大牡羊は身を起こし。
瓦礫の中で閃光を放ち、身を起こしたもの。
それは教皇の乗り物である黄金の大牡羊だった。
背負っていた輿はもうない。大聖女マティアルの時代から水も飲まず、草も食まずに生き続けるという神秘の獣は、ふっと空間を超え、フルール二世のそばに現れた。
異形となった魔王メイシン、その傍のジルの姿を膝を震わせながら見据えつつ、気弱な教皇は大牡羊の足にそっと手を触れる。
「た、頼んだよ」
教皇の言葉に応えるように一声だけ鳴き声をあげた大牡羊は、黄金の光を放つ無数の花びらに変わり、光の嵐を起こした。
破壊的な力ではない、実体のない、柔らかな熱を帯びた金の花びらは春の強風に舞うように、王都、そしてその周辺一帯を満たしてゆく。
フルール二世は手近なところに飛んだ花びらを一つ手に取った。花びらは教皇の手のひらから体内に入り込み、その体に強烈な活力を注ぎ込み、そして金色のマフラーのような形で再実体化した。
フルール二世は口を開く。
「驚かせてしまっていたら、申し訳ありません。みなさん。私はマティアル教教皇、フルール二世。この光の花びらを通じて皆に話しかけています」
(いいんですよね。それで)
心の中でそう確認すると、少女の声が応じた。
(はい、大丈夫です。伝わってます)
大聖女マティアルの声。
(慌てないで、落ち着いて話してください。貴方はそれだけで、人がついて来る人です)
(そうであれば良いのですが)
持ち上げられることが苦手な教皇は苦笑気味にそう応じ、続けた。
「この花びらは、大聖女マティアルがこの戦いのために用意してくださった力の欠片です。どうか手を伸ばし、触れてください。この困難に立ち向かい、この世界の暗雲を払う力を得られるでしょう。私たちの頭上には、また数多の敵が現れました。魔王メイシンも、未だ健在です。ですが、お伝えできる朗報が一つあります。勇者ヴェルクトの身柄は、私たちの元へ戻りました。既に後方に移送され、蘇生の措置を受けています。彼女がこのいくさ場に立つことができるかはわかりません。ですが間も無く、聞くことができるでしょう。私たちの勇者の声を。まずはそれまで、戦い抜きましょう……みんなで。大聖女マティアルの祝福とともに」
王都のあちこちから、雄叫びが上がった。
魔王メイシンとジルを包囲する戦士たちも花びらを手にとり、マティアルの力を取り込み、黄金のマフラーを身につけてゆく。
(ありがとう。フルール)
マティアルの声が告げた。
(この力の管理は、貴方に任せます。この力の本質は善でも悪でもありません。悪用しようとすれば、新たな災厄を生む力ともなり得ます。貴方を信じて預けていきますが、ふさわしい人がみつからなければ後継者は必要ありません。お墓まで持っていっちゃってください)
(ちゃってください、ですか)
大聖女らしからぬ言い回しだ。マティアルは小さく笑うように言った。
(私はもともと、こんな感じなんです。後のことはお願いします。ターシャのこと、アナのこと。特にアナには気をつけてあげてください、私が抜けても大丈夫なように魂のかけらを残して行きますから、少し、変なことになっちゃうかもしれません。目をはなさないようにしてあげてください)
(わかりました)
(お別れです。フルール。私たちの不始末を押し付けてしまって、本当にごめんなさい。どうか、みんなで、良い未来を築いていってください)
それを最後に、マティアルの気配は去っていった。思考による会話だ。時間としてはほんの一瞬に近かった。
それでもフルール二世は一筋の涙を流した。
そこに、ジルが突っ込んだ。
勇者の剣を振りかざし、このところ妙な存在感を見せ始めている人族の精神的支柱を折りにいく。
その鳩尾を、輝く拳が捉えて抉る。
ジルと同等の速度で踏み込んだ金の鎧の女騎士……ではなく、聖女ターシャはジルの鳩尾に拳をめり込ませたまま吐き捨てた。
「あんたみたいなクズが近づいていい相手じゃないんだよ。このお人は」
ジルは答えず、後方に下がろうとする。ターシャはその顔面を追って拳を繰り出した。有効打とはならなかったが、鎧の聖女の拳骨がジルの鼻先をかすめ、その皮膚を切り裂いた。
拳を戻した鎧の聖女の姿を見上げて、ジルは呟く。
「何、それ……。意味、わからない」
「実は私もわからなくてね。気がついたらこうなってたのさ」
ターシャは鼻を鳴らして応じた。
「バラドかい?」
「いや」
「猊下?」
『何をやらかしたんだい?』と詰問するような響きだ。胃袋と睾丸がきゅうきゅう縮み上がるのを感じながら、フルール二世は「ぁ、いや……」と応じた。
