群青色が溶け合うような空が広がっていた。どこか寂しさを覚えるような、胸がざわつく色だった。


「いつの間にかこんな時間だね……。寒くない?」

「ぜんぜん平気」


 この辺りは昼と夜の寒暖差が激しい。私はリードリヒの兜の隙間から漏れ出る白い息を見つめながら、薄っぺらなエプロンドレス姿の自分を見下ろした。寒いと思う前に家に帰った方が良さそうだ。


「リードリヒ……手、繋いでもいい……?」


 私が控えめな声で問うと、リードリヒは兜からガシャリと耳障りな音を立てて頷いた。

 

 リードリヒの手は、お世辞にも温かいとは言えなかった。冷たいわけでもない。ただ、よく見ていると、以前よりも逞しくなったと思う。剣をたくさん握った手だ。


「結婚前は、恥ずかしくて手なんて繋がなかったのにね」

「そうだね……。僕もディーナも照れ性だったから……」


 私はリードリヒの手を握る手に力を込めた。リードリヒは私の手を強く握り返してはくれなかったが、「今は離したくないと思ってるよ」と言葉で伝えてくれた。

 

 夕闇の迫る帰り道を二人で手を繋いで歩きながら、私はリードリヒに徴兵命令が下った日のことを思い出した。

 それは二人でささやかな結婚式を挙げた翌日のことで、私の鍛冶屋の二階に運び込んだリードリヒの荷物を解く暇すらなかった。


「ディーナが打ってくれた防具があれば、きっと生きて帰れる」


 そう言った彼のために、私はその日から数日間工房に籠り、鎧一式を用意した。私が作れる一番の最新式の装備だった。

 彼が五体満足でまたここに戻って来られるように。二人で幸せな結婚生活が送れるように。まさか、その兜が呪われてしまうとは思わなかったが――。


「これからはずっと一緒よ。リードリ――」

「アレ? もしかしてリードリヒか?」


 私の言葉をかき消したのは、正面から歩いて来た男性だった。くすんだ金髪と同じ色の顎鬚を蓄えた背の高い中年男性だ。町の自警団の装束だろうか。かなり軽微な鎧を身に着け、腰に剣を差している。


「ご友人?」

「あ……えっと……エドガー……」


 私がリードリヒを見上げると、彼は戸惑った様子で口ごもっていた。苦手な相手なのだろうかと、私は不安な顔で言葉を探すが、エドガーと呼ばれた男性はおかまいなしだった。


「その声、やっぱそうじゃねぇか! なんだよその兜! 顔を隠すほど、俺たちに会いたくないのかよ」

「違う…頼むから、今は放っておいてくれ」

「んなこと言ったって、心配だろうがよ。ダチが古臭い兜被ってふらふら歩いてたら、気でもやっちまったのかと思うだろ」

「……そんなことないよ」


 リードリヒが困っている。

 私は彼の声だけでなく、手足が震えているのを感じ取った。リードリヒは、一刻も早くこの場から立ち去りたそうにしているのだ。


(妻の私が助けなくちゃ……!)


「ちょっとあなた! 古臭い兜だなんて、失礼ね! 私が作った最新式よ? それにこの人がこれを被っているのは、【兜が脱げない呪い】のせいで――」

「あんまり落ち込むなよ、リードリヒ」


(あれ……)


 私は、リードリヒとエドガーの間にズイと割り込んだ。だがエドガーの視線は私を捉えることはなかった。まるで私が空気であるかのように、彼はリードリヒだけを見つめていた。


「剣が握れなくったって、人生が終わったわけじゃねぇ。奥さんとの約束は守れなくなったかもしれねぇが、別の生き方だって許され――」

「ごめん……黙ってくれ……頼むから……!」


 リードリヒは唐突に深く頭を下げ、エドガーは驚いて言葉を失っていた。リードリヒが纏うピリついた空気はなんだかとても息苦しい。今にも泣き出しそうな震え声が痛々しく兜から漏れ出ていた。


 リードリヒのただならぬ様子に戸惑いを隠せないエドガーは、「わ……分かったよ。またな……」と言い残して去って行った。


「リードリヒ……」

「びっくりさせてごめん。今日は帰ろうか……」


 喧嘩でもあったのだろうかとざわめく周囲を視界から追い出すように、リードリヒは私を兜の穴から見つめていた。エメラルド色の瞳が潤んでいる。よく見えなくても、妻の私には分かった。


