ある宿屋の元聖女
「アーニャ、氷菓子作ったけどいる?」
「っしゃー! さすがクライン待ってたよー!」
汗だくで畑仕事から帰ってきたアーニャは僕から氷菓子を受け取るとにしし、と笑った。
「お疲れ。この暑いのにありがとう」
「いーえいーえ! これがあれば生き返るってもんよ!」
「ならよかった。これ、お客さんたちにも配っといてくれる? 僕、女将さんに分けてくるから」
「おっけー! みんな喜ぶよ」
冷たい器を両手に、二階に上がる。
角部屋の客室は、すっかりこの宿屋の女主人の部屋となっている。閉まったままのカーテンの隙間から風がそよいでいて、その奥にナツキの姿が垣間見えた。
「ナツキさん。アイスいります?」
「んー」
窓枠を乗り越えて問うと、日よけの下で布製の長椅子に身を預けていた彼女が返事をした。足元の水を張ったたらいがちゃぷ、と音を立てる。
どうも彼女は暑さにやられているようで、近くによってもぼんやりとしていた。まあ、ぼーっとしているのはいつものことだが。
ちょっとした悪戯心で冷えた器を彼女の額にあてると「ちべたい……」とようやくまともな反応が返ってきた。目を開けたナツキが身を起こす。僕は長椅子の空いたところに腰かける。
ひんやりとした、凍らせた果実汁を削った氷菓子が、舌の温度で溶けていく。
「――ナツキさんの故郷の夏は、」
僕は、ふと、聞いてみたくなった。
「暑かったですか」
「どっちかっていうと、蒸し暑かったよ。もっと雨が多くて、湿気がすごくて。でも……なんていうか、機械が発達してたからね。室内にいれば全然平気だった」
彼女の昔話に時折出てくる、魔法を使わない機械。
最近は、それこそナツキの元パーティーメンバーの『大賢者』による産業革命によって街で魔道具を見かけることも増えたし、一般人の僕たちでも保冷機を手に入れることができている。
でも、彼女の故郷では、一家に一台保冷機があったらしい。
僕たちは宿屋だから積極的に導入したけれど、ここらではさすがに普通の家庭で持っているところは少ないんじゃないだろうか。
「わーっ!」
「かくごーっ!」
ふと、子供たちの悲鳴のような喧騒に気をひかれる。二人の幼い少年が木剣で傭兵ごっこをしているようだ。それを取り囲む子供たちがきゃあきゃあと歓声を上げている。
そのうち木剣を放り投げて取っ組み合いを始め、最終的には鬼ごっこを始め、子供たちはみな蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
二本の木剣が炎天下に照らされ、取り残されている。
「……私が昔住んでたところはさ、」
しゃく、と、涼し気な咀嚼音。
「戦いなんて無縁の場所だった。同じ世界では宗教だとか政治だとか、戦争をしているところもあったけど、私は毎日学校行って、バイト先の先輩がイケメンだとかテストだるいとかそんな話を友達としてれば勝手に時間が過ぎて、高校生になって、大学生になって、就職して、今頃結婚とかして、子供もいるかもねー、ぐらいに思ってた」
彼女の視線の先で走り回る子供たち。その一人がこけた。大声で泣きだす少女に子供たちが集まってくる。
「まさか、こうやって何もかも違う世界でこの年までぶらぶらしてるなんて、ちっとも思ってなかった」
まさか救国の聖女として祀り上げられて戦地に駆り出されるだなんて、もっと思っていなかっただろう。
僕は問う。
「……そんなに違う場所でしたか?」
「うん。全然違う。王都や魔都よりもずっと人も物も多かったと思うよ。道の両側にはガラスとコンクリートのビルがぎゅうぎゅうに詰まってて、歩道は人で埋まってて、ろくに動けない日もあった。車も多かったなー」
僕には、ところどころの単語がわからなかった。それに王都よりも人の多い街なんて想像がつかない。
文字通り、違う世界から来た人なのかもしれないとすら思う。
「……恋しいですか」
「どうかな。もう、こっちで暮らした年数の方が長いし」
恋しくても帰れないし。
そのつぶやきには、僕はなんと返したらよいのかわからなかった。
「うーん。でも」
一時の間の後、ナツキの口元が少し緩む。
「こんなに空は青くなかったな」
彼女はそういって、晴天を見上げた。
眼下では子供たちの集団がアーニャに声をかけられ、僕たちの宿屋にぞろぞろと向かってくる。
まぶしそうに目を細める横顔を、僕は見つめていた。
ナツキ:女主人(元聖女)
15歳の時にいわゆる『異世界召喚』をされてしまった人。聖女として国民からは英雄視されている。名目上経営権はこの人にあるが、めったに接客することはないし、ほとんど宿屋からでることもない。30代半ばくらいのイメージ。
クライン:バイト君
普通。実質宿屋を回してる。主に料理と接客担当。20歳そこそこくらい?
アーニャ:バイトちゃん
元気な女の子。結構優秀な働き手。体を動かすのが好きなので畑仕事とか掃除とかが多い。