「それは、マティアルの鎧、つまり、勇者の鎧だ。大牡羊は、勇者の鎧の化身だったんだ。この花びらも、勇者の鎧の一部なんだそうだ。呪いの力を削ぎ落とす空間を生み出し、勇者とともに戦うものに力を授けてくれる」
「……そうだとすると、私などが身につけるべきものではないのでは?」
「ほ、ほほ、本来であればそうなんだが、敵の数が多すぎる。戦場全体のことを考えると、もう待てなかった。勇者の鎧を温存するより、当面は君に使ってもらうことが良策だというのが、私とマティアル様の結論だ」
「そうですか」
ターシャは小さくため息をついたあと、いつもの物騒な笑みを浮かべた。
「賢明なご判断だと思います、猊下。僭越ではありますが、勇者の鎧、遠慮なく使わせていただきましょう。ちょうど、鼻やら顎やら砕きたいクソッタレが目の前に立っていることですし」
「任せるよ。存分にやってくれ」
ため息をついたフルール二世は、そしてジルに声をかけた。
「災難だね。うちの聖女は、強くて怖いよ?」
ざまあみろ、と付け足したいところだが、やめておくことにした。
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「余ともあろうものが、神祐に頼ることになろうとは」
舞い散る光の花びらの中、金色のマフラーを身につけたアスールは、不機嫌な目で笑った。前方では、王都守備隊の兵たちが算を乱して逃げ散ろうとしていた。王都近隣一帯に舞い散った光の花びらは、新魔族たちに触れると、悪しき力を中和し、元の人間の姿へと戻していった。
残ったのは、混乱しきった烏合の衆。
もはや、戦う必要すらない。
むしろ、どう取り込むかだ。
「全軍! 余に唱和せよ!」
アスールは咆哮する。
「王都を見よ! 空を仰げ! 敵は王都にあり! 心あるならば! 勇気あるならば! 野心あるならば! 光の花弁に手を伸ばせ! 黄金の襟巻きを身につけ、救国の戦列に加わるが良い! 身分は問わぬ! 出自は問わぬ! この一戦にて各々(おのおの)の才! 武勇を示せ! マングラール公アスールが、千金をもってその働きに報いる!」
アスールの咆哮を、マングラールの将兵が復唱し、一個の巨獣のような雄叫びとなる。混乱の極みにあった王都守備隊の将兵たちだが、本来的には忠良なる兵たちである。マングラールの大喝を聞き、王都を覆う暗雲、飛びかう異形の姿を目にしてもなお、なすべきことのわからぬものたちではなかった。
それぞれに顔を見合わせると、周囲を舞う光の花びらに手を伸ばし、金のマフラーを身につけてゆく。
ほどなくして王都守備隊の隊長ファイルバーが、首に金のマフラーを巻いた姿でマングラールの本陣に姿を見せた。
「王都守備隊は、マングラール公に降伏いたします。願わくば、殿下の救国の戦列にお加えいただきたく」
「降伏せよと言った覚えはない。隊に戻り、直ちに王都に前進せよ。守備隊の采配は任せるが、後日論功行賞を行う。将兵の働き、功績を正確に把握し、余に伝えよ。身分や出自、階級は問うな。それができるか否かで、余は貴様を評価する」
「恐れながら、現在の守備隊は将兵の働きを評価する軍監が正常に機能しておりません」
「安請け合いせぬのは悪くない。時間をかけても構わぬ。戦後、将兵から聞き取りを行い、取りまとめて報告せよ。うまくゆかぬようであればその都度報告せよ」
「はっ」
「時が惜しい。征け」
ファイルバーを下がらせたアスールは、そこでふと、眉をしかめた。
「来たか」
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勇者ヴェルクトの蘇生阻止を命じられた妖霊ゴルゾフは、一帯を満たした光の花弁によって今一歩のところで行く手を阻まれていた。
呪いの力を阻害する光の花弁。魔王メイシンによって現世に呼び戻された呪詛と怨念の妖霊であるゴルゾフにとっては、触れただけで力を奪う死の花びらである。ボーゼンの転移の痕跡を追い、マングラール軍の本陣近くまで転移したあたりまでは良かったが、そこでフルール二世が大牡羊の封印を解き、光の花弁を撒き散らした。この状態では、迂闊に戦術転移は行えない。姿を消し、光の花弁を避けて進んでいくしかなかった。
ようやく、勇者ヴェルクトやボーゼンたちの気配のする天幕近くへ行き着いたが、そこに、ゴルゾフの破滅が現れた。
赤い髪、赤い鎧、金色のマフラーを身につけた美丈夫。
転移の類を使ったようだ。ゴルゾフと天幕の間に割って入るように、ふっと姿を現した。
(……アスール!)
