0-2 奇妙な出会い
不幸な人間に、神が慈悲でも与えてくれたのだろうか。いつまで経っても、自分の身体が焼け落ちる音が聞こえなかった。やがて強張る千道の身体に触れたのは、冷たい空気だった。
恐る恐る目を開けて上半身を起き上がらせ、首を動かした。道は黒ずんでしまったが、それ以上は悪化していなかった。徐々に、彼の身体と道路が平熱に戻った。擦りむいた膝は痛いままなので、生きていることを自覚した。腰を抜かした故に、立ち上がれなかった。
右を見ると、スイカを半分にしたような形が転がっていた。その中に、白目を向いている大きな片目と、大きく開けっ放しの口の半分がついていた。そこから出てきている液体は、ナスと同じ色だった。状況から推測すれば、怪物の血だとしか思えなかった。
胸の奥から何かが出そうになるのを、千道は両手で口を押さえて必死にこらえた。しばらくすると、その死骸は勝手に塵となって消滅した。まるで、最初から何もいなかったかのように。だが、道路にへばりついた血は消えていなかった。
どこかへ伸びていたので、無意識に目で追った。途切れた先に、もう半身を踏んでいる足を捉えた。顔を上げると同時に、その人物と目が合った。千道は時が止まったようにして、澄んだ青色の瞳を見た。
クリーム色の髪の毛をしており、右側のこめかみからは黒いメッシュが飛び出ていた。白いスーツを着こなし、引き締まった腰をしていた。普通に街を歩いていたら、モデルだと勘違いされそうな体型を持っている。まさに、美少年という言葉が当てはまった。
彼は怪物の半身を、どこかへ蹴り飛ばした。転がった先で消滅するのを確認したら、千道ともう一度目を合わせた。その瞳に吸い込まれるようにして、見つめ返した。おそらく、観察し合っていた。何も言わずに気まずい空気が漂い始めたところで、先に我に返ったのは千道だった。
「助けてくれて、ありがとうございます」
頭を下げてそう言ったが、返事はなかった。千道は疑問に思い、頭を上げた。美少年は、首を傾げていた。『緊張して小さく言ったから、ちゃんと聞こえていなかったのか』と考えた彼は、一回り大きな声で二度目のお礼を言った。
しかし相手は無言のままに加えて、眉を顰め始めていた。この反応からすると、さきほどの集団と同じく、異国の人という可能性が高い。最終手段として、地球で一番話されている言語で三回目の感謝を伝えた。英語のリスニングが苦手であるにも関わらず、スピーキングが得意だったことを思い出しながら。
だがこの自信も塵と化すように、現状は何一つとして変わらなかった。千道はさすがに肩を落とし、どうすれば伝わるのか試行錯誤した。『ボディーランゲージに挑戦しようかな』と頭を捻っていたら、足音がした。
少し見上げると、水色の模様が入った白いローファーが見えた。美少年が、少し開いていた千道との距離を詰めたのだ。相手は目線を合わせるようにして、彼の前にしゃがみ込んで左手を前に出した。見つめていたら、急に眩しい光が入ってきた。千道は肩を震わせ、思わず手で顔を覆った。
特に痛みは襲って来なかったし、身体にも異常はなかった。身構えた分、損した気分になった。もう一度顔を上げると、相手はゆっくりと左手を降ろしていた。それを見た千道は、何かしたのかと、普通に問いかけていた。
「おぉ、話せるねェ」
美少年は初めて微笑んだ。その通り、やっと会話が成立した。お互いに言葉の意味を、理解することができた。しかし何故急にそうなったのかについて、千道の頭を悩ませた。そんな彼が面白かったのか、相手はクスクスと笑い始めた。
「あのねェ」美少年はもう一度話しかけてきた。「〈言語訳魔法〉をかけたんだよォ。アンタ、知らない言語を話すからさァ」
「ゲンゴヤクマホウ……ゲンゴヤクマホウ?」
まったく聞きなれない言葉が出てきたので、千道の頭は大混乱寸前だった。美少年は不思議そうに彼を見つめていたが、もう家に帰りなと、親切な言葉を投げかけてくれた。
