教皇猊下は夢をかなえる。
仮眠から目をさました頃には、異形の神は空から地面に向かって逆さまにぶら下がる、黄色い肉の城のようになっていた。直径でいうと五百ヤード超、だいたいドーム状に膨らんでいる。厚みは高いところで二百ヤードくらいだろうか。
身支度やリブラ・レキシマの準備を済ませ、ヴェルクト、グラムと共に教会を出ると、ターシャとイズマ、ボーゼン、ロキ、ロトたちが待っていた。
「どうした?」
「送ってくよ。今更邪魔する奴もいないだろうが、これで最後だ」
大聖女の杖を担いだターシャが笑う。
「猊下をほっといていいのか?」
作戦決行の前に教皇フルール二世が最後の演説をする。最初は勇者であるヴェルクトが一言という話だったのだが、ヴェルクトの負担は減らしたいということで、猊下自身が代役を申し出てくれた。
「強面相手の演説は苦手だって聞いたが」
今回は十万の強面に囲まれる計算になる。
「猊下ご自身がヴェルクトについてやれって言ってくださってね。今回の一件で色々肝が座ったんだろうさ。今朝の小便はやっぱり赤かったみたいだけど」
「そりゃあな」
あの修羅場の中、ジルと対峙したりしていた。今も世界は危急存亡の危機。血尿くらい出るだろう。
「イズマ」
ヴェルクトが魔剣士に声をかける。
「なんだい?」
「減ってない? なんだかわからないけど」
どうしようもなく要領を得ない言い草だが、イズマには通じたようだ。イズマは柔らかく微笑んで「ああ」とうなずいた。
「レストン族から借りていた風獣を元々の主たちのところに返したんだ。今の状況と、正午に合わせて祈れという言葉を託して。風獣の力を龍脈砲に直接乗せた方がよかったかもしれないけれど、僕一人じゃなく、できるだけ多くのレストン族の意思を乗せたかった」
「うん」
ヴェルクトはうなずいた。
「それでいいと思う。わからないけど、きっと」
「どこまでも大雑把だねあんた」
「問題あるまい」
ボーゼンが穏やかに言った。
「風獣の力は魔流回路では扱いづらい。レストンに戻し、現状を伝えたのは良策じゃろう」
「ありがとうございます。そう聞いて安心しました」
イズマがボーゼンに礼をいう。その横で、俺はロキとロトに声をかけた。
「ロムスは殿下のところに?」
「ええ、殿下の周りはどうも息苦しいんで、俺らは連絡係って名目でこっちに逃がしてもらいました」
ロキは軽く肩をすくめた。
「殿下とは合わないか?」
クセの強い人物だから、相性の問題は出やすいだろう。
「殿下というより宮仕えがダメみたいですね。俺たちは。親父のことは尊敬してましたが、やっぱり真似はできそうにありません。この騒ぎが終わったら、親父の跡継ぎは兄貴に押し付けて旅にでも出ようかと」
「そうか」
そういうのも悪くないだろう。
ミスラーの息子に、そんな生き方をする奴らがいても面白い。ミスラー自身も、やってみたかった生き方かもしれない。
そんな感慨を覚えた俺の前方で、桃色頭のバカの姿が小さくなっていく。
「また先走りやがって」
軽くため息をつく。
「行こう。あれ以上あいつを先に行かせるとまたはぐれる」
手を振るなバカ、止まれ。
○
○
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○
「勇者ヴェルクト、バラド社長、グラム女史らが西部丘陵に到着しました」
アスール王子の傍に控えたロムスが告げる。
アスール王子とネシス王、サーナリェス女王、メルディオス王らを従えたフルール二世は「よし」と頷いた。
「始めよう」
前方には扇状に展開した十万の兵、元の姿に戻っている黄金の大牡羊。
アスール王子とネシス王を左右に従える形で、フルール二世は大牡羊の背に上がる。
