拝啓二十の私へ
大学生のころの私は、本当に馬鹿だったと思う。頭の出来は別として、やることなすこと全てが馬鹿だった。友人との会話も、将来の悩みも、恋愛でさえも、今思えば取るに足らない程に馬鹿らしいものだった。でも、あのころの私は、その馬鹿らしいものが全てだった。今思えばがどうしようもないが、二十の私は、それに全てをかけて生きていたのだ。そんな私に、今の私だったら、どんな言葉をかけるのだろうか。
二十の私は、暇を持て余していた。
「なんか、俺たち毎週カラオケ来てないか?」
「来てるな。」
「もう三年生なのに。」
「うん。」
デンモクをいじりながら何となくした問に、村上は携帯から目を離さずに答える。
今月でもう三回目だった。講義が終わった後に大学の近くの牛丼屋に寄ると、大抵そのままカラオケに行く流れになる。
暇だけど暇ではない。それが本音だった。六月も残すところあと一週間になり、天気にも初夏を感じさせられるような時期だ。八月には教育実習がある。そして、来年は教員採用試験だ。もう既に勉強を始めている知り合いを何人も知っている。そんな中、私と村上は暇を持て余していた。
「大学マジでだるいな。」
「お前ほんとにそれしか言わないな。」
「まあ順はいいよな、彼女いるし。」
「彼女じゃねえよ。」
順一を省略して順。大学の知り合いのほとんどは私のことをそう呼んでいた。彼女はいなかったが、気になる人はいた。
「ああ、巨乳の彼女がほしい、順、何とかしてくれ。」
村上は炭酸が抜けきったコーラを一気に飲み干して言った。
「そんないいか?巨乳って。」
「黙れ偽善者。揉むなら大きいほうがいいだろうが。」
「まあ、それはそうだけど…。」
「だろ?」
村上は満足そうに頷く。このころの私たちの会話は、軒並みこういったものばかりだった。
天井にある赤や緑に光る電球を見つめる。自然とため息が出る。
「なんか、楽しいことねえな。なんで生きてんだろうな、俺たち。」
「本当にな。もう人生全うしたよ。」
私の言葉に賛同した村上も、きっと今の自分に疑問を感じていたのだろう。私も、当時の自分に意味を見いだせていなかった。
夢もない、生きがいもない、毎日を惰性で生きている。こんな人生に意味があるのか。
何のために生きているのか。そんなくだらない問の答えを、本気で探していた。結局、大学生であるうちにその答えを見つけることは出来なかった。
二十の私は、将来に悩んでいた。
私の右隣に座っていた松田は、参考書を見ながらノートに何かを書いていた。聞かなくても分かる。教員採用試験の勉強だ。
そのとき私は本を読んでいた。宮沢賢治の短編集だ。ゼミで嫌になるほど話題になるので、わざわざ買って読んでいた。
ぼうっとすると外で鳴くセミの鳴き声だけが聞こえる。空には入道雲広がっている。
クーラーが効きすぎた大講義室で、講義を一切聞かずに考える。私は将来、何になりたいのかと。
教育学部にいるのだから教師になるのが一番なのだろうが、そのころの私は、本当に教師になりたいのかと悩んでいた。実習を重ねるごとに、自分が教師に向いていないのではないかと思うようになっていった。
左にいる村上は、机に突っ伏して眠っている。こんな村上でさえ、教師になりたいという思いは確かにあったのだ。
「実習行きたくねぇなあ。」
二コマ分の講義を終え、松田と村上と食堂に向かう途中に私は言った。
「まあ順はハズレくじ引いたしな。」
「頑張れよ。」
松田と村上は笑いながら私の顔を見た。私の実習先は、昔から厳しいと言われている学校だった。
「なんでガキのお守りしなきゃならねぇんだよ。」
「お前本当に教員志望か?」
村上は何故か嬉しそうに私に言った。
瑠璃色に染まりかけた空を見上げる。昼の暑さより、夕方の空と空気に季節は夏なのだと気付かされる。
「よし、飲み行くぞ。」
松田が急に振り向いて言った。
「何だ急に。」
「金がねぇよ。」
私と村上は口々に答える。
「アルコール入ってなきゃガキのお守りなんてできねぇよ。」
「お前本当に教員志望か?」
今度は私が松田に言ってやった。
今思えば、将来の話になる度に三人で酒を飲みに行っていた。ただ、いざ飲み屋に行ったら下品な話しかしなかった。
もしかしたら、松田と村上も将来に不安を感じていたのかもしれない。
二十の私は、ただただ彼女がほしかった。
「巨乳の彼女がほしい。」
アルコールが回り目の据わった村上が私と松田に言った。
「やっぱ水木とかじゃないか、そうなると。」
松田は自分のベッドに横たわりながらにやにやしている。私は頭がぼうっとしてたので特に何も言わなかった。
「水木かあ。でもあいつ気強そうだしなあ。おっぱいだけもませてくれればいいや。」
「お前はもはやおっぱいと付き合いたいんじゃないか?」
