とある騎士の日常
アースヴェルト帝国竜騎士団第一騎士隊隊長であるアーヴェルは逸る心を抑えながら帰り道を急いでいた。
彼は半年前に最愛の女性と結婚したばかりなのである。可愛い新妻を迎え入れ浮かれきったアーヴェルにとっては正直仕事どころではなかったが、結婚して三ヶ月も立たないうちに騎士団の任務で遠征が入り、泣く泣く遠い国境付近へと赴いた。
結婚してすぐに夫が長期で家を空けるなど普通の女性であれば愛想をつかしてしまってもおかしくはない。特にアーヴェルの妻となったヴァイオレットはこれまで大変な人生を歩んできた人なので、これからは誰よりも、何よりも大事にすると結婚式で誓ったばかりだったのだ。
しかし遠征に行きたくない、なんなら仕事を辞めても構わないとぼやくアーヴェルを宥めすかし、手作りの花の刺繡入りのハンカチを持たせて送り出してくれたのもまた妻であるヴァイオレットだった。
アーヴェルは遠征の間、ヴァイオレットから贈られたハンカチを常に懐に入れ、寂しくなるたびにそのハンカチを取り出しては愛する妻の姿を思い出し微笑んでいた。
周りの騎士仲間たちは新婚にもかかわらずすぐに遠征の仕事が入ってしまったアーヴェルを憐れみつつも、あまりに妻を恋しがるその姿に呆れていたという。
アーヴェル自身、自分がこれほどまで誰か一人に執着するなど考えたこともなかった。
物心がついた時から相棒のルルと共に戦場を駆け回っていたアーヴェルにとっては、自分が高位貴族の跡取りであるという自覚は低く、それ以上に自分は騎士であるという自負を持っている。無骨で無作法で、戦場では血も涙もないと恐れられているような自分が、心から望んだ相手と幸福な結婚をするなど誰が予想しただろう。
これまで何度か国内での権力を高めたい貴族から実家を通して縁談の申し込みもあったが、体も大きく女性の扱いも碌にわからないような自分が相手では相手も可哀想だろうと全て断っていた。
幸いなことに優秀な弟たちもいることであるし、自分はこのまま騎士団に骨を埋めるのも悪くないかもしれない。
ヴァイオレットに出会ったのは、アーヴェルがそんなことをなんとなく考え始めていた頃だ。
――彼女に初めて会った瞬間、雪の妖精が目の前に現れたのだと、年甲斐もなくそう思った。
その日、朝から雪が降り続いていた帝都の街を巡回していたアーヴェルは、ひとけのない裏路地で頭や肩に雪を軽く積もらせたままじっとしている女性の後ろ姿を見かけ、声をかけたのだ。
その女性がゆっくりと振り返った瞬間、時が止まったような気がした。
陽の光を浴びて黄金の糸のように輝く金髪に、神秘的なアメジストの瞳。その知性をたたえた深い紫色の瞳がアーヴェルを映した時、彼は思わず何かにひれ伏しそうになった。
ゴクリと息を呑んだまま何も言えずに固まってしまったアーヴェルを、少し困ったように眉を下げたまま目の前の女性が見つめてくる。彼女の頬は、寒さのためか少しだけ赤く染まっていた。
その柔らかそうな頬に思わず手を伸ばしそうになった時、目の前の女性から「騎士の方でしょうか? すみません、実は道に迷ってしまって……」という声が聞こえてきて、アーヴェルはハッとなった。
(可憐な女性は、声まで美しいのか……。いや、待て、今はそんな場合か)
心の中の動揺をなんとか押し隠し、ヴァイオレットをしっかりと家まで送り届けた自分を褒めてあげたい。
結局、そのすぐ後からヴァイオレットが身を寄せるエヴァンス家の屋敷へと何かと理由をつけて度々足を運ぶようになった。
屋敷の主人であり、アーヴェルの上司でもあるマルリー・エヴァンスは当初その様子を静観していたが、ある日アーヴェルを呼び出すと、二人きりの部屋でヴァイオレットのことをこれまでの複雑な事情も含めて淡々と述べ始めた。