 それだけじゃない。彼の隠し事にも気が付いてしまった。


(そっか……私、大事なことを忘れていたのね)


「うぅん……、一緒には帰れない。私は送るだけ……あなたとは帰る場所が違うから」


 私がひょいっと空気を持ち上げる仕草をすると、リードリヒの兜がふわりと宙に浮いた。「わっ」と、不意に彼が驚いて出した声は、青年のものよりももっと低いものだった。


「ディーナ……」

「すっかり大人になったのね。リードリヒ」


 私の前に立つ彼の顔は若者のそれではなく、その面影を濃く残した三十代の男性だった。


「騙してごめん……俺……」

「うぅん。謝るのは私の方。待ってあげられなくてごめんなさい」


 あぁ、胸が痛い。

 ずっとずっと、待っていたはずなのに。

 私は愛する人を遺して逝ってしまったのだ――。



(4)

 陽が傾き、鎮魂祭――年に一度、現世に戻ってくる死者の魂を慰める祭も終わりを迎えていた。

 すっかり人通りの少なくなったレンガ造りの路地を行く俺は、兜をふわふわと宙に浮かせながら、少し前を軽やかに歩く妻の背中を見つめていた。


「リードリヒってば、演技が上手くてぜんぜん気が付かなかったわ。舞台俳優になれるんじゃない? ほら、今日のお芝居、とても素敵だったし。あぁいう道も悪くないかもよ?」

「あれは歌劇だよ。俺に歌は無理。音痴だから」


 振り返って笑顔を向けてくれるディーナに答えながら、今日彼女と観た歌劇を思い出す。

 新婚の頃から行きたかったが、とても遅くなってしまった。

 最近の舞台は演出が派手で驚かされ、ディーナは言葉を失くして圧倒されていた。そんな彼女の横顔を見つめることが幸せすぎて、俺は劇場のスタッフや周囲の客から変人扱いを受けても気にならなかった。


「え……二席でございますか⁉」


「あの兜の人、誰もいない席をじっと見てる……ますます怖いね」


(放っておいてくれ。ディーナがここにいるんだよ。俺の隣に。俺の妻が。何も知らずに、いるんだよ――!)


***


 彼女が患っていることを知った時は、ちょうど激しい戦いの最中だった。

 彼女からの便りには、『私はちゃんとお医者さんにかかっているから、急いで戻って来たら駄目。自慢の剣と防具で、たくさんの人を守ってね』と書かれていた。俺は散々迷った挙句、騎士としての矜持を貫いた。

 敵味方問わず、誰よりも多くの命を救った。鍛冶師ディーナの魂の籠った騎士装備は、俺をその戦争の功労者にし、王宮騎士団からもお声が掛かった。


 だが、その誇らしい戦績も勲章も未来も、ディーナと分かち合えることはなかった。

 俺が騎士として長期遠征に出ている間にディーナは病でなくなっていた。

 もう十五年が経つ。

 当時はとびきり荒れたものだ。一番守りたかった人を守れずに、何が騎士だと己を罵った。ディーナがどんなに心細かったかを想像し、何もできなかった自分を殺したくなった。いや、何度も自害しようとしていた。愛する彼女がいない世界に未練などない……そう思った。


 しかし、俺は彼女から貰った最後の手紙に書かれた言葉を忘れられなかった。

 彼女の剣と防具でたくさんの人を守る――だから結局、俺は自害することも、剣を置くこともしなかった。

 それを一生の約束として掲げ、俺は騎士団を辞め、町の自警団に入った。ディーナが俺を待ち続けていた町、彼女が愛したその場所を守るのだと胸に誓ったのだ。


 結婚してすぐに町を出てしまったために、始めは自宅に戻る道すら分からなかった。うろうろと慣れない場所を彷徨う俺を同僚のエドガーや仲間たちだけでなく、町の人たちも親切に助けてくれた。彼らは俺を「鍛冶屋さんの旦那さん」として接してくれていた。


 俺がいなかった何年もの間に、ディーナはここで優しい人々に囲まれて生きていた――。彼女はたくさんの人々から愛されていたという事実が、俺の心を支えてくれた。彼女が生きた場所で俺も生きていこうと、つらい現実を乗り越え、前を向いていられた。