松田が意味不明な返答をし、村上は声を上げて笑う。私もそれにつられて笑った。笑いの渦は大きくなり、最後には三人とも腹を抱えて笑っていた。くだらないことで笑えるほど幸せなことはないと、今は思う。
「順は?なんかないのか?」
村上がそう言うと、松田もそうだそうだと詰め寄ってきた。
「俺は佐伯一択だな。」
火照らせた顔で笑いながらそう言うと、村上と松田は大袈裟にため息をついた。
「順って本当はロリコンだろ?教師になるなら今のうちに直しとけよ。」
「違えわ!」
村上にからかわれた私は、少しだけ本気で怒った。松田はまた腹を抱えて笑っている。
「何がいいんだよ、あれの。小学生じゃねぇかあれじゃあ。」
「お前は何も分かっていない。」
「だっていざやるとき…」
「やめろ!!」
松田も村上も私も、女性の好みだけは合わなかった。好みの話をする度に、私はこうして村上に馬鹿にされていた。だが、モテないのは村上も一緒だったのだ。
二十の私は、失恋した。
どこかの店から、クリスマスソングが聞こえてくる。曲名は忘れてしまった。
すれ違うカップル全員に、心の中で死を願った。そのころの私はそういう人間だった。
告白するまでもなく、私は振られた。佐伯ではない。もう名前すら思い出せないような、そんな人だった。なんとか連絡先を知り、メールのやり取りをしていたが、クリスマスに誘いを入れたところ、あっさり「好きな人いるから…」と断られた。
この話を聞いた松田と村上は二人揃って「順らしい」と言った。私にはその意味が分からなかった。
とにかく、私は落ち込んでいた。何もやる気が起きず、早く年末になってくれと祈るばかりだった。
大学についたときには、空には既に星がまたたいていた。しばらく立ち止まり、夜空に散らばるいくつもの光を眺めた。星を見ると、何もかもどうでもよくなる。
食堂に入りメニューを見ると、クリスマスの特別メニューがいくつかあった。そこでも私は腹を立てた。
一番安いカレーとサラダを頼み、四人席に腰掛ける。その日、何故わざわざ大学まで夕食をとりに来たかはよく分からなかった。
食堂が閉まる時間も近く、人はあまりいなかった。四人席に一人でいることもあり、余計に寂しさが増す。
家で食べればよかったと後悔し始めていると、急に向かいの席に誰かが座ろうとした。
「辛気臭い顔してんね。ご飯まずくなりそう。」
「うるせぇよ…」
サラダを食べながら言い返すと、喜多野は「暗っ」と言いながら座る。
「私のご飯まずくなるから空気どうにかしてよ。」
「急に来てなんなんだお前は…」
同じゼミの喜多野は唯一私が松田や村上と同じように話せる女子だった。「ゼミの発表の準備した?」
「してない…」
「おっそ。」
喜多野は購買で買ってきた菓子パンを頬張っている。その顔を見て、私は思わずため息をついた。
「今ため息ついたでしょ。なんで。」
「お前は悩みなさそうでいいなって思ってさ。」
「まあ振られてそんな沈んでいる人よりはマシだよね。」
何故知ってるのかと聞こうとしたが、止めた。松田と村上のどちらかが漏らした以外に考えられない。
何も答えない私に、喜多野は話を続ける。
「まあエロビデオでも見て忘れなよ。男ってそういう生き物なんでしょ?」
「黙れよおっさん。」
「やめてよ。私はJKだよ。」
「なんでそこで見栄を張るんだ。」
喜多野ほどおかしな女子を、私は知らなかった。
食事を終え食堂から出ると、雪が舞っていた。先程まで見えていた星は姿を隠してしまったが、風に乗せられて舞う雪の白さに、私は少しだけ見惚れた。喜多野も「おぉ」と言いながら見つめている。
「綺麗…だな。」
感傷に浸っていた私は、自然とそう口にしていた。
「彼女と見れたらもっと綺麗だったね。」
「なんでお前はそうやってセンチメンタルな雰囲気をぶち壊すんだ。」
「いやあ、だって辛気臭いの嫌いだし。」
喜多野は悪びれずに言う。
「それに、ホントのことでしょ?」
私は大袈裟にため息をついた。今見ている雪が一番綺麗だと言おうとしたが、気障だし誤解を生みそうなので、止めた。
四十の私は、小学校の教員になっていた。もう若くはない。最近はなかなか疲れが取れない。
ふと大学生のころのことを思い出したのは、母校で講義をすることになったからだった。
大学構内を回ると、二十の私の思い出が蘇ってくる。
あのころに全てだと思っていたことは、人生のほんの一部でしかなかった。あのころの私は、そんな一部に全てをかけて生きていた。
馬鹿だと思う。でも、その馬鹿さが今はひどく眩しい。
今の私には、馬鹿でいられる時間もなければ体力もない。馬鹿だと言うが、結局、あのころが一番人生を楽しんでいたと思う。羨ましいのだ。あのころの私のことが。
暇を持て余していた私。将来に悩んでいた私。ただただ彼女がほしかった私。失恋した私。どうか、そのどうしようもなく幼稚な価値観を、考えを大切にして欲しい。それが私の全てなのだから。