虚ろの王子は演じ続ける。
ジルとメイシンは、寝所に裸でまどろんでいた。
新しい魔王の調整はすべて終わった。外見的な変化はないが、メイシンの体内に埋め込んだ魔王のバイパスは綺麗に定着し、問題なく機能を開始した。
問題があるとすれば、メイシンという男の自我の薄さだろうか。
よき魔導騎士であろう、よき王子であろう、よき息子であろう。よき教え子であろう。
そういった意識はあるが、自分自身がどうありたいという意識が薄い。与えられた役割を、ただ与えられるままにこなし続けて生きて来た空虚な男。素直で扱いやすいという長所はあるが、ガレスのような強烈な軸や動機を持っていないため、ジルの方で細かく誘導してやる必要があった。
放っておいても死と殺戮を撒き散らしてくれるようなタイプではない。
柔らかい寝床が軋み、メイシンが身を起こす。
「もう起きる? 魔王さま」
甘えるような声で言い、仕上がった道具を見上げる。
「ああ」
新たな魔王は魔王らしく、自信と余裕に満ちた風情で応じる。だが、ジルの求める役柄を、よき魔王を演じているだけだ。魔王らしくあれば、ジルが肯定してくれる。愛と安らぎ、肯定と快楽を与えてくれる。
大人になる機会を得られなかった、一人で立つことのできない男の依存に過ぎない。ジルがメイシンを見限れば、すぐに方向を見失うだろう。
小物といえばそれまでだが、ガレスとは違った面白さがあるとも言えた。
「父上と面会の予定がある。そろそろ譲位の話をしようと思う」
「ついていってもいい?」
無邪気に笑いながら言う。
「もちろんだ」
「ありがとう、大好き」
侍女たちの手を借りて着替えをし、朝食を摂る。王太子が得体のしれぬ少女を引き込んで侍らせ、王宮内で好き勝手に振る舞わせている状況だが、苦言を呈する者は存在しなかった。
アレイスタの王宮に、魔王と正面から向き合い、苦言を呈する気骨の持ち主などいない。
メイシンに寄り添い部屋を出る前に、ジルは寝所の隅に声をかけた。
「お爺様」
その声に応じて黒いローブの影が現れる。身の丈七フィートにも達する髑髏の大男。ローブの中の骸骨は、虚ろな眼窩から淡い紫の光を放っていた。
顎がかすかに動いていた。小さく、呪詛のように何事かを呟いている。
魔王となったメイシンが絶命したゴルゾフの魂から作った、妖霊だ。魂魄の破損が激しく、生前の邪悪な知性は大半は失われているが、妄執と憎悪はまだまだ強く残っている。護衛代わりの使役物、『聖騎士』の司令塔としてはまだ十分使える。
ジルを寄り添わせ、妖霊ゴルゾフを従えた魔王メイシンは無人の王宮をゆく。王宮に人がいない訳ではないが、メイシンの気配を察した者は、魔王の目に触れないよう、その感情を揺らさぬように姿を隠し、息を殺している。
そんな状況だが、逃げ出す者はいなかった。
逃げるという叛意を示せる者はいなかった。
執務室の衛士に「ご苦労」と声をかけ、メイシンは自らの手で扉を開く。
執務室の中には血の気の引いた顔、恐怖に身を震わせながら必死で威厳を保とうとする父、ダーレスの姿があった。
メイシンは笑顔を見せる。
「おはようございます。父上」
○
○
○
○
○
(なぜこうなった。一体なぜ、こんなことになった)
王太子メイシンらと向き合ったダーレス王は、昏い水底に押し込まれていくような恐怖と絶望の中、そう自問を繰り返した。
うまく行っているはずだった。
魔王ガレスは勇者が排除してくれた。
勇者はメイシンが処分してくれた。
勇者の後釜には『聖騎士』があった。
勅許会社という得体の知れぬ組織が勢力を伸ばしていたが、新興勢力を面白く思わぬのは他国も同じ。勇者同様、用済みとして始末ができるものと考えていた。
傲慢な長子アスールを排除し、従順な第二王子メイシンを王太子の座に付けた。
そこまでは、うまく行っていた。
アスラの失踪、参謀デギスと名乗る魔族の出現などのトラブルはあったが、それが致命的な問題だとは思っていなかった。
だが、真の災厄は王宮の内側で萌芽した。
メイシンの豹変。