 そう思っていたある日のことだった。


 俺は自警団の仕事の最中、傭兵崩れの盗賊に後れを取ってしまい、利き腕を負傷した。気が付けばもう、年は三十三。若者と同じように動けるわけがなかったのだと自覚した時には、以前のように剣を握ることができなくなっていた。


 俺は心の底から打ちひしがれた。

 俺にとって、剣を握り続けることは生きることと同義だった。ディーナのいなくなったこの世界で、ディーナとの約束を守り続けること――それが俺の生きる意味だったのだ。


「俺はこれからどうしたらいいんだろう」


 答えを求める俺に、みんなは優しかった。


「剣だけが人生じゃないさ」


 エドガーたちはそう言って慰めてくれた。

 日常生活は問題なく送ることができるのだから、もっと安全な仕事を選べばいい。この町を去って、実家の家業を継いだっていい。ディーナだって、お前が俯いていることを望まないはずだ。自分のために生きたらいいのだと。


 だが、優しい言葉が逆につらかった。

 残りの人生を自分だけのために生きるなら、これまで俺がしてきたことはどうなのだろう。無意味だったことにはならないか?

 いやしかし、本当のところ、ディーナは俺が騎士道を貫いて喜ぶのだろうか。

 亡くなった妻との約束を果たすためと言いながら、自分が生きる理由として縋りついていただけではなかったか?


 俺は、答えの出ない自問自答の沼にずぶずぶとはまっていった。


「こんな時、ディーナがいてくれたら……」


 いつだって明朗快活だったディーナなら、俺に喝を入れてくれるに違いない。

 そんなことを考えていると、俺の足は自然とディーナの鍛冶工房に赴いていた。

 十五年前から時々風は入れているが、彼女が遺した武具や防具を処分することができず、店舗はほとんどそのままになっていた――はずだった。


 埃を被った鋼の鎧をせっせと磨く彼女の後ろ姿を見た時、俺の足は震えた。心が弱りすぎて、ついに幻覚を見たのかと目を疑った。

 だが、それでもかまわないと思った。いったい何が悪い。俺はずっと彼女に会いたかった。二度と会えないと絶望してからも、彼女の死を実感してからもずっと、ずっと……一目でいいから会いたかったのだ。


(ディーナがいる……ディーナが俺に会いにきてくれたんだ……!)


 俺はすぐにでも彼女を抱きしめたかった。華奢な背中も、艶やかな亜麻色の髪も十五年前のまま。愛する妻がそこにいる。


(あぁ、でも駄目だ……。こんな俺を見たら、ディーナが失望してしまう……)


 ただ歳を取っただけじゃない。誰も守ることができなくなった惨めな自分なんて、ディーナに見せられない。彼女の前では、あの時の俺でいたい。


 そう思った俺は、彼女に気づかれないように兜で顔を隠した。

 彼女が最後に俺に見繕ってくれた兜は、長く俺を助けてくれた。あちこちガタがきていたし、周りからは古臭いデザインだと馬鹿にされたこともあった。


(でも、俺にはコイツが一番馴染む。頼む……ディーナをがっかりさせたくないんだ)


 かつての俺がいないと分かったら、ディーナは愛想を尽かして天に帰ってしまうかもしれない。


 だから、見せられない。打ちひしがれた自分を覆って、夢と希望に溢れていた頃の〝僕〟として、彼女の前に立たないと――。


「……ディーナ?」

「リードリヒ! おかえりなさい!」


 花が咲いたような笑顔で振り返ったディーナの存在が、兜の中の俺の目頭を熱くした。

 夢にまでみた、亡き妻との再会。煌めくすみれ色の瞳が懐かしくて、いつまでも見つめていたかった。

 けれど、抱きしめても触れた感覚はない。ぬくもりもない。俺はそれらしい動作と言葉で彼女を欺いた。ディーナは自分が死んだことを覚えていなくて、俺のことも戦争から帰還したばかりの若い夫だと思い込んでいたのだ。


 口から出まかせで言った【兜が脱げない呪い】のせいで、俺は愛する人に嘘を重ねてしまったが、それでも手放したくないと思った。

 このままディーナが俺の嘘に気が付かなければ、ずっとそばにいてくれるんじゃないか。そんな願望すら抱いた。


 だが、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。人生が思うようにいかないことだって、とっくの昔に身をもって知っていた。