だが困ったことに、今の彼は迷子という状態になっていた。歩いていたら、知らない場所にいた。この言葉に噓も誇張も一切ないのだが、信頼度はとても低い。
せめてなにか言わないといけない、と思っていたのは本当である。実際に出たのは、自分でも驚くほどの大声だった。間近で聞いた美少年は目を見開いたが、無垢な子供のような表情をした。
千道は必死に後退りしながら、腕を震わせ始めた。まるで恐怖映像でも見ている怖がり方をしていたので、美少年からしたら意味不明な行動にしか見えていなかった。
相手は、本当に気付いていないのか。それとも彼を驚かそうとして、わざとやっているのか。反応から察するに、恐らく前者だった。
壊れたテレビみたいに何度も噛んだ千道は、言い直そうと深呼吸を繰り返した。その最中、彼の顔から体温が引いて行った。やっとのことで、首を傾げ続けている美少年の左腕を、震えた人差し指で指した。
「骨ぇぇぇぇっっ!!」
「え? ……あぁ、しまい忘れてた」
ようやく正式に叫ぶことができた。脊椎動物において骨格を構成し、リン酸カルシウムやコラーゲンなどに富んだ、硬い組織である白い物体。それが、美少年の右腕からそのまま飛び出ている。
当の本人は自身の腕を見ても、飄々とした態度をしていた。顔を歪ませたりもしていないので、この時点で無害であると理解できたはずだった。だが現実の千道は、落ち着かせようと宥める美少年の言葉など、一切届いていなかった。それどころか、質問混じりの感想を一方的にぶつけ続けていた。
「そんな、ど、どうして。もっ、もしかして、あの怪物にやられたの? あ、あれ? でも血は出ていない、なんで。あれ、よく見ると、服も破れてない? でもこれ、模型なんかじゃないよね!?」
「そんなに驚く……? まぁ、珍しいとは言われるけれど」
眉を八の字にして困った美少年は、勝手に深刻に考え出している千道から少し顔を上げた。次の瞬間、本来ならば体内に戻そうとしていた骨を、左手で一気に引きずり出した。
その光景を見ただけで仰天しそうになった彼だったが、骨が瞬く間に弓矢へと形を変える様子から、一時も目が離せなかった。美少年は水牛を殺すような視線をしながら、弓矢を千道に向けた。
「へ」
「動かないで」
殺気を孕んだ声を出した美少年は、千道の身体が震撼するほどの威圧を放っていた。文字通り、彼は一歩も動けなくなってしまった。『もしや先ほどの怪物も、あぁやって骨で何かをして殺したのかもしれない。次の標的は、俺なのか。散々喚いたから、口封じに息の根を止めるつもりか』と、被害妄想に近い思想を持ち始めた。
相手は迷いもせずに、弓を引いて手を離した。千道は慌てて、両腕で顔を覆って目を閉じた。こんなことをしても無事ではいられないと、脳内では理解しているのにも関わらず。
骨のソウル―――― 骨矢刺串
「おっ、俺は怪しい人なんかじゃ……えっ?」
鋭利な矢は、見事に千道の横を通り過ぎた。すぐ後ろから、地を這うような声が聞こえた。驚いて振り向くと、泥でできた犬のような怪物がいた。脳天に骨が刺さっており、そこから緑色の血が勢い良く飛び出していた。
この怪物には、手も足もあった。千道は、背後を取られていたことにまったく気が付かなかった。美少年は彼ではなく、この物体を殺すつもりだった。敵は倒れて、そのまま消滅した。
「危なかったねェ」
そう言った美少年は、怯えた羊をあやすような笑みを千道に向けた。相手の左腕を見ると、骨はもう飛び出ていなかった。依然としてスーツには穴が開いていないし、彼自身も怪我をしていない。
口をパクパクと動かすだけの彼は、心臓が身体から飛び出て行く感覚がした。ぷちんと緊張の糸が途切れ、両膝から崩れ落ちた。
「人外、だ」
ほぼ無意識に零れた一言を最後に、千道の意識は暗黒へ投げ出された。美少年が、目を見開いていた気がした。