0-1 不思議な出来事
遭難編
少なくとも末成 千道が住んでいた地域では、どんなに寒い日が来たとしても、アザラシの大群が転がって来るのはありえなかった。空気が冷えていると言えど、彼らが生きれる温度ではなかった。ペンギンやアホウドリにも、お目にかかれるわけがなかった。しかし今の彼は、動物園にでも行かなければ出会えない存在に囲まれていた。
詳しく話すとすれば、千道自身は寝転がっていた。だらしなく口を開けて、重い瞼を動かした。背中から冷たい温度が伝わり、すぐそばで波が揺れる音がして砂埃が舞い上がった。
彼は『どこかに打ち上げられたのか』と、回り始めた頭で察した。しかし、船に乗った覚えは一切なかった。とりあえず両手を使って、上半身だけでも起こした。てっきり死んでいると思っていたらしい、アホウドリは驚いて一斉に空へ飛んだ。ペンギンは駆け足になり、順番に海へ戻った。アザラシは比較的落ち着いた様子で、どこかへ転がった。
千道は呆然とその様子を見ていたが、衣服を貫く寒さが襲いかかってきたことで、完全に意識が覚醒した。両手で両腕を擦るが、あまり効果はなかった。歯をガチガチと鳴らしながら、自分の姿を確認した。
無地の白いシャツの上に着ている、灰色のパーカーが上着代わりとなっていた。所々破れている箇所があるネイビージーンズは、丈が少し短くて心許無かった。少し離れた所に、黒いスニーカーが転がっていた。いつの間にか脱げてしまっており、靴紐は切れていたので結び直せなかった。
空は素晴らしく晴れ渡っており、これから雨が降ることはないだろう。そんな晴天にも関わらず、この地は千道の地元よりも断然に冷え込んでいた。
彼はようやく立ち上がって周りを見渡したが、人影らしきモノはどこにも見つからなかった。右も左も分からぬまま、散策することにした。フラフラとした足取りは、まるで長時間飛行機に乗って来たかのよう。
不気味なほど静かな岩場の先には、黒色の崖があった。絶壁というわけではなく、手を使えば登り切れそうな緩やかさだった。『上に行くには、ここしか手段が無さそうだ』と考えた千道は、氷のように冷たい崖に触れた。
下を見て、足を踏み外さないように登り始めた。すぐに指先が悴んでしまうので、片手ずつ息を吐いて温めるのを繰り返した。両腕と両脚の力を酷使し、何分後かに登り切った。
後ろを振り向くと、海鳥の群れが甲高く鳴きながら、一面に広がる光の上を飛び回っていた。ペンギンがいる崖の側面に、白波がゆっくりと打ち当たったと思うと、北風と共にうねり続けていた。
千道が立っている地点は一気に標高が高くなり、周りの景色を一望できた。彼がいる野原を越えた先には、住宅がちらほらあった。その中で、一際目立った建物を捉えた。大学のキャンパスのような大きさをしており、一部の建物が宙に浮いていた。
さらに遠くの方には青紫色の山があり、周辺には低くて暗い雲が囲んでいた。あそこだけ、ずいぶんと重々しい空気が流れていた。『異様な空気だ』と思いながら、彼は石造りの階段を下りた。
広がる枯れ草交じりの草原を歩きながら、千道は『向こうに行けば誰かいるかな』と考えていた。崖の下よりは少ないが、ここでもペンギンが列を作って横断していた。こんな近くに人間がいるのに、平常心を保っていた。襲われない自信があるのか、単に彼に興味がないのかは分からなかった。
草原を抜けて石が敷き詰められている小路まで歩くと、少し年季が入っている木製の看板があった。彼は近付いて読もうとしたが、何の言語なのか分からなかった。それは日本語でも、韓国語でも、中国語でも、英語でも、タイ語でも、アラビア語でもなかった。すべての言語に当てはまらない形をしていた。
解読するのは不可能だったので、千道は諦めて先に進んだ。歩きながら、『そんなに遠い場所まで来たのか?』と、自問自答をした。しかし白状するとすれば、彼はその方法を何一つとして思い出せなかった。さっきまで何をしていたか、それすらも。暗い疑問の迷路に、迷い込んでしまったようだった。