 ディーナは自分が亡くなっていることを思い出してしまった――。


***


「ディーナは、俺が心配で会いにくれたのか……? 俺があまりに情けないから……」


 夕空に昇り始めた月明りに照らされるディーナの顔を見つめながら、俺は言葉を絞り出した。

 俺は月明りの下に立ちたくなかった。歳を取り、戦場の傷や老いを隠すことができない自分の顔を、変わらず美しい妻の前に晒すことが嫌だった。


 ディーナはそんな俺に軽やかな足取りで駆け寄ると、そっと頬に手を添えてきた。

 触れられた感覚はない。だが、俺は彼女の優しさを感じた。


「世界一愛している旦那様よ? 理由がないと会いに来たらいけないの?」

「ディーナ……」


 俺はディーナのすみれ色の瞳が眩しくて、思わず目を逸らした。


「気を遣わないでくれ。今の俺を見て、がっかりしただろう?」

「馬鹿ね。濡れ羽色の綺麗な髪も……エメラルドみたいに輝く瞳も……私のことが大好きなところも変わらないじゃない。リードリヒはリードリヒのままよ」

「違うよ。俺は自分じゃ、生きる理由すら見いだせない……君がいないと駄目なんだ……!」

「そんなこととないわ」


 年甲斐もなくぽろぽろと涙をこぼす俺の頬を、温かな風が撫でていく。頼りない街灯の灯りすら、今の俺には明るすぎた。


「リードリヒが積み重ねてきた日々……私がいない十五年は、自分で選んで生きてきたものでしょう? その歩みを私も空から見ていたわ。あなたの後ろには、あなたが守ったたくさんの人たちがいることも」

「でも、俺は……」

「誇って、リードリヒ。この町はあなたの町……私じゃなく、あなたは自分で居場所を作ったんだから」


 ディーナは、「ほら」と俺の後ろを指差した。

 少し離れた橋の向こう側から、エドガーと仲間たち、素材屋の店主や服屋の女将が手を振っていた。


「おーい! リードリヒ! みんなが心配してるぞ! 悩むのは体によくねぇ。とりあえず飲みに行くぞ!」


 エドガーのよく通る大声が耳に飛び込んできて、俺は思わず震える唇を噛み締めた。

 今日一日だけでも、たくさんの人が俺に声を掛けてくれていた。「鍛冶屋の旦那のあんちゃん、だいじょぶか?」、「鍛冶屋さんの旦那さん、何かあったら話を聞くよ」、「リードリヒ、無理すんな」……。兜で顔を覆う俺の心を案じてくれていた彼らの優しさが、兜を外した今ならよく見える。


「ありがとう……ディーナ……」

「お礼を言うのは私の方。大事に使ってくれて、ありがとう」


 ディーナは俺の手にそっと兜を持たせると、くいと背伸びをした。

 妻の口づけは、触れる感覚がなくとも愛のぬくもりで溢れていた。


「また会おう。俺はこの町で待ってるから……」


 愛が満ち、呪い――夢のような魔法は解けてしまったが、星が戻った遠い夜空は、いつもに増して美しく見えた。


***


「リードリヒ先生、ありがとうございましたぁっ!」


 町の片隅の剣術道場から、ぱらぱらと子どもたちが飛び出していく。

 わたしは左手で木刀をくるくると回しながら、「また明日!」と景気の良い声と共に彼らを見送った。


「ねぇねぇ、先生!」


 不意に呼び止められて振り返ると、まだ道場に残っていた生徒が壁際に飾っている古い兜を指差していた。きちんと手入れをしているものの、劣化に抗い切れない年代物の武具だった。


「これ、昔、先生が使ってたんでしょ? どうして飾ってるの?」

「とても大切なものだからだよ」


 わたしは傷だらけの兜を手に取ると、懐かしい気持ちで目を細めた。


「どうしてもつらく苦しいことがあった時……これを被ったら、愛を満たそうとして彼女が会いに来てくれるんじゃないかと思ってね。まぁ、彼女に心配をかけたくないから、ここに飾っているというわけなんだか……」

「彼女ってだあれ?」


 きょとんと首をかしげる教え子にわたしは柔らかく微笑みかけた。


「世界一愛している妻だよ」



                                      【了】


読了ありがとうございました!

二度読んでいただけたら嬉しいなと思いながら書きました。

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