勇者は声を張り上げる。
「なんであんたが前に出てきてんだい」
大聖女マティアルの姿を冒涜的に弄り回したような姿に成り果てた魔王メイシン。いや、ジルの姿を見上げ、ターシャが毒づいた。
頭の高さは約一〇ヤード。大聖女の像と妊婦像を足して二で割り、巨大化させて冒涜したような姿となったジルはメイシンを取り込んだ腹をそっと愛撫し、毒花のように微笑んだ。
「メイシンは私のものだから、私が守るの。当たり前のことでしょ?」
単にまずいと思っただけだろう。
勇者の鎧と『戦争回路』の相乗効果はおそらくジルの想定を大きく超えていた。
魔王となったメイシンをも、葬り去りかねないものだった。
だから、メイシンから主導権を奪い、矢面に立たざるを得なくなったのだろう。
とはいえ魔王となった人間に入り込み、その肉体とバイパスを制御するというのは、それなりに無理のある状態なんだろう。
体のあちこちが黒く変色し、裂けて腐った肉の断面を晒していた。
まぁ当然だろう。ノーリスクでこういう状態を維持できるのならば、魔王など必要なかったはずだ。
しかし、無理をする価値のある姿でもあるようだ。
今の形態になってから、異形の世界との空間の境目が更に揺らいできている。
光の花びらの舞う地上はまだマシだが、上空を覆う暗雲の中には異形たちがびっしりとひしめいていた。
ゴキブリが天井いっぱいに這い回っているようなおぞましさと圧迫感があった。
「じゃあ、始めよっか。吐き出して見せてね。あなたたちの祈りと、呪いを、全部」
魔力の源はあくまで腹の中のメイシン、そして魔王のバイパスらしい。
半透明の肉の子宮を鈍く輝かせて、ジルは赤い光の翼を大きく広げる。それに呼応して、また、四角錐の大悪魔、恐怖の黒竜の群体が現れる。
数が多い。
合わせて三百はいるだろうか。光の花びらや『戦争回路』があっても、抑えきれる数じゃないだろう。
無理か。
勝てないとは言わない。ヴェルクトがマティアルの勇者として目を覚ませば勝機はあるはずだ。だがさすがに、リブラ・レキシマを温存できる状況でもないだろう。
セットしておいたガブリエル、リヴァイアサンの異空符に手をかける。
その時。
脳内魔導回路が、声を伝えてきた。
『……バラド、聞こえる?』
思考と、呼吸が、凍り付くのを感じた。
『起きたよ。わたし。すぐ行くから……聞こえてる? バラド』
目頭が熱くなり、視界がぼやけ出す。
鼻から息を吹い、吐き出した。
そして、言葉を投げ返す。
(ああ、聞こえてる)
何か気の効いたことを言ってやりたかったが、何も浮かんで来なかった。
『バラド、泣いてる?』
(少しな。おっさんは涙腺が緩いんだよ)
ちくしょうめ。
『……ごめんなさい』
(お前が悪いんじゃない)
保護者目線では色々言いたいこともあるが、今ここで口にするようなことじゃない。
(動く前に、お前の声を、皆に聞かせてやれ。聞いてると思うが、この戦争は、お前のための戦争だ。見えてると思うが、かなり敵が増えてきてる。不安や恐怖の圧力が増してるはずだ。だから、みんなに伝えてやってくれ、お前が、俺たちのところに帰ってき……)
『わかった!』
やっぱり最後まで聞かなかったな。
わかってたよ。
グラムの方にメッセージを送る。
(グラム。ヴェルクトが起きた。この戦場の、できるだけ多くの人間に、あいつの声が聞こえるようにしてくれ。あいつの声は、戦う力に、勇気になる)
『……はい、断片回路を全て、拡声用に使います』
返答までに間が空いたのは、グラムも涙ぐんでいたせいだろう。
ジルは両手に、黒い渦のようなものを二つ作り出した。
メイシンが使っていた空間の穴を、より大型化したもののようだ。
黒い渦が投射される前に、ターシャと聖堂騎士団が連携して防護障壁を展開する。
だが、止められない。
黒い渦は障壁をあっけなく貫通し、爆発するように膨れ上がる。
虚無の渦。
触れたものすべてを消し去る虚ろの渦巻き。
だがそれは、結局何事も起こすことなく静止し、消え去った。
忽然と現れた、とんがり帽子の老人が、息をついて杖を降ろす。
大賢者ボーゼン。
ヴェルクトの蘇生を行った後、先行してこちらに転移してきたようだ。
「今更年寄りの出番もあるまいと思ったが、そうでもなかったようじゃな」
「ないわけがないでしょう」
転移魔術や重力魔術、空間魔法の名手。
空間に穴を開けるメイシンの能力に対抗しうる、数少ない人物の一人だ。
「メイシン、ではないな? ジルか」
「メイシンはあの腹の中です。まずはあいつが来るまで、ジルを抑え込みます」
「難儀な仕事じゃな」
「ええ、ですが、布陣は整いました」
俺はボーゼンに、一同の姿を示す。