脳味噌を回転させ思い当たる節を必死に模索していると、向こうから住民らしき存在が走ってくるのが見えた。彼らは口をせわしなく動かし、両手足を出来るだけ速く動かしているようだった。髪型が乱れ、靴が脱げてしまっても、気に留めていなかった。
集団を見た人も、すぐに一緒になって走り始めていた。そして彼がその光景を凝視する時間も、ほんの一瞬だった。どうして全力疾走しているのか、その原因を理解したからだ。それを見てしまってから、本能的に来た道を引き返し始めた。
静寂を一瞬で破り捨て、腹の底から震えあがる咆哮が集団の後ろから聞こえた。直後、建物が燃えた。火事が起こったようだった。しかし自然発火ではなく、故意的に突発した。その犯人が、集団の最後尾にいた。その姿は、サッカーボールほどの大きさをしている顔のみで、ごうごうと燃え盛っていた。
犬や猫のように、人間の言葉は通じないのは一目瞭然。もしも言語を理解していたら、道路に向かって口から炎を出し、人々を追いかけ回すわけがない。この二点を踏まえると、新種の生き物というより、怪物という言葉がお似合いだった。
腕を振って走り続けていると、隣にいる男性に怒鳴られた。千道が首を動かすと、彼は白人寄りの肌色を持ち、白髪が混じり始めていた。唾を吐きながら、千道に何かを訴えている。
何を言っているのか、青年にはまったく理解できなかった。単純に、話されている言語を知らなかった。何度も同じことを言われても返事ができず、困り眉になり首を傾げ続けた。
やがて、男性は話が通じないと理解したらしく、舌打ちを残して走る速度を上げた。それからも千道は、他の人――婦人や老人――にも同じ言葉を言われたが、全員に対して同じ反応した。いや、そうするしかなかったと言った方が正しかった。
いつまで走れば、あの怪物は消えるのだろう。誰もが思っていた矢先、眼鏡をかけた女性が前方を指した。見ると、もう少しで分かれ道に激突しそうだった。状況から考えるに、「右か左かに行こう」と言っていると千道は推測した。右に行くと草原へ抜けて、左へ行くと小路へ逆戻りする。
あの怪物が何なのか、さっぱり分からない。今ある情報は、口から炎を吐き出すということだけ。『もしも草原へ行ったら、その先にいるペンギンたちにも被害が及んでしまう。だから、左に行こう』と、無意識に足の速度を上げた。
千道は、いつの間にか先頭を走っていた。もう誰かの背中に従うのは不可能だったので、直感に身を任せるようにして十秒だけそのまま全力疾走をした。他の人たちが来てくれたか、後ろを振り向いて確認した。
一番に映ったのは人ではなく、例の怪物だった。千道は、貧乏くじを引いたことを理解した。たった一人だけ、小路へ戻ってしまったのだ。
ここで一つ、彼の脳裏に疑問が過った。つい先ほどまで一緒だったはずの、集団の影がどこにも見当たらないのだ。本来ならば怪物よりも奥側にいるはずなのに、姿は忽然と消えていた。
幻覚と幻聴でも起こしてしまったのかと、勘違いしそうになった。だが、口から炎を吐き出している元凶は相変わらず見えている。足場が火の海へと生まれ変わり、石が溶け始めた。背中が焼けるように熱いと感じた彼の身体の機能は、紛れもなく正常である。
千道が逃げれば逃げるほど、焼失被害も拡大した。次から次へと棟に火が飛び移り、焦げた煙の臭いで鼻が馬鹿になりそうだった。逃走の集団にいたのか、家に立てこもっているのか、彼以外の人間は一向に現れない。
長時間走るのは、実に久しぶりだった。暑さで汗がだらだらと出たのと、疲労が確実に蓄積された彼は、すでに限界突破していた。ついに、脚がつっかえて盛大に転んでしまった。
両手と顎が、灼熱の道路にへばりついた。すぐに起き上がろうとするが、両脚は震えるばかりでうまく動かせなかった。彼が後ろを見ると、怪物が目の前まで迫っていた。口を大きく開けて、新しい火の玉を作り出している。
それを見て『殺される』と直感したが、もう成す術がなかった。『これは悪夢に違いないから、全部噓だ。本当だとしたら、明日のトップニュースになるに違いない』と、心の中でそう言い聞かせながら、千道は両眼をギュッと閉じた。