0-3 存在不明の惑星
冷たい風に頬を撫でられ、また横たわっていたと自覚した。千道は、目を開けてからも起き上がらずに空を眺めていた。先ほどよりも、雲の量が多くなっていた。背中に凹凸を感じず、視界を遮る存在が一つもなかった。
「あ」綺麗な顔が、横からにゅっと出てきた。「起きた?」
肩を震わせ変に震える声を出したら、相手は千道の正面で胡坐をかいてケラケラと笑い出した。彼もゆっくりと身体を起こし、右手で額を押さえた。気分はどうだと言われたので、最悪だと返しておいた。
「骨の彼」
「なに、その渾名。変なの」
骨を意図的に人体の外に出したから、一先ずはそう呼ぶことにした。ちなみに美少年の本名は、この物語ではなく次で判明する。言い換えるならば、ここではすぐに別れが来てしまうのだ。再会する日まで、千道は彼を一度たりとも忘れなかった。
具合も気にかけられたが、曖昧な返事をするしかなかった。一度深呼吸をしてから、彼も質問をすることにした。
「なぁ、君って人間か?」
とても真面目な表情と声音で問いかけたが、美少年は変な質問だと受け取った。ぎこちなく首を縦に振り、『まだ気が動転しているのか』という思いを込めて、不可解な顔をした。
もちろん、千道は最初から正気を保っていた。頭をかきながら、怪物を殺してたと付け足した。合点が付いた相手は、理解の声を出した。
「怪物っていうか、シニミね。てかアンタさぁ、いくら珍しいからって、人のソウルを人外扱いするのは良くないよォ。俺、結構傷ついたんだからねェ?」
美少年は、千道が気絶する直前に言ってしまった言葉を引きずっていた。右頬を膨らませて不貞腐れると、すぐに謝罪が飛んできた。
だがここで、千道からしたら聞き慣れない単語が再び出てきた。ソウルはなんだと、同時に質問を投げた。骨の彼は、本格的に困惑し始めた。
「アンタ、記憶でも吹っ飛んでるのォ? それともまだ、顕現してないだけ? いやでも、シニミとかソウルって言葉くらいなら、赤ちゃんでも知ってるよォ。てか、なんで魔力がねぇのに動けるの? もしかして人間じゃなくて、シニミだったりして」
今度は、千道が質問攻めされた。処理が追いつかない中、辛うじて人間だと答えた。美少年はまた笑い出し、冗談だと左手を軽く振った。本当に言葉通りだったようで、それ以上は言及してこなかった。
魔力とかシニミとか、そんなことはひとまず置いておく。改めて周りを見渡した千道は、『やっぱり、知らない景色だ』と思い直した。『歩いていれば、インターネットに転がっている写真と一致する風景があるかもしれない』と、少しばかり期待していたが、それも諦めた方が早そうだ。
「ここはどこですか」
「マキミム博物館の屋上」美少年は小声で付け足した。「ここも知らないんだ。この国の首都名なのに」
知らない建物名を言われたので、最長記録の放浪旅だとは理解した。追加で国の名前を聞いたら、美少年はゼントム国だと答えた。
千道は、脳内で『「ぜ」から始まる国』と検索をかけた。その結果、濁点すら付いてないセネガルしか出てこなかった。だが、相手が噓をついているようには、とても見えなかった。
背中から、冷や汗が浮き出てきた。手足の先端から、体温が無くなっていく。心臓が忙しなく脈を打つ音だけが、妙によく耳に届いた。寒さからではなく、恐怖から歯を鳴らし始めた。『まさか、そんな。ありないことが、俺の身に起きてしまったのか?』と、千道は首を振った。
地域でも国でも理解に苦しんだので、さらに範囲を広くするしかなかった。いくら息を整えようが、声は震え続ける。開閉していた口から、ようやく最後の質問を零した。
「この惑星の、名前は……?」
「ユーサネイコー」
まったく知らない言語を目にし、不気味な怪物のせいで九死に一生を得る羽目になった。逃げている最中に、灼熱の道の上で転んだ。両手を滑らせて顎を打った痛みは、まだ残っている。
当然のように答えた、目の前にいる美少年は自身の身体から骨を引き抜いた。そのまま弓矢を造り、怪物を二度も殺した。
あらゆる証拠を見せつけられ、千道は死刑宣告される罪人のような気持ちになった。別に、何の罪も犯した覚えはない。パスポートを所持していないので、強いて言うなら不法侵入罪だろうか。
――――こんなことが、ありえるのか?
