勇者は途中で返事をする。
誰かに呼ばれた気がして、少女はふっと目を開けた。
「……バラド?」
意識がぼやけている。とりあえず、自分の名前を呼びそうな人間の名前を呼んで、あたりを見回す。
深い霧の中にいるような、乳白色の空間だった。
「ごめんなさい。違います」
そんな声とともに、目の前に人影が現れた。桃色の髪、額には捻れた四角錐型の角、背中には緑色の光の翼。
どこかで見たような顔だったが、どうも思い出せない。
自分に似ている、という発想は浮かばなかった。
「どちら様、ですか?」
敵意は感じないが、どう見ても普通の生物ではない。
「マティアルといいます。あなたを、蘇らせに来ました」
最初に脳裏に浮かんだのは、詐欺、という単語だった。
昔からよく引っかかりかけては叱られていたので警戒するようにしている。
マティアルという名前も、少し怪しい。マティアル教の大聖女の名前だ。
警戒が伝わったのだろう、マティアルは苦笑するように「怪しいものではありません」と続けた。
「バラド社長の知り合いです」
「あ、ごめんなさい」
ヴェルクトは警戒を解き、謝罪した。
さすがに大聖女マティアル本人だとは思っていないが。
「はじめまして。ヴェルクトです」
自己紹介をするヴェルクトに、マティアルはくすりと笑う。
「最初は多少警戒しても、知り合いの名前を出されると一瞬で警戒心を失う癖が全く治らないとも聞いています」
ヴェルクトは赤面したが、知り合いというのは間違いないようだ。
バラドによく言われていたことだ。
「突然押しかけてしまい申し訳ありませんが、現在の状況を伝達しなければなりません。差し支え無ければ、記憶の共有をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「?」
意味がよくわからない。真面目な話だということだけは、相手の表情と雰囲気でなんとなくわかるが。
「貴女が魔王城で倒れてから現在に至るまでの状況を、私の記憶をあなたに流す形でお伝えします。脅すような言い方になってしまいますが、現在バラド社長はマティアル勅許会社、マティアル法王国、マングラール軍などと連携し、魔王となったメイシン王子と交戦中です。あなたが参戦できるかどうかが戦いの……」
「わかりました!」
本当は何もわかっていない。
思い出せるのは、魔王ガレスを倒して、体が動かなくなったあたりまで。
メイシンが魔王というのも、脈絡が全くわからない。
だが、戦いが起きているというなら、バラドたちが戦っているというなら、じっとしてはいられない。
知るべきことがあるなら、知らなければならない。
それだけだ。
「本当に、最後まで説明を聞かない人なんですね」
苦笑して言ったマティアルは、手のひらの上に緑色の光の球体を浮かべた。
「これに、触れてみてください」
「はい」
ためらわずに手を伸ばす。
指先が触れると、光の球体は弾け、頭の中で、情報が弾けた。
メイシン、アスラの裏切り。
自分が『光の獣』と呼ばれる存在であったこと。
ジルの出現、メイシンの変化。
アレイスタへの包囲網。
アレイスタ王都で進行する魔王メイシン、ジルとの決戦。
与えられた情報が多すぎて、思考が追いつかない。
きちんと理解したと言えることは、結局、一つだけだった。
「……待って」
そう呟いて、ヴェルクトは顔を、目元を抑えた。
「待って……」
声が震えた。
「これ……そんな、これって……この戦いって、ぜんぶ……」
息が苦しい。
涙がボロボロ溢れて、手の隙間からこぼれだす。
「はい」
マティアルは頷いた。
「この戦いは、あなたのための戦いです。社長さんを中心に、たくさんの人が集まって、あなたを取り戻しました。今は、魔王になったメイシン王子たちと戦っています。行ってあげてください。あの人達のところへ。応えてあげてください。あなたを待っている人たちの想いに。あなたのことが、大好きな人たちの気持ちに」
「いいん、ですか?」
少女はマティアルを見上げる。
「わたしは、あなたの偽物なのに。勇者なんかじゃないのに。わたしなんかのために、消えて、いいんですか? マティアル様」
いつもならば、話の途中で即断しているところだが今度ばかりはそうはいかなかった。
マティアルが与えてくれた記憶によると、ヴェルクトの正体はマティアルを模して作られた魔法生物『光の獣』であり、既に寿命が尽きている。
エメス回路の修復だけでは、もう、生きることができない。
マティアルがここに、ヴェルクトの精神世界にやってきたのは、その対策のためだ。マティアルの魂魄にあたるもの、本質を分解、生命力に変換し、ヴェルクトに融合することで、ヴェルクトの体に新たな生命をふきこむ。
本質を分解させたマティアルは、元には戻れない。心や記憶の一部は、融合したヴェルクトの中に残りはするが、元のマティアルには戻れない。
ヴェルクトの蘇生には、マティアルの犠牲が必要になる。
即答できる話ではなかった。
マティアルは微笑んで言う。