流石にその話にはアーヴェルもとても驚かされた。ベルンシュタインにやってきた勇者の話は大陸中で有名であったし、その国の王妃が急に離縁して表舞台から姿を消したという話もまた、遠いアースヴェルトの地まで伝わっていたからだ。
マルリーがその話をわざわざしたのは、ヴァイオレットを気に入っているらしいアーヴェルに、彼女の過去までも受け止めきれるのかということを問いたかったのだろう。つまり、覚悟を確かめたのだ。
もちろん、アーヴェルの答えは聞かれるまでもなく決まっていた。
マルリーもアーヴェルの迷いのないまっすぐな瞳を見てそれ以上何も言うことはなく、ただ一言、「あの子をよろしく頼む」と頭を下げたのだった。
マルリー公認となったアーヴェルは、遠慮なく彼女に会いに行くようになった。
積極的に外に連れ出そうとするアーヴェルに、当初は戸惑っていたヴァイオレットも次第に心を開いてくれたのか笑顔を見せてくれるようになる。
初めの頃は翳りを帯びていたその瞳がだんだんと輝きを取り戻していくのが嬉しくてたまらない。そうして、全てのことに目を丸くさせ、好奇心を隠さずになんでも挑戦しようとするヴァイオレットに、ますます愛おしさを募らせていたある日、ヴァイオレットのかつての夫がわざわざこの国までやってくることを知った。
アーヴェルの心の中に、今更なんの用だと嵐が吹き荒れたのは言うまでもない。
帝国記念パーティーは毎年行われているが、これまでベルンシュタインは一度たりとも参加したことがないのだ。何か意図があるのは明確である。
もしもヴァイオレットに関わることで何か企んでいるのなら、自分の全てをかけてでも守り通さなければならないと腰に下げた剣に手を当てながら心の中で強く決意していたのは、誰にも言えない秘密だ。
結局、アーヴェルが予想していたような最悪の展開は何も起こらなかった。だが……。
「少し場所を変えて話しませんか?」
勇者と共に会場から去っていくヴァイオレットの後ろ姿をじっと見つめていたアーヴェルに声をかけたのは、ベルンシュタインの国王であるクリストファーである。
優男風のその男がかつてヴァイオレットが愛していた元夫だと思うと強い嫉妬心が心の中から湧き上がってきたが、なんとかそれを抑え頷く。
アーヴェルとクリストファーがバルコニーへ出て、二人で並んでしばらく無言で景色を見ていると、
「この国はいいところですね」
唐突にクリストファーが口を開いた。
「自然に溢れた、豊かな国だ。活気に満ちていて、民の顔も明るい。ベルンシュタインもかつてはそんな国でしたが、魔物によって壊滅的な被害を受けてからはそんな余裕もなくなりました」
「南方は被害が甚大だったと聞きましたが」
「はい。魔王が倒されてからも荒れ果てた国内にはなかなか復興の目処がつきませんでした。そしてそんな混乱した国の内政をまとめてくれたのが……、……ヴァイオレットでした」
思わずクリストファーのほうへと顔を向けると、彼と視線がぶつかった。
その顔からは、なんの表情も読み取ることができない。
「彼女は優れた為政者であると同時に、おそらく誰よりも王妃に相応しい人だった。国を建て直すための政策を次々と打ち出し、時には直接民の元へ赴いて励ます。そんなことが当たり前にできる王妃がどれだけいるか、当時の私にはわかりませんでしたが」
「今更、何を……」
思わず威嚇するように低く唸ったアーヴェルにクリストファーは首を振る。
「別に連れ戻したいとか、そういうわけではありません。ただ、彼女がいなくなってからその姿を思い出すたびに、一人で朝から晩まで机に向かう姿ばかりが思い出されて、私は……」
少しだけ震えたその語尾に、ずっと何かを押し殺したようだったクリストファーの言葉に初めて感情がのった気がした。
その感情は後悔、だろうか?