千道は腕を伸ばし、美少年の頬をつねった。ぐいっと引っ張ったので、痛いと手を払われた。次に、自分の右目を触った。もしも夢の中だったら、左と同じ機能を持っていたはず。現実は、片目を閉じただけで暗黒の世界へ一転する。これが答えだった。
そうか、もはや認めるしかないらしいなぁ、これは! この光景こそが、揺ぎない真実である。千道は放浪していたら、異世界へたどり着いてしまったのだ。
再び大混乱へ放り出された千道は、鈍器で頭を殴られような感覚がした。そのまま倒れ込み、仰向けに寝転がった。怒りも、混乱も、恐怖も通り越していた。ただ、呆然と空を見上げていた。
美少年は、何も言わずに虚無をまとう彼を見ていた。立っているのは疲れるので、隣に座り直しただけだった。
「現実なのか」千道は呟いた。「意味が分からない怪物に、よく分からない力。悪夢としか思えないけれど、目は覚めているし。誰も知らない場所まで来れたのに、肝心の夢が叶えられるかも分からない。俺の放浪旅にも、不思議なことが起きるんだな」
「放浪旅? なぁに、それ」
見守っていた骨の彼は、ここで口をはさんで首を傾げた。千道は彼を一瞥し、面白い話じゃないと前置きを言った。右手を空に伸ばし、淡々と語った。
「俺って、放浪癖に取り憑かれているんだ。学校帰りとか夜に徘徊したりして、見たことない景色を探している。いつの日からか、『どこかに理想郷があるのかも』って思い始めた。初めて見た景色が、あまりにも綺麗だったから。俺の魂に、安寧を注いでくれる所があるんじゃないかって。それが俺の夢」
千道は、まだ漠然としか想像できていなかった。しかしどこに行っても、この夢を持ち続けていた。暗くて寂しい場所ではなく、陽だまりのような暖かさがある明るい未来を求めていた。
退屈とは無縁で良い人間関係を保てて、世界を見ることが許される。そんな幸福がある場所があると、本気で信じている。しかし彼には、宿命という絶対的な支配者がいた。これは人生の色が暗いほど、力を増す。失った右目と灰色と化した髪は、絶対に断ち切れない鎖のような存在だった。
「へぇ」美少年は感想を述べた。「良い夢だねぇ。壮大で、本当に世界一周しそう」
馬鹿にした素振りはなく、素直に言ったと千道は勘づいた。まだお互いに名乗っていないのに、真剣に話を聞いてくれた。軽蔑する言葉を一度も吐かれなかったことに対して、歓喜が芽生えた。
もしも良好な関係だったら、家族も同じ反応をしていただろう。残念ながら、それは実現しなかった。
「自分の家に帰りたいって、思ってないの?」
「まさか」千道は冷ややかに答えた。「思わない。あんな地獄に、戻りたくない」
美少年は目を見開いた。彼は、千道が元の場所に帰りたがっていると考えていたのだ。実際は真逆のことを言われ、驚きを隠せなかった。
「アンタにとっては、ここも地獄だよ」
「うん、分かってる。でも、理想郷があるかもしれない」
そう決めつけた理由は、千道自身でもよく分からなかった。導かれるようにして、ここに来たのかもしれない。それとも本当に、ただ運が悪く飛ばされただけか。どちらにせよ、彼の中で地球に帰ろうとする気力は、すでに塵と化していた。