何でもできる世代
「あ、ごめん。大丈夫?」
不機嫌に混雑する、停電した地下鉄の駅のホームで、右肩を突き飛ばされ、押し出されるところてんのように左肩で突き飛ばしてしまった、恐らく中学生と小学生くらいの兄妹と思しき男の子と女の子に、周章して声をかける。手にしていた携帯電話と地下鉄の切符を落としてしまっていたけれど、咄嗟にそちらに気を向けるほどには、まだ人間は腐っていないらしかった。女の子は小さな悲鳴とともに尻餅をついていた。優先順位は明白だ。
助け起こそうと伸ばした手を実質無視する格好で、女の子が無言で起き上がると、男の子もやはり黙ったまま、女の子の無事を確認するように、立ち上がった女の子の全身を上下に二度三度と目視する。
「ごめんね。ぶつかっちゃって。怪我はなかった?」
女の子に優しく語りかけたつもりだったが、無口な質なのか、怪しく思われているのか、女の子は押し黙ったまま俯いている。もしかしたら、痛めたところでもあっただろうか。
そんな心配を他所に、男の子が腰をかがめて携帯電話を拾い上げる。
「あ、いいよ。自分で拾うから。」
言いながら、床に落ちていた小さな紙切れをつまみあげるが、停電した地下鉄のホームは暗くて文字が識別できず、本当に自分の切符なのか心許ない。
「悪いけど、ちょっとケータイの明かりで照らしてみてくれる?」
戴いた名刺でも敬うように、切符と思われる少し厚めの紙切れを両の手で持ち、男の子に頼んでみるが反応がない。
男の子はやや狼狽した様子で、三つの願いを叶えてくれる魔法のランプでも摩るように携帯電話の表面を撫でている。
「あぁ、違う違う。開けるんだよ。二つ折れになっていてね。」
今度は少年から携帯電話を受け取ると、片手に紙片を持ち、片手で閉じていた携帯電話を開いて、実際に明かりを照らしてみせる。兄妹らしき二人は始めて感情らしいものを伴った表情を見せた。
「知らないか。もう見ないものね。」
二人は束の間、旧式の携帯電話を眺めていたが、年上の男の子が思い出したように女の子の腕を引く。
「もう行く? 本当にごめんね。大丈夫だった?」
それに答える代わりに女の子は無表情な顔で一瞬間だけ目を合わせ、踵を返して兄と思しき少年の後を追った。
「そうか……」
ひとりごちる声が停電に混乱する地下鉄の駅のホームに消え入る。
彼らは、開くタイプの携帯電話の存在を知らないんだ。当然、切符の買い方など知らないだろう。ケータイと聞いてそれが何であるかは解ったようだったが、果たしてこの小さな長方形の紙が切符というもので、それが何の用途に使われるものかは知っているのだろうか。知らなくとも何ら不思議はない。
切符か。
常に何人もの人間が頭上に掲げられた路線図を見上げ、幾台もの無人販売機に行列ができていた時代も今は昔。切符が買いやすくなって大いに助かってはいたが、例えば、ICカードの読み取りに不具合が生じた場合などには、今の若い人たちは目的地行きの切符を正しく購入することができるのだろうか。
非常事態の今、何となく日常的な不安を覚え、そこはかとない平和を感じているのだった。