前編
全二話の予定です。
よろしくお願いいたします。
ベルンシュタイン王国は大陸の最南端に位置し、海の幸と採石で栄えた豊かな国だ。
三方を海に囲まれた土地柄攻めこまれにくく、加えて周辺諸国とも二百年にわたって友好条約が結ばれている極めて平和な国であるが、近年、国全体で頭を悩ませている問題があった。
それが、「魔」の存在である。
穢れから発生する魔物はこの世界の人間にとって大きなの脅威であるが、その魔物の王である魔王が千年ぶりに復活したのである。
そして魔王が復活したのが、よりにもよってベルンシュタインよりさらに南に位置する孤島、後に「魔王島」と呼ばれることになる場所だった。
魔王率いる魔物との戦いの最前線となってしまったベルンシュタイン王国は他国よりも被害が甚大で、国家存亡の危機に瀕した国の王や重臣たちによって、一つの大きな決断が下された。
それは、代々王家に秘伝として伝わっていた古代の魔法を使い、異世界から勇者を呼び出すことである。
そうして召喚されたのが、まだ十代のあどけなさの残る少女――のちに勇者ハルカとして伝説に語り継がれることになる人物だった。
ベルンシュタイン王国は勇者ハルカを中心に、第一王子クリストファー、賢者ロード、戦士ウルフ、神官リーナをメンバーとした勇者パーティーを編成し、数年の訓練ののち魔王島へと送り出した。
彼らは長い年月をかけて見事魔王を倒し、帰還を祝した凱旋パレードは王都中の人たちが集まり、かつてないほどの熱狂に包まれた。
さらに、当然の成り行きとも言うべきか、共に旅をするうちに、勇者ハルカと第一王子クリストファーの間に特別な愛情が芽生えたご様子。
パレード中も馬上で互いに囁き合う親密な姿が数多の人によって目撃された。
こうして、平和で幸福な時代の到来の予感をひしひしと感じた国民たちは、諸手を上げて二人の仲を歓迎したのだった。
さて、後世にまで伝説として語り継がれることになる、異世界から来た勇者ハルカの物語。
御伽噺であれば、『こうしてハルカは王妃となり、二人は幸福に暮らしました。めでたしめでたし。』
そう紡がれただろう物語の中にはしかし、一つだけ取り残されてしまった存在がいた。
それが、第一王子クリストファーの幼い時からの婚約者である公爵令嬢ヴァイオレット。彼女は婚約を結んだ十二歳の時からクリストファーだけを一途に思い続けており、魔王討伐が終わった暁には彼の妃となることがすでに決定していた。
そのために幼い頃から過酷な王太子妃教育を受け、将来はベルンシュタイン王国の中核として大いに活躍することが期待されていたのだ。
こうして、国王陛下や第一王子クリストファー、ヴァイオレットの実家であるウィンザー公爵家、貴族院たちは何度も協議し合い、互いの妥協点を見出した。
まず、高齢ですでに公務をすることが困難になっていた国王陛下がクリストファーへ王位を譲位すること。
それに伴い、ヴァイオレットを王妃とし、ハルカを側妃として迎えること。
そしてまだ未熟な部分も多いクリストファーや、魔物の後始末に追われる国内事情のことを考え、才媛なヴァイオレットが王としての表の部分を支え、王の思い人であるハルカが個としての裏の部分を支える。
この国の制度に慣れていないハルカではなく、すでに国政にも携わっている優秀なヴァイオレットを王妃としたい国の重鎮たちと、ハルカを愛するクリストファー、そして伝説を支持する民衆たちの声。
様々な人の思惑が重なり合い、このような歪な関係は始まってしまったのだった。
ヴァイオレットは自らの想い人が他の女性を愛するようになってしまったことに胸を焦がしつつも、結婚を推し進める実家の公爵家をはじめとした貴族の決定には逆らわず、ただこれを受け入れた。
彼女は優秀すぎるがあまり、自分の立場も、実家の立場も、誰よりも理解していたのだ。
建国の頃から王家に忠誠を誓ってきたウィンザー公爵家が王家と一連托生であることも、自らの結婚が父や兄、妹などの人生にも影響を与えるということも。そしてクリストファー殿下からの愛が期待できないことも。全てを理解したうえで、ヴァイオレットは上の決定に首肯した。
少なくとも、幼い頃から国のためにと共に力を合わせてきたクリストファーが自分を蔑ろにすることはないだろうという思いとともに。