突如異様な気配をまとったメイシンは、一日とかからずに王宮を支配した。何をしたわけではない。ただ濃密な、死と恐怖の気配をその身にまとっただけだ。
その恐怖に抗える者はダーレス王も含め、誰もいなかった。
そして今、父であるダーレス王にこう求めている。
「国葬の場で、王位を私にお譲りください」
反発は感じなかった。
反発などできる相手ではなかった。
「靴をお舐めください」と言われれば、そうしていただろう。
だが、ダーレス王の欲望、権力や財産への執着もまた、ある種の魔性に近いものがあった。
震えながらも、必死で、媚びるように言った。
「い、いずれ、近いうちにはそうするつもりではいるが……今は、時期尚早というものではないか? 国葬まではもう時間がない。他国には国葬と冥婚、お前の王太子就任という形で招待状を出し、彼らもそのつもりで王都にやってくる。突然譲位ということになれば他国も混乱するだろう。事前の連絡がないことを非礼と取る国もあるはずだ。国葬では譲位の意向を発表するにとどめてはどうだ」
国葬での譲位はまずい。
今のメイシンは、以前のような従順な第二王子ではない。王位を譲れば、ダーレス王を立てるようなことはあるまい。
その前に、資金や資産を確保し、逃しておく必要がある。
逃がすための時間を作る必要がある。
「どうぞご心配なく」
メイシンは笑う。
「他国の反発については、私自身の責任で対応いたします。いずれにしても、多少の武力衝突は避けられないでしょう」
「……アスールのことか」
「兄上もそうですが、さらに規模の大きな話です。勇者の国葬では、人族連合に参加した各国の指導者が一堂に集います。私はそこで、大陸諸国の新たな枠組みを示そうと考えています」
「な、何をしようというのだ」
「アレイスタ連邦構想。アレイスタを中心とした大陸統一国家を樹立します。今回の対魔王戦争での最大の敵は、魔王軍そのものではなく、人族諸国の利害対立による足並みの乱れです。それが魔王軍との戦いをいたずらに長引かせることとなりました。今後の世界秩序のためには、アレイスタを中心にした大陸統一国家が不可欠です」
思想自体は突飛なものではない。ダーレス自身も夢想程度に考えたことはある。だが現実的には国力の問題がある。大陸主要国の全てを敵に回すことになる。いかにアレイスタが今日の覇権国とはいえ、勝ち抜くことは困難であろう。
「勝てぬ戦になるぞ」
「力ならばあります」
メイシンは手のひらを上に掲げる。
頭上に、おぞましい気配が生じた。執務室の天井から、黒いものがどすりと落ちてくる。ねじくれた四角錐の頭を持つ巨人。
異形の神の眷属。
資料などで目にしたことはあるが、生きた現物を目にするのは初めてだ。その存在感、威圧感にダーレスは震え上がり、「ひい!」と声をあげた。
「ご安心ください、これは私の僕です」
「……なんなのだその力は、一体おまえに何があったのだ。メイシン」
声を震わせ、椅子から転げ落ち、ダーレスは後ずさる。既に失禁していた。
「魔王の力です。私は魔王になりました。魔王ガレスの後継者として」
「……な、なぜだ。アレイスタの王子たるものが、なぜ汚らわしい魔族の力など……」
メイシンは笑う。
「魔王もアレイスタの王子も変わりません。アレイスタの王子、ダーレス王の息子、魔王討伐隊の魔導騎士、ゴルゾフの教え子……勇者殺し。私はいつも、誰かに求められた役割を演じてきました。これからは、魔王を演じるというだけです。今までと変わりません。違うところがあるとすれば」
傍に寄り添う少女を、メイシンは腕にかき抱く。満ち足りた表情、柔らかな口調で、穏やかに続ける。
「ジルは私を満たしてくれました、父上やゴルゾフ、ほかの人間たちと違って。私を幸福にしてくれました。だから私は演じるんです。父上の望み通りに良き息子、良き王子、良き騎士を演じてきたように、裏切り者を、勇者殺しを演じたように、これからは、彼女のために良き魔王を演じます。世界を恐怖と混沌に沈め、呪いと祈りの螺旋を描き、無限の熱を生み出すものを!」