咳払いをするフルール二世の左右で、アスール王子とネシス王の二人が告げる。
「静粛に」
大きな声を張り上げたわけではないが、要所要所に配置した九尾のメンバーの断片回路によって、その言葉は一帯に伝達されていく。
ネシス王が続ける。
「世界樹作戦の決行に先立ち、マティアル教教皇フルール二世猊下よりお言葉をいただきます。ご静聴を」
各軍の指揮官たちが、「静まれい!」「静聴!」「整列!」などと声をあげ、将兵のざわめきを鎮めて行く。
そう待つことなく、静寂が訪れた。
(すごいな、やっぱり)
細かい指示を下したのは各国の指揮官たちだが「静聴を」と告げたネシス王のカリスマ性の為せることだろう。
フルール二世が同じやり方をしても、収拾はつかないはずだ。
「では猊下、お言葉を」
ネシス王がフルール二世を促す。「ありがとうございます」と応じて前に踏み出す。緊張で足がこわばる、普段の半分程度しか息が吸えない。
「猊下」
ネシス王がフルール二世を呼び止める。
「口を押さえ、鼻だけでいっぱいに息を吸い込む」
「はぁ……」
言われた通りに口を押さえ、鼻の穴を広げ、肺がいっぱいになるまで息を吸い込む。
「歯と唇の間をわずかに開いて、息を吐き出す……そうです。もう一度」
言われた通りに呼吸を繰り返して行くうちに、肺がこわばるような感覚が和らいでいく。
「落ち着きましたかな」
「ええ、ありがとうございます」
「我が国に古くから伝わる呼吸法です。息子が勇者に伝え、勇者も使ってくれているようです」
「そうですか、良いものを教えていただいてありがとうございます」
ネシス王に頭を下げ、改めて足を踏み出す。さっきより気分は落ち着いていた。呼吸法を教わったというより、勇者という単語を聞かされたことが大きい。
あの少女はまた、世界の先頭に立ってくれている。
守ろうとしたものに刃を向けられてなお、勇者であることを降りずにいてくれている。
いい大人である自分が、マティアルの教皇たる自分が、こんなところで怖気づいているわけには行かない。
演説用に用意されたスタンド付きの断片回路の前に立ち、十万の聴衆を見渡し、口を開いた。
「まずは、皆さんにお礼を申し上げたいと思います。魔王となったメイシン王子に立ち向かうため、悪意によって倒れた勇者ヴェルクトを救うため、この地にお集まりいただいたことに。そして最後の戦いのために、この地に留まってくださったことに」
胸に手を当て、フルール二世は一礼する。緊張はある。正直なところ、早くも手足の感覚がない。それでも、かつて枢機卿たちや聖堂騎士団、ターシャたちを相手にしていた時のような腰の引けた感覚はなかった。
フルール二世の後方では、勇者ヴェルクトが最後の戦いの準備をしている。
世界のために、戦い続けてくれている少女が、大聖女マティアルの意思と力を受け継いだ少女が。
少しでも多くの祈りを、多くの力を届けなければならない。
勇者のために。
この世界のために。
怯んではいられない。
たとえどれだけ胃が痛くなろうとも、明日の小便がどうなろうとも。
まずはゆっくり、言葉を紡ぐ。
「私の考えですが、魔王ガレスの台頭に端を発した一連の戦いは、大きく四つの段階に分けることができます。最初は、勇者が現れる前。人族連合という枠組みはありましたが、それぞれの国がそれぞれの思惑の元、バラバラに戦った段階、まずこれを『世界が自分のために』の段階と呼びたいと思います。次が、勇者が現れた段階、我々は相変わらずでしたが、彼女は我欲ではなく、世界のために戦ってくれました。これを『勇者が世界のために』の段階と呼びたいと思います。彼女が現れたことで、人族諸国もまた変わってゆきました。少しずつですが足並みを揃え、手を取り合って戦えるようになったのだと思います。そして第三の段階は、アレイスタの裏切りから始まりました。勇者を裏切り、抹殺しようとしたアレイスタに怒った人々、勇者と共に生きる未来を望んだ人々がこの地に集い、勇者を取り戻したのです。『世界が勇者のために』の段階です。第四の段階は、まだ訪れていません」
