教皇猊下はスピーチをする。
聖女ターシャに見据えられた教皇フルール二世は背筋と胃袋、睾丸とを縮み上がらせた。
(こ、こここ、殺されるっ!)
禿げ上がった額にびっしりと汗をかき、震え上がるフルール二世五五歳。
枢機卿たちがその体に手をかけた。
「お戻りください猊下! あの聖女に振り回されていては教会が滅んでしまいます。あとのことは我々にお任せを!」
「……い、いやだ!」
フルール二世は首を横に振った。
「お戻りください猊下!」
「いいい、嫌だっ! もうターシャに締め上げられるのはいやだ! 離せ! 離せっ! これ以上は私の胃の腑がもたんっ! もう血の小便を出すのは御免だ!」
「お戻りください!」
枢機卿たちに引きずられかけながら、フルール二世はもがく。
もがきながらも引きずられて行く教皇の衣装の裾を、聖女ターシャが踏みつけた。
ターシャの側にいた枢機卿たちは既に叩き伏せられていた。
「……何をなさっているのです? 教皇猊下は離せと仰せですよ?」
音だけ聖女の調子で言ったターシャは大聖女の杖という鈍器を片手に、枢機卿たちを睨め付ける。教会を牛耳る枢機卿たちだが、火の入ったターシャという恐怖の女王に正面から抗う闘志は持ち合わせていなかった。フルール二世の体から手を離し、後ずさる。
教皇一人だけが、災厄の前に取り残される。
(ばばばば馬鹿者馬鹿者!)
フルール二世は枢機卿たちの浅はかさを呪う。ターシャの暴力聖女という側面は、弱者や仲間を守るとき、弱者や仲間が傷つけられた時に最大限に発現する。勇者ヴェルクトという仲間、そして年少者を救うために命をかけると宣言をした瞬間に、ろくな覚悟や信念もなしに横槍を入れればこうなるのはわかりきっていた。
血尿が漏れそうだ。
ターシャはフルール二世の服の裾から足を離す。
「ご無礼をいたしました」
「あ、ああ……いや、構わんよ」
今のターシャに文句など言える人間などいまい。
「と、途中で話の腰を折る形になってすまない。少し、私が話そうと思うんだが、いいかな?」
「猊下ご自身が?」
ターシャは意外そうな顔をした。無理もないところだろう、フルール二世は気弱で惰弱。マティアル教会の聖人の血統というだけで、枢機卿たちに祭り上げられたお飾りの教皇だ。
聖女と枢機卿の間でいつも板挟み、右往左往して胃痛と血尿に悩む、世にも情けない教皇だ。
だが、今は、前に出るべきときだろう。
「今は、私が話すべきだと思うんだ。大丈夫、すぐ済むよ。どうせそんなに話せない。心配しなくていい。止めるつもりはないんだ」
引きつった笑顔を見せたフルール二世は、そしてギクシャクと歩き出し、演台の前に立った。
硬直しきった顔で、聖堂騎士たちを見渡す。
「や、やあ! き、緊張しなくていい。変なことになってしまったから、私の気持ちを話しておこうと思ったんだ……すぐに終わるから、楽にして聞いてほしい」
「休め!」
ザッ!
