化身たちは入り込む。
(なにこれ)
勇者の鎧の顕現までは、ジルの想定の範囲内だった。
聖女ターシャを装着者に投入を前倒ししたことは計算外だが、顕現自体は読めていた。
だが、根源魔導回路の出現は、予見できなかった。
ジルと同じく、他の宇宙からやってきたもの。無限に存在する並行宇宙の一つで父なる母と敵対し、消え去った文明が残した遺産の一つ。それはマティアルの力と同調し、ジルの見たことのない、想像したこともない相乗効果を発揮し始めていた。
マティアルの花弁を外部制御し、四体の大悪魔、二体の恐怖の黒竜を一息に葬る。過去のジルとマティアルとの戦い、魔王と勇者との戦いでは無かった事例だ。
ジルの理解を、ジルの想像を超え、ジルの期待を離れた方向へと、状況は転がり続けてている。修正しなければならないが、身動きが取れなかった。
目の前に佇む、凶暴な聖女がそれを許さない。それに、ヴェルクトを奪われて以降、メイシンが不安定になっている。
怯えているのだろう。ヴェルクトが蘇ることを。自らの罪と向かい合うことを。
顔を隠しているのはそのせいだろう。
(使えない)
元はと言えば、ガレスの代わりの間に合わせの魔王だ。大きな期待をしていた訳ではないが、こうも速く、こうまで脆く崩れるとは思わなかった。こんな状態でジルが側を離れたら、どうなるかわかったものではない。
「地金が見えて来たね。悪い顔になって来たじゃないか」
本人も悪い顔をして、鎧の聖女は物騒に笑う。鎧の加護で身体能力があがっているのもあるが、元から殴り合いの天稟があるらしい。今のジルの体は『光の獣』の身体を元に、異形の力で調整を加えたものだ。身体能力は勇者ヴェルクトと同等以上のはずだが、今のターシャには通用しなかった。すでに何度か顔面を殴られ、歯を折られていた。
異形化させたメイシンも、精神面の不安定さから真価を発揮できていない。マティアルの加護を受けたイズマ、ネシス王、ラクシャ家の密偵三兄弟、聖堂騎士団、竜騎士団、エルフ、九尾に包囲され、動きを封じられていた。
風獣を身に宿し、マティアルの加護を加えたイズマ、マティアルの加護で全盛期の力をとり戻したネシス王、もともと全盛期のところにさらにマティアルの加護を得た三兄弟、いずれもガレスと戦った面々以上の力を得ている。
今の不安定なメイシンでは、抑えこまれても当然だろう。
(しょうがない)
ジルは息をつくと、二つに割れた。
取り急ぎ、やるべきことは二つ。メイシンの怯えを取り除くこと、目の前の暴力聖女を抑え込むこと。
体が二つ必要だから、二つに分けることにした。
正中線から真っ二つに裂けたジルの体の断面から、黒い触手が溢れ出す。それは瞬く間に人の半身に似た形をとり、半分ずつになったジルの新たな半身となった。
「迷惑なのが増えてんじゃないよ!」
踏み込んでくるターシャを、ジルはヴァイス・レキシマを手にした右半身で迎え撃つ。分裂前でも手に負えないことになっていた相手だ。半分ではどうすることもできなかった。勇者の鎧を纏ったターシャの拳はヴァイス・レキシマを振り下ろすジルの拳を打ち砕き、勇者の剣をはねとばす。
聖女の拳が光を放ち、ジルの顎を真横から捉える。
聖なる力を帯びた鉄拳は、ジルのあご骨を砕き、そしてその頭部そのものを消しとばす。
ターシャが叫ぶ。
「半分そっちに逃げた! 何かやらかすよ!」
空間を超えたジルの左半身は、魔王メイシンの右肩の上へと転移する。ラクシャの三兄弟が放ったナイフとイズマの光の巨刃がジルの左半身を捉えて引き裂く。
だが、逃げ切った。
仮初めの肉体を離れたジルの本質は、人の魂魄に似た姿となって、魔王の中に入り込む。
魔王の、真の力を呼び覚ますために。
○
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○
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○
マングラール軍の陣地の天幕の中で、マティアルとボーゼンはヴェルクトの体を見下ろしていた。
「思った以上に状態が悪いようですな」
「ジルに壊されてるみたいです。エメス回路をつないだら、すぐに死ぬように」
呪いを司るものとはいえ、よくここまで邪悪なことをするようになったものだ。
呪いの感情、負の感情は、それ自体は悪ではないはずなのに。
悪や悲しみを排する力にも、なりえるはずなのに。
「順番を逆にしましょう。エメス回路をつなぐ前に、私が彼女の中に入ります。彼女の同意を取った上で、同化をして体を再生します。合図を送りますから、そこでエメス回路をつないでください」
「心得ました」
「始めましょう。後のことはお願いします」
「できるなら、もっとゆっくりお話をしたかったものですが、大聖女マティアル」
ボーゼンは名残惜しそうに言った。
「そうですね。大賢者ボーゼン。私の記憶の幾らかは、彼女に引き継がれるはずです。よかったら、彼女と話してみてください」
「彼女に、ですか」
ボーゼンはヴェルクトを見下ろし、苦笑いをする。
「何か」
「いえ、彼女は物事の大方を『すごい』ですとか『うわぁ』だとかで表現するものでして」
マティアルは笑う。
「私も結構そんな感じですよ?」
ヴェルクトの隣の寝台に腰を下ろし、横になる。