ヴァイオレットとクリストファーの結婚式は王宮の一室で取り行われた。
結婚式といっても、参列者もおらず、ただ神官の前で書面に互いの名前を書き合うだけの、形ばかりのものだった。
ヴァイオレットはそもそも、魔王討伐から帰還した後まともにクリストファーと二人で会話もしていない。
それでも、幼い頃から憧れ続けていたクリストファーの隣にとうとう並べたという嬉しさはあった。婚姻を証明する書類に確かに彼の名前と自分の名前が並んでいるのを見て、ヴァイオレットは少しの胸の痛みとともにそれを噛み締めたのだった。
そしてそれから一ヶ月後。
クリストファーとハルカの結婚式が取り行われた。
祝勝パーティーも兼ねたそれは、国中から勇者やその仲間たちを一目見ようと人が集まり、それはそれは盛大なものだったようだ。
ハルカは華やかな白いウェディングドレスに身を包み、その胸元には、他国からわざわざ取り寄せたという最高級品のサファイアのネックレスが輝いていたという。
そして仲睦まじそうに寄り添う二人のもとには、国中から集められた色とりどりの美しい花々が降り注いだらしい。
らしい、というのはヴァイオレットはその式には参加しなかったからだ。
ただ、いつまでも鳴り止まない盛大な拍手と声援を、王宮の自室で枕を頭に被せながら聞いていた。
ハルカと結婚式を挙げた日、クリストファーは彼女と寝室を共にし、昼近くまで起き出すことはなかった。
そして次の日も、その次の日も、クリストファーは夜になるとハルカの元へと通った。
その仲睦まじい様子に、王宮の侍女たちは世継ぎが生まれるのも時間の問題ですねと至るところで噂する。
ヴァイオレットはそれを会議に向かう途中の廊下でたまたま耳にした。
新婚夫婦らしく甘い日々を過ごしているらしいハルカに対し、ヴァイオレットは初夜もまだだった。それどころか、婚姻の書類を提出した後に、「これからよろしくな」と握手し合ったのがクリストファーとの最後の会話である。
しかしハルカの結婚式から一ヶ月後。とうとうクリストファーがヴァイオレットの寝室を訪れた。
どうやら、前国王陛下があまりにもなクリストファーの行いを咎め、大目玉をくらったようだ。
その日、久しぶりにヴァイオレットは彼のサファイアの瞳と真正面から向き合った。
「ヴァイオレット、私はハルカを愛している。君には申し訳なく思っているが、彼女を裏切りたくないんだ」
「はい。存じております」
その日、ヴァイオレットとクリストファーはきっちり一人分のスペースを空けて同じベッドで寝た。
隣で寝息を立てるクリストファーの気配を感じながら、ヴァイオレットはひたすら天井を見つめ、眠れない夜を過ごした。
それからもクリストファーは月に数度ヴァイオレットの元へ訪れることで、表面上は体裁を取り繕うようになった。もちろん、一人分のスペースを空けて眠るのは変わらず、ヴァイオレットがまんじりともせずに一晩を明かすのもずっと変わらない。
そのたびにヴァイオレットは心の中の何かにヒビが入っていくような感覚を覚えたのだった。
ある日、忙しいクリストファーの代理として会議に参加したヴァイオレットは、会議の内容を共有しようとクリストファーの執務室を訪れた。
しかし、そこにはクリストファーの姿はない。部屋の前にいた使用人に聞いてみると、どうやら昼食を取るために食堂にいるとのことで、できるだけ早く内容を伝えたほうがいい案件だと考えたヴァイオレットは、食堂まで書類を届けることにした。
ヴァイオレットは使用したことのない、クリストファー専用の食堂。少し扉の開いたそこから、何人かの声が漏れ出しているのが聞こえてきて思わず扉の前で立ち止まる。
どうやら、魔王討伐隊のメンバーが集まっているようだ。彼らは旅の話に花を咲かせている。魔王討伐隊の五人は、やはり苦楽を共にした仲間ということで、とても固い絆で結ばれているようだった。
こうやって度々集まっては、旅のことを懐かしんだり、互いの近況を報告し合っていた。その親密な様子に少しの疎外感を覚えたヴァイオレットがまた後にしようかしら、と踵を返しかけたその時、彼女の耳に衝撃的な話が飛び込んでくる。
「実は私……とうとう妊娠しました」
「ええ!!」
「なんですとっ!?」
「つまりクリストファー様の御子ということですよね?」