騎士団長のゼエルが声をあげると、聖堂騎士達は足だけを緩く開いた『休め』の姿勢をとる。ゼエルの大声と聖堂騎士の足音に、フルール二世はびくりとした。
「あ、ああ、えーと、その……」
びくりとしたせいで、どう話そうと思っていたのか、頭から飛びかけた。
「そうだ。私の気持ちだ。わ、私はっ、君たちを止めるつもりはない。もちろん、危険なことはしてほしくないとは思うが、勇者を救うことは正しいと思うし、アレイスタに邪悪なものが現れたというなら、戦うべきだと思う。メイシンという王子、アスラという男には相応の処罰を、それを指示したダーレス王にも、相応の責任を取ってもらいたい。けれど、君達も知ってのとおり、私は気が小さい。私一人では、またダーレス王に気圧されて、日和ってしまうかもしれない。だから、君たちには、私の背中を押してもらいたい。君たちの正義が、君たちの怒りが、私に正しい振る舞いをする勇気を与えてくれると思う。私は、予定通りアレイスタに行くつもりだ。かえって迷惑かもしれないが、そうしなければいけないと考えている」
うまく話せているだろうか。
どうにも自信がない。相手は全員兜をつけて、バイザーを下ろしてしまっている。顔色を窺うことすらできなかった。
「今回の一件について、私は自分が何をすべきか悩んでいた。何ができるかと考えていた。ターシャのいう通り、ダーレス王や、メイシン王子達を糾弾すること。それも必要だと思う。けれど私には、もっと大切なことがあるように思えたんだ。私が勇者ヴェルクトに会ったのは一度だけだ。普通の女の子だったとはさすがに思わないが、無垢で、まっすぐな女の子だった。彼女は世界のために、私たちの先頭に立って戦ってくれた。いちばん危険な場所で戦いつづけてくれた。ターシャの話で、勇者の蘇生の可能性があると知った時、やるべきことがわかった気がした。それは、彼女にお礼を言うことだ。世界のために戦ってくれたあの子に、世界を代表して「ありがとう」と言うこと、それが私の役割だと思ったんだ。もちろん、私が世界の代表だなんて、おこがましい話さ。だが私はマティアル教の教皇で、マティアル教は世界宗教だ。マティアル教諸国くらいだったら、代表してもいいと思ったんだ。だから私は、君たちと一緒にアレイスタに行く。クソの役にも立たないかもしれないが、マティアル教の教皇として、できることを全部やって戦う。戦って、勇者を取り戻したいと思う。そうしなかったら、私はあの子にお礼が言うことができない」
全身に汗をかき、目を真っ赤にして語ったフルール二世は、こわばったままの顔で、騎士たちを見渡した。
「私なんかの話で余分な時間を取らせて本当に申し訳ない。実際の差配は、全部ゼエルとターシャに任せることになるだろう、私は、なるべく迷惑にならないようにしているつもりだ。枢機卿達の文句は気にしなくていい、マティアル教の最高指導者は私だ。か、彼らが何を言おうと、わ、私の意思は……君たちとともにある!」
衣の下で膝を震わせながら、フルール二世はそう宣言した。
(言ってしまった……)
アレイスタから生きて帰れても、枢機卿達に謀殺されるかもしれない。そんな思考が脳裏をよぎったが、言ってしまうと、かえってすっきりした。
言ってしまったものは仕方がない。
なるようになればいい。
もう、なるようにしかならない。
開き直り、妙に吹っ切ったテンションで、フルール二世は両手を広げた。
「行こう! 勇者はみんなのために戦ってくれた! 今度はみんなで、勇者のために戦う時だ!」
ザッ!
聖堂騎士たちは一斉に『気をつけ』の体勢をとった。
ビクっとしたフルール二世の眼前で、聖堂騎士たちは雷鳴のような声をあげた。
【拝命いたしました! われらがもっとも聖なる君主!】
騎士団長ゼエルが雄叫びのように続ける。
「猊下の牡羊を引けぇっ!」
小山のような大きさの金の牡羊が引かれてくる。教皇の乗物である大牡羊。背中には鞍ではなく、四角い輿が積み込まれていた。輿に上がるための白い階段が設置され、聖堂騎士たちが左右に別れて道を開けた。
フルール二世は傍に跪いた聖女ターシャに目を向ける。
「一緒に、乗ってくれないかな?」
「私などが同乗するわけには」
「先頭にはやはり、私のような禿げ上がりより、君が似合う。それにもう限界だ。原稿なしで人前で話したおかげで頭がクラクラしているし、また腹を下しそうだ。あとは君とゼエルで引っ張ってくれ」
また血尿が出ても全く驚かない。
「次の出番が来るまで、邪魔にならないようおとなしくしているよ」
「わかりました。おとなしくなさっていてください」
ターシャは珍しく、聖女らしい微笑みをフルール二世に見せてくれた。
足取りの怪しいフルール二世を支えて大牡羊の背に乗り込んだターシャは、大聖女の杖をかざして告げる。
「さぁ行くよ! アレイスタに何が待ってるかはわからない。何が起こるかわからないが、全部、私たちでブッ飛ばしてやろう。この戦いを、私たちの時代の最後の戦にしてやろう!」
ゼエルが叫ぶ。
「総員騎乗せよ! 聖堂騎士団! アレイスタへ突き進むぞ!」