目を閉じたマティアルの本質は、ほんのすこしのかけらを残して准聖女アナの体を離れた。かけらを残したのは、まだ傷つき、眠ったままのアナの魂魄を保護するためだ。まだしばらく昏睡状態が続くだろうが、魂魄の傷が癒えれば、いずれ目を覚ますはずだ。
マティアルの本質は、桃色の髪に白い肌、額から白い四角錐の角を生やし、背中から緑の光翼を生やした二十歳ほどの娘だ。
ヴェルクトをそのまま、少しばかり成長させたような姿である。
(じゃあ、始めます)
固唾をのんで見守るボーゼンに微笑んで、マティアルは勇者の中に入り込む。
ヴェルクトを目覚めさせるために。
マティアルの勇者でない少女に、それでも、この時代の勇者として戦い抜いた少女に、最後の祝福を届けるために。
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メイシンの精神は、魔王の肉体の中で、顔を覆って浮いていた。
萎縮しきっている。
崩壊しかけている。
(やっぱりダメか)
流されるままに生きて来た男、与えられた役割だけを果たして来た男、大人になれなかった男。面白い魔王になるかと思ったが、思った以上に打たれ弱かった。
メイシンの精神を、ジルの本質は甘く、溶かすように抱きしめる。
マティアルの本質に似た姿だが、髪は漆黒、額から生えた角は黒く、光の羽根は赤かった。
「もう、いいよ。魔王様。怯えないで、もう何も考えないで」
ジルは体のあちこちから精神の触手を伸ばし、メイシンの中に潜り込ませて行く。
本当に、溶かしてしまうつもりだった。
心を溶かし、抜け殻にして、魔王の肉体だけを残して支配する。それで逆転できるとは思わないが、今の萎縮したメイシンよりはマシだろう。勇者は倒せなくても、勅許会社のバラド、マティアルの教皇あたりを道連れにできれば、それなりに楽しめるだろう。
だが、気がつく。
(あれ?)
メイシンの中に潜り込ませた精神の触手に、硬く、激しいものが触れた。
憎悪。
バラドに対する感情かと思ったが、違う。
メイシンのバラドへの憎悪には、敬意と裏表の部分がある。羨望し、憎んではいるが、同時に好意に似た部分があった。自身の演説の後にバラドをステージにあげさせ、最終的に国葬参列者を全員退出させることになったのも、その敬意と好意が作用している。魔王になった自分に対し、バラドという男がどう向きあうか、それを知りたがったが故だ。
メイシンは、バラドとの対決を楽しんでいた。
可能であれば消しておきたかった感情で、甘さだが、そこに触れれば、メイシンに対するジルの影響力を損なう危険があった。
だが、今触れているのはまた別の憎悪だ。
バラドに対するものよりも幼く、原始的な憎悪。
バラドに対するものよりも深く、重く、淀んだ憎悪。
「そう、だったんだ」
ジルは嗤う。
「ごめんね、気づいてあげられなくて」
魔王にふさわしいものではないが、これはこれで面白い憎悪だ。
メイシン自身も醜悪すぎると自覚し、心の奥底に封じ込めていた憎悪。
メイシンが顔を覆い、目をそらそうとしていたものは、自分の罪ではない。
この感情だ。
ヴェルクトと向き合えば、否応無く自覚することになる感情。
「ヴェルクト、だったんだね。あなたが本当に憎んでたのは」
「違う!」
顔を覆った格好のまま、メイシンは首を振る。ジルは構わずに、メイシンの憎悪に深く触手を潜らせていく。
「あなたはずっと、ひとりで生きて来た。お母様は早くいなくなって、お父様はあの王様で、先生はあのお爺様。お兄様とは疎遠で、あなたはずっと一人だった。ひとりのまま大人になって、戦争が始まって、あなたはあの子に出会った。身元もはっきりわからない、得体の知れない怪物みたいなものなのに、愛されて、見守られて、幸せに生きて来たあの子に。あなたとは真逆の存在に。あなたはずっと、あの子が羨ましかった。あなたがあの子を殺させたのも、お父様の命令が全てじゃない。あなた自身が、あの子を憎んでた。あなたが持ってないものを持ってたあの子が羨ましかった。あの男と引き離しても、ひとりぼっちにならなかったあの子が憎かった」
「やめろ! やめろっ!」
メイシンは絶叫し、ジルの手を振りほどこうとする。
だが、逃れられない。
逃しはしない。
一度、魔王になったものは、魔王の宿命からは逃れられない。
精神の触手を、さらに深く食い込ませてゆく。
「いいんだよ? あの子を憎んでも。憎しみを吐き出しても、私が肯定してあげる。受け入れてあげる。あなたの本当の気持ちを、ありのままの想いを見せて。あの子は、もうすぐ蘇る。もうすぐここにやってくる。だから、殺そう。私と一緒に、あの子を殺そう?」
「離せ! やめてくれ!」
メイシンはもがくが、ジルは構わず、その精神に触手を這わせ、いじっていく。
幼い憎悪に蓋をしていた良識を、自尊心を、羞恥心を腐食し、取り払う。
憎悪はそうして、解き放たれる。
魔王メイシンの顔を覆う手から、力が抜けた。顔の穴はそのままだった。せっかく憎悪を解き放ったのだから、憎悪の顔が現れても良さそうなものだが、紙一重の羞恥心のようなものが残り、虚無という仮面を残したのだろうか。
だが、十分だ。
メイシンの精神を抱きしめて、触手でがんじがらめにしながら、ジルは囁く。
「さぁ、解き放って、本当の自分を」