「はい。まだ陛下にしかお伝えしていなかったんですが、みんなには一番に伝えておきたくて」
「それはめでたいな!」
「そうですね。生まれた時の祝福はぜひわたしにお任せくださいっ」
ヴァイオレットはそこまで聞いたところで、足音を立てないように気をつけながら廊下を走り出した。また一つ、心の中に大きなヒビが入ったことを感じながら――。
そしてこの時、偶然ではあるが前もってその話を聞いていたことで心の準備ができていたヴァイオレットは、後日正式に妊娠を報告された時も動揺を隠しなんとか王妃としての仮面を被ることができたので、内心ホッとしていた。
それからは、段々と自らの心が冷え固まっていくように感じながらも、淡々と公務をこなしていく日々だった。
ヴァイオレットに妻としての興味を向けてくれないクリストファーも、共に国を担っていくための仕事のパートナーとして見れば決して悪い人ではない。
精力的に公務に取り組むし、会議や視察などには必ずヴァイオレットを伴い、公私混同せずに同等の立場として、王妃としてのヴァイオレットを尊重してくれる。
ヴァイオレットが国の治水事業に関して画期的な案を出した時などには、「よくやった」と久しぶりに心からの笑顔を見せて褒めてくれる時もあった。
だから、社交界で『形だけの王妃』と陰口を叩かれても、クリストファーにとって第一子となるミライ王女が生まれた時も、平気だった。本当に、そう思っていたのに――。
その大事件が起きたのは、ヴァイオレットが結婚してから五年が経ったある日のことだった。
いつものように寝室で独寝をしていたところ、にわかに部屋の前が騒がしくなる。
(こんな朝早くにどうしたのかしら?)
疑問を抱いたヴァイオレットが扉を開こうとした瞬間、音を立てて勢いよく扉が開いた。
扉の前に立っていたのは、武装した大勢の騎士たちである。その中で最も位が高いであろう騎士が、堂々とした態度でヴァイオレットの前に進み出た。
「王妃様。ご同行願えますか?」
「こんな朝早くに、いったいどういうことでしょう?」
「王妃様には、側妃であらせられるハルカ様に対する毒殺未遂容疑がかかっております」
「なんですって!?」
とんでもない内容に思わず声を上げてしまったヴァイオレットを一瞥すると、「とにかくご同行願います」と背後に控える騎士たちに命令を下す。
ヴァイオレットはそのまま牢屋とまではいかないが、窓も何もない狭い部屋へと押し込まれ、大勢の見張りをつけられながら肩身の狭い時間を過ごす。
もちろん、毒殺未遂など身に覚えがないにもほどがある。
ヴァイオレットは見張りに外部へ手紙を出せるか確認をとり、検閲済みのものであれば問題ないと確かめると、自らの無実を晴らすべくペンを手に取ったのだった。
「すまなかった」
数日後。
無事に無実を証明できたヴァイオレットはクリストファーに私室で頭を下げられていた。
「直接的に命令を下してないとはいえ、毒を飲んで目を覚まさないハルカのそばから離れることができず、君が容疑者として疑われていると気づかなかったのは私の責だ。それに、犯人を見つける手がかりも君が見つけてくれたみたいだな。心から感謝する」
今回の毒殺未遂事件。真犯人は前国王陛下の時から仕えてくれている、この国の宰相だった。
ヴァイオレットの実家である公爵家は広く事業を手がけており、その傘下にはいくつかの商会があった。 この国の流通に深く関わっている公爵家の商会のツテで、ヴァイオレットは毒の流通経路を明らかにしたのだ。
その結果、犯人としてこの国の宰相が浮かび上がった。彼は現在すでに捕えられており、自らの娘をクリストファーの妃とし、王の血を引く子どもを生ませたかったと白状しているらしい。
そして、自らの罪をなすりつけるため、ヴァイオレットを犯人に仕立て上げ、拘束するように命令したのも宰相だという。
「陛下、どうか顔をお上げください。ハルカ様も、無事目を覚されたようで良かったですわ」
「ああ……本当に良かった。実は、ハルカのお腹には今、子どもがいるんだ。
何かあったらと気が気ではなかったが、母子ともに問題なく回復しているとのことで安心したよ」
「そう、なのですか……」
ヴァイオレットはまさかのタイミングで第二子妊娠の話を知らされ、少し唖然とする。
「ヴァイオレットには本当に感謝している。何か望みがあれば、できるだけ叶えたいと思っているから考えておいてくれ」