だけどアーヴェルがその姿を掴み取るよりも早く、クリストファーは感情を振り切るように大きくため息を吐いた。
「ヴァイオレットがあんなふうに笑うのを初めて見ました。彼女はこの地で幸せになったのですね」
「ああ……彼女は、よく笑う」
「あなたのおかげでしょう」
そう言って少しだけ寂しげに笑ったクリストファー。彼がバルコニーの欄干に伸ばした手袋のついた手と袖の間に、少しだけ黒ずんだ肌色が見えた気がして、アーヴェルは思わず目を見張る。
しかし、その視線に気づいたクリストファーが袖を素早く直したためにすぐに見えなくなった。
アーヴェルが気のせいだろうか、と彼の姿を見つめている間にクリストファーのほうも何やら心の整理がついたらしい。「先に戻ります」と言い残し会場へと戻っていったのだった。
大きく荒れるだろうと思っていたクリストファーとの対面は、予想に反して凪いだ心で受け止めることができた。
それはクリストファーの態度が終始落ち着いているのもあったが、何よりもヴァイオレットがつらく大変な過去を乗り越えたからこそ、自分と出会うことができたのだと、そう思えるようになっていたからだ。
――その後戻ってきたヴァイオレットに思わずその場でプロポーズをしてしまったことは、あれはどうなんだと後から自分でも頭を抱えてしまったが、彼女が幸せそうに笑って承諾の返事をしてくれたので、まあ結果がよければいいだろうと自分を無理やり納得させることにした。
◇ ◇ ◇
「お帰りなさい」
馬車が屋敷の前につくと、まだアーヴェルが降りきらないうちにヴァイオレットが屋敷から飛び出してきた。
久しぶりの愛しい妻の姿にアーヴェルは思わず頬を緩ませると、「ただいま」と言いながら彼女を抱きしめて頬に口付けを落とす。
「もう遅い時間だから先に休んでいると思っていたが……」
「今日帰ってくると連絡を受けていたので、待っていたんですよ」
どうやら、アーヴェルのことを待っていてくれたらしい。
少し不満げな声を出すヴァイオレットのことが愛おしくてたまらなくなり、アーヴェルは再び彼女のことを強く抱きしめた。
ヴァイオレットは頬を赤く染めながらも「しょうがないですわね」と仕方なさそうに抱きしめ返してくれる。
「俺の妻が可愛すぎる」
「何を言っているんですか?」
「本当のことだ。なんなら今からデートに行くのはどうだ? ルルを呼ぶから、久しぶりに夜の空中散歩でも……」
「もう、落ち着いてください。遠征から帰ってきたばかりなんですから、ルルも休ませてあげないと可哀想ですよ。それに……」
「?」
何かを言いかけたヴァイオレットのことを疑問の目で見つめ返したアーヴェル。その耳元に口を近づけると、ヴァイオレットは囁くようにして彼に『あること』を伝えた。
「! 本当か!?」
「はい。お医者様によると、今三ヶ月くらいだそうで順調みたいです……ってキャッ!」
「ヴァイオレット、君を心から愛している。俺は幸せ者だな」
ヴァイオレットを大切な宝物を扱うように優しく抱き上げ、機嫌良さそうにくるくるとその場で回り出すアーヴェル。
ヴァイオレットはそんな彼をくすくすと笑いながら見つめると、ふいに顔を近づけて口付け、「わたくしも幸せです」とそう囁いた。
幸せそうに微笑み合うふたりを、優しい月の光だけがただ照らしていたのだった。
そうしてふたりは小さな幸せを積み重ねながら新たな物語を紡いでいく。
それは、どんな伝説にも残ることのないちっぽけなお話だ。
今日もどこかで誰かが送っているような平凡な人生。ありふれた生活のその先で、なんの記録にも残らないふたりだけの物語は、きっとこうやって締め括られるのだ。
めでたし、めでたし――。
ちなみにスミレの花言葉は「小さな幸せ」です。
きっとその名前に相応しい人生を送ったのでしょう。
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