フルール二世は後方を、空中に浮かんだ黄色い肉の城を見やる。
「魔王ガレス、新たな魔王を名乗ったメイシンは倒れました。二人の人間を魔王に仕立て上げた異形の神の化身ジルも勇者に敗れ、封印されました。最後に残った試練が、あの物体です。異空の彼方に巣食うという、異形の神の一部。最後に暴走した魔王の力によって生じた穴を通じ、この世界を侵食しつつあります。このまま放置すれば、この世界の全てはあの黄色い肉に埋め尽くされ、押し潰されることになるでしょう。私たちが生き残るためには、この世界を守るためには、奇跡を起こさなくてはなりません」
フルール二世は聴衆に向き直る。
「それが、第四の段階。『皆で皆のために』。勇者が世界のために戦うのではなく、世界が勇者のために戦うのでもなく。勇者の力と、私たち全員の力を束ね合わせ、私たち皆の未来を勝ち取る。利害を超えて、皆が一丸になる。言葉でいえば陳腐ですが、本当にそんなことができた話など、私は聞いたことがありません。ですが、今こそそれが必要であり、それを成し遂げられる時です。幸いと言ってはいけませんが、今はとても、わかりやすい状況です。打ち払うべき共通の災厄があり、想いや力を託すべき勇者たちがいてくれる。こんなに都合のいい状況で、なお一つになれないほど、我々は、どうしようもない存在ではありません。未来永劫に手を携えてゆこうとは言いません。ただ、今日この時だけ、みんなで奇跡を起こしましょう。今日ならば起こせるはずです。そういう奇跡を」
微笑んで、聴衆を見渡す。
「良ければ、お手を拝借させてください。こんな風に拳をあげる」
拳を天に突き上げる。
アスール王子と王たち、諸侯、十万の将兵が拳を掲げる。
「これから少し、聖職者らしからぬことを叫ばせていただきます。ついて来ていただけるようであれば、続いてご唱和ください」
習ったばかりの呼吸法で鼻から息を吸い、すぼめた口から吐く。
腹に力を込める。
獅子吼した。
「私たちは生き残る!」
……反応がない。
やはり、普段の自分と違いすぎたのかもしれない。
胃が縮む感覚を覚えた瞬間、烈風のような、地鳴りのような、声の洪水が押し寄せて来た。
【私たちは生き残る!】
届いた。
届いていた。
目頭が熱くなるのを感じながら、教皇は次の声を放つ。
十万の声を受け止め、そこにさらに熱を打ち込むように。
「今日を乗り切り! 明日を手に入れる!」
【今日を乗り切り! 明日を手に入れる!】
「今この時! 私たちは一つになる!」
【今この時! 私たちは一つになる!】
人間たちの咆哮に天地が震撼し、バールの竜達も咆哮を始める。
「災厄をうち払い! 新たな時代を切り開く!」
【災厄をうち払い! 新たな時代を切り開く!】
作戦前の鼓舞としては、これで十分なはずだ。ここまで熱量が上がれば、吸精回路の使用で士気が崩壊するようなこともないだろう。祈りの力も稼げたはずだ。
最後に一つ、余計なことを言ってみた。
「なんでもいい! 雄叫びをあげろおおおおっっっっっ!」
かえって来たのは、分厚い、津波めいた圧力の咆哮。「教皇猊下ァァァァァァァ!」という声が混じっているのはゼエルたち聖堂騎士団の連中だろう。
心当たりのない方向からも聞こえるが。
「ははは」
熱く、力強い雄叫びの渦の中、フルール二世は少年のように笑う。
一度、こういうのをやって見たかった。
思わぬところで夢が叶った。