「……はい」
うまく回らなくなった頭で、かろうじてそう返事をするのが精一杯だった。
それから数ヶ月後。
ハルカは、陛下の第二子であり、待望の男児をこの国にもたらしたのだった。
ヴァイオレットは王子の誕生に湧く国民のお祭り騒ぎの中、ハルカたちの住む離宮へと足を向ける。
出産後、ハルカは順調に回復しているとのことで、カナタ王子の誕生祝いを持っていくついでに一目挨拶に行こうと考えたのだ。
クリストファーが寵愛するハルカのために建てた離宮はサファイア宮と呼ばれ、壁に美しい青色の宝石がいくつも嵌め込まれた豪華な建物だ。
ヴァイオレットは前もって訪問のお伺いをたてていたが、ハルカは現在離宮の中庭にいるとのことで、そこまで案内してもらう。
長い廊下を抜けた先に、美しい花や木々が咲き誇る中庭があった。
この中庭には、この国では珍しい外国の植物もたくさん植えられている。
特に中庭を囲うように植えられているのは、遠い極東の島国でしか見られない珍しい木で、暖かい季節になると薄ピンク色の美しい花を咲かせる。この木が、ハルカの故郷にあるものとそっくりなのだという。
クリストファーはハルカのためにわざわざその木を外国から取り寄せると、ベルンシュタインでの名を『サクラ』と名付けたのだった。
ゆっくりと中庭の景色を楽しみながら歩いていたヴァイオレットの耳に、聞き覚えのある低く響く声が聞こえてくる。
(クリストファー殿下がいらっしゃるみたいだわ)
そう思ったヴァイオレットは、そっと木の陰から声のするほうを覗いた。
視線の先には、クリストファーとハルカ、そして四歳になったミライ王女と生まれたばかりカナタ王子がいた。
木陰になったところに敷物をひき、ハルカの膝にはミライ王女が座り、クリストファーの腕にはカナタ王子が抱かれていた。
ぐっすりと眠っているらしい王子を、三人が頬を緩めて見つめている。
仲睦まじく寄り添うクリストファーとハルカ。そして愛らしい子どもたち。
その完璧に完成された家族の姿を見ていると、今まで少しずつひび割れてきていた心が、粉々に砕け散ってしまったような感覚に襲われた。ギュッと心臓が締め付けられる。
(クリストファー殿下は、いまだに寝室ではわたくしに指一本触れてくださらないわ)
夢のまた夢であることはわかっている。
ヴァイオレットも誰かに愛されて、その人との子どもが欲しいなんて。
クリストファーとの結婚に愛がなくても構わないと、家のために政略結婚の駒になると、五年前にそう決めたのはヴァイオレット自身だ。
(だから、自分も家族が欲しいなんてそんなこと、思う資格なんてない。そう思っていたけれど……)
目の前の幸せそうな家族を見ていると、むしろそれを壊してしまっているのは自分ではないのだろうかと、そう思えて仕方がなかった。
ハルカもこの五年の間に教師をつけてこの国について真面目に学んでおり、もうそろそろ政務の補佐も任せられるだろうという話も出ていた。
そうなると、王としてのクリストファーを支えるために王妃となったヴァイオレットの役目はなくなるのかもしれない。
ハルカは公私共にクリストファーを支え、そしてその血を受け継ぐ子どもが次の王となっていく。
それはきっと、誰もが望んだハッピーエンドだろう。
そこにヴァイオレットの居場所はもうないのではないかと、そう思えてならないのだ。
ヴァイオレットは胸に灯った微かな決意を感じながら裾を翻す。
王子の誕生祝いのプレゼントは離宮の使用人に代わりに渡してもらうよう頼むと、クリストファーたちを後ろにしながら、前へと一歩踏み出した。
「離縁してください」
久しぶりの二人きりの寝室。薄暗い部屋の中で、ヴァイオレットはクリストファーに唐突に頭を下げた。
「……急にどうしたんだ?」
クリストファーが硬い声で告げる。
「陛下は先日、何か望みがあれば言えと、そうおっしゃっていましたよね。わたくしと離縁いたしましょう。それがわたしの望みです」
「理由を聞いてもいいか?」
「わたくしも、自分のために生きたくなりました。陛下と十二歳で婚約してからおよそ十五年間、全ての忠誠と献身をこの国に捧げてまいりました。もう……自由になりたいのです」
クリストファーはかなり長い間沈黙していたが、やがてゆっくりと「わかった」と頷いた。