「勇者を選ぶのは、私の特権じゃありません。マティアルの勇者というのは、私のバイパスを使う代行者の肩書きですけれど、勇者という言葉の意味は、それだけじゃありません。勇気ある者、勇気を与える者、世界のために、世界の先頭に立って戦った者。あなたは、そういう勇者です。バイパスなんてなくたって、この世界が認めた、この時代の、たった一人の勇者です。だから、みんなが怒ったんです、あなたを裏切ったアレイスタという国に。だから、みんな戦っているんです。あなたの戦いを無駄にしないために、あなたとの未来のために。私も、あなたを認めます。勇者ヴェルクト。あなたを認めて、依頼をします。私の代わりに、ジルと魔王のバイパスを止めてください。その報酬として、私はあなたに未来を贈ります」
ヴェルクトは目元を拭い、訊ねた。
「その言い方、もしかして、バラド、ですか?」
依頼に報酬、大聖女の言葉としては違和感がある。どちらかというとバラドが使いそうな文法だ。
「はい」
マティアルは頷いた。
「ここに来る前に、助言をしてもらいました。あなたには、こういう言い方の方が伝わりやすいと。私を犠牲にするとは、思わないでください。ご迷惑でしょうけど、私の一部は、あなたの中に残ります。それに、私には私の望みがあって、あなたに命と力を託すんです。こうすることでしか、私には実現できないんです。この世界と、あなたたちの、幸福な未来を。だから、行ってくださ……」
「わかりました」
マティアルの言葉の途中で、ヴェルクトは頷いた。
マティアルは全て覚悟して、ここにきてくれたのだろう。
自らを捨ててでも、託したい願いがあったのだろう。
これ以上、立ち止まっていてはいけない。
立ち止まっていられない。
「いきます。わたし」
もう一度目元をぬぐい、ヴェルクトは決意を告げる。
そんな少女を見下ろして、マティアルは、やや複雑に微笑んだ。
「できれば、最後まで聞いていただきたかったんですが。他にもいくつか確認事項がありますので」
○
○
○
○
○
始まったようだ。
大賢者ボーゼンの見守る中で、寝台に横たわるヴェルクトの体が、淡い緑色の光に包まれ、治癒していく。体組織の寿命、そしてジルがかけた呪いで痛み、変色していた肌の色が戻り、体に血色が戻っていく。
やがて、光が収まる。
ボーゼンの脳裏に声が響いた。
『準備できました! ボーゼン先生!』
マティアルの声に似ているが、それよりやや幼なく、ふわふわしたトーンの声。
ヴェルクトの声だった。
(そうなるわけか)
マティアルは準備ができたら合図をすると言っていたが、合図ができるほどヴェルクトが回復した時には、マティアルはヴェルクトに融合してしまっている。マティアルの意識や記憶もある程度は残るらしいが、基本人格はあくまでもヴェルクトだ。合図も当然ヴェルクトの方が送ってくることになる。
「元気そうじゃな」
安堵の息をつき、ボーゼンは微苦笑をした。
『はい! ご心配をおかけしました!』
「まだ早いまだ早い。まだ死んだままじゃ、お前さんは」
ボーゼンはくつくつと喉を鳴らした。
「もう少し待っておれ。すぐに済むでな」
事前準備は済んでいる。難しい処置も必要ない。仰向けになっていたヴェルクトの体をうつ伏せにし、細い首に刻まれたエメス回路の周囲を再度消毒する。
チェストの上から、白い首輪を取り上げた。
『聖騎士』の緊急停止装置を改造して作成したエメス回路の迂回装置だ。内部にはエメス回路が組み込まれており、首に取り付けることで破損したエメス回路の代わりに機能するようになる。直接エメス回路に手を入れて修復することもできなくはないが、いくさ場の天幕でやるような処置ではない。今のところはバイパス装置での処置にとどめ、本格的な修復作業は後日、より設備の整った場所で行う。
サイズの調整は済ませてある。首輪の裏側についた二本の針型の端子を首の後ろのエメス回路の両端に当たるようにセットし、軽く押し込んだ。
少女の体が、小さく、ぴくんと震えた。
「痛みは感じるか?」
「ちくちく……」
ヴェルクトは精神感応でなく、掠れた地声で応じた。
もう機能が回復したらしい。
「まだ口は動かすでない。回路がずれたら元も子もない」
嘘のようにあっけなく、絵にならないタイミングで息を吹き返した少女の、あいかわらずふわふわした雰囲気に笑いつつ、ボーゼンは首輪を固定し、その上から包帯を巻いた。
「マティアル様から説明されているとは思うが、お前さんの首の後ろの痣は、エメス回路という魔導回路で、そこが破損するとお前さんは動けなくなる。今つけてあるのはその機能を補うための首輪じゃ。外れるとまた動けなくなる。いじるでないぞ……包帯を引っ張るのもいかん」
包帯に触る少女を見下ろして、ボーゼンは微笑んだ。
「待たせてしまったな」
「いえ、待ってません、全然」
ヴェルクトは、少し切なそうに微笑んだ。
「わたしは、寝てただけです。ずっと、みんなを待たせて」
少女は上体を起こし、寝台を降りる。さすがに足に痺れが出たらしい。少し眉をしかめて太もものあたりを揉んだ。
「行くのか?」
「はい」
「勇者のバイパスは?」
「もらいました」
「説明は?」
「半分聞きました!」
やはり最後まで聞いていない。
マティアルの記憶を提供されているなら、大きな問題はないはずではあるが。
(まったく)
この少女と向き合ったときのマティアルの困惑を想像して苦笑しつつ、ボーゼンは部屋の端のトランクを取り上げた。
「社長からじゃ。ソーマ・レキシマと断片回路、それと、新しい服じゃな。ヴァイス・レキシマは前線に転がっているようじゃ」