ゴルゾフの意識を、赤い憎悪が塗りつぶす。
ゴルゾフの首をはねた男。
ゴルゾフを老害と呼んだ男。
ゴルゾフの手に収まらなかった男。
ゴルゾフの薫陶のすべてを不要と断じ、切り捨てた男。
生かしておいてはいけない。
存在を認めてはいけない。
黒いローブの下から、ゴルゾフは四本の腕を伸ばし、その手に四本の魔力剣を生成した。対するアスールは、引き抜いた長剣に周囲の光の花びらをまとい付かせる。花びらが帯びた魔力に、素晴らしき鎧の大王の魔導回路で干渉し、操ったのだろう。アスールの長剣は、魔導回路の入っていない普通の長剣だ。本来は妖霊を斬れる剣ではなかったが、これで致命の力を帯びたことになる。
「来るがいい。無様のみを晒した貴様の晩年に、余の手にかかる栄光を二度くれてやる」
正面からの斬り合いでは、先の戦いの二の舞だろう。アスールの天才は、ゴルゾフの修練と執念を上回る。妖霊となった今でも、それは変わるまい。
ゴルゾフは空間を跳ぶ。
戦術転移。
アスールの背後には光の花びらが舞っている。戦術転移で飛び込めば妖霊の身は無傷では済まない。
だが、構いはしない。
刺し違えてでもアスールを葬ることができれば、この男の未来を奪うことができるのならば、それで充分だ。
この男をアレイスタ王にはしない。
この男の名前を、歴史に残させはしない。
『最初の魔導騎士』ゴルゾフの名を超えさせはしない。
妄執に突き動かされるがまま、ゴルゾフは空間を跳ぶ。
だがそこにアスールはいなかった。
その気配は、アスールの背後を取ったはずのゴルゾフの背後にある。
戦術転移。
ゴルゾフの戦術転移のタイミングに合わせて、アスールもまた戦術転移で自身の座標をずらし、背後を取っていた。
光の花びらをまとった袈裟懸けの一刀が、ゴルゾフを両断する。
その一刀で終わりだった。アスールの長剣がまとった光の花びらは、妖霊ゴルゾフの呪いの力をごっそりと削り取り、ゴルゾフと言う存在を破滅させた。
地上に存在するための力を失い、ゴルゾフは崩壊していく。
「オシエテイナイ! オシエテイナイ!」
ゴルゾフは泣き叫んだ。
「ダレニモオシエテイナイ! ドウヤッテヌスンダ!」
戦術転移は、ゴルゾフだけの魔法だ。ゴルゾフだけの魔法とすることで、ゴルゾフは最初にして最高の魔導騎士であり続けた。
だが、アスールは戦術転移で戦術転移を破った。
あってはならないことだった、許容してはならないことだった。
「狂愚め」
アスールは冷然と応じる。
「理屈ならば十になる前にわかっておったわ。貴様にできることが余にできぬはずがあるまい。余の大器に、己が非才に絶望して逝け」
ゴルゾフは言葉を失う。
そしてそのまま、崩れて消えた。
ゴルゾフさんクランクアップです。