「いつの間にか、あいつ以外全員が揃った。聖女ターシャ、魔剣士イズマ。竜騎士ラヴァナスの父ネシス王。魔術師ファレムの祖父ボーゼン。魔導騎士メイシンの兄、アスール王子、カグラ、アスラと同じ密偵七家ミスラーの遺児ロムス、ロキ、ロト。ここに立つことのできない人間もいますが、それぞれの意思や願いを引き継いだ人間が集まり、新旧の魔王討伐隊のメンバー、それに連なる人間が揃った」
メイシンやアスラを人数にいれるのはどうかも思う部分もあるが、あえて無視はしないことにした。
「六王の支援、マティアルの加護。ここまで揃えば、もう充分でしょう。勇者ヴェルクトとともに、魔王メイシン、ジルを討つ。俺たちが、最後の魔王討伐隊です」
○
○
○
○
○
天幕を外した『戦争回路』の上に、ヴェルクトは神経伝達キャノピーに触れないギリギリの高度に浮いていた。
背中には緑の光の翼。
広げた猛禽の翼に似た光の塊のようなものだ。羽ばたくのではなく浮力を生じて、少女の体を浮かせている。
腰にはオリハルコン・アダマンティア合金を使った短剣ソーマ・レキシマ。
冥婚用に着せられていたドレスは脱ぎ、ラシュディがバンテージに使っているものと同じ魔術絹布のシャツとパンツ、東方の羽織に似た意匠の長衣を身につけている。
マティアルから受け取った白い触手状の勇者のバイパスは迂回装置の保護も兼ねて首に巻き、更に上から勇者の鎧の金のマフラーをつけている。
分厚い暗雲に覆われた王都の空には大小無数の異形たち。王宮のあった方向には魔王のものと思われる強大なものの気配がある。
今のヴェルクトなら、ここから一呼吸でバラドのところに行くことができるが、まずは自重した。
この戦いは、バラドとヴェルクトだけの戦いではない。
信じられないほど多くの、ヴェルクトがびっくりしてしまうほど多くの人々が関与し、戦ってくれている。
バラドの言う通り、動く前に、伝えておかなければならない。
帰ってきたことを。
感謝の言葉を。
「準備ができました。そのまま話してください。こちらで拾って、発信をします」
神経伝達キャノピーに半身を沈めたグラムは、微笑みながらヴェルクトを見上げる。
「うん」
頷いてから、竜騎剣術の呼吸法で息を整えた。
気の利いたことや、格好いいことを言えるタイプではない。
どちらかというと、言っているうちに自分でわけがわからなくなることの方が多い。
だから、とにかく、大きな声で。
「みんなっ!」
思い切り、叫んだ。
間違えた。
「違った。みなさん! わたし! ヴェルクトです! さっき! ここに! 帰ってきました!」
思いつくままに、思い浮かぶままに、続ける。
「いろんなことが、ほんとに、いろんなことがあったみたいで、まだ! ぜんぶはわからないけど、みなさんのおかげでっ! 帰って来れました! ありがとうございましたっ!」
側にいると耳どころか頰や肌が痛くなるような声量に苦笑しつつ、グラムは『戦争回路』で少女の声を拾い『断片回路』へと送り込む。拡声モードに設定された『断片回路』たちは少女の声を余すところなく再現し、その声を王都全域へと撒き散らしていく。
市街に展開していた聖堂騎士団が雄叫びをあげる。
九尾、海狼、マングラールの兵らが拳を築き上げ、歓声をあげた。
空中の竜騎士たちはさすがにそれどころではなかったが、地上の声に興奮した竜たちが高い声をあげていなないた。
ジルと対峙する魔王討伐隊の面々がそれぞれに笑みを浮かべた。
感情表現が素直でないものも何人か混じってはいたが。
「わたしもすぐ! そっちに行きます! だから、もう少しだけ! がんばってください! この戦いが終わって、ちゃんと、ありがとうが言えるようになるまで! みんな! 死なないで!」
聖堂騎士達の背後の教皇が小さく「かぶってしまったか」と呟く。
勇者は、小さく息をつく。
「……今は、これだけです! すぐ行きます!」
目を向けると、グラムは静かに頷いた。
「行ってください。誘導します」
「うん! 行ってくる!」
そして、勇者は飛翔した。
閃光のような速度で、海狼陸戦部隊、マングラール軍、王都守備隊の軍勢を追い抜き、歓呼の声に送られて、王都の上空へと到達する。
『前方にリングが見えますか?』
断片回路を通じて、グラムの声が告げた。
「あれかな、二つあるけど」
光の花びらが集まってできた、輪くぐりの輪のようなものが二つ連なっているのが見えた。
『当座の装備として、マティアルの花弁を成形し、武装の代わりにします。ソーマ・レキシマを抜き、あの中を通り抜けてください』
言われた通りにリングに向かって進んでいくと、光のリングはすっと縮まってヴェルクトの体に絡み、形を変える。最初のリングは金色の鎧となり、次のリングはソーマ・レキシマの刀身に絡んで、長尺の光の刃になった。
『定着問題なし。行ってください、社長のところへ』




