贖罪者は役目を終える。
龍脈砲。
その常軌を逸した力によって恐怖の蛇竜は打ち砕かれ、消滅した。
大地をうがった円柱状の大穴のそばに、その男はたたずんでいた。
(死んだか、私は)
何ひとつ果たせなかった。
罪を償えなかった。
アレイスタの国土を汚してしまった。
不甲斐ないという他にない。
だが、もう、すべて終わった。
肉体は既に滅んでいる。魂魄だけがまだ未練を持って地上に張り付いているらしい。だがそれも、時間の問題のようだ。
魂魄の体も、風に削られる砂の城のように解けてゆく。
心残りはある。
心残りしかない。
胸をかきむしり、絶叫したいような無念を抱え、虚しく消えていく。
その痛みは、多少なりとも償いになるのだろうか。
そんな思いにふける背中に、弾むような声が触れた。
「よかった! 間に合った!」
どこかで聞いたような少女の声。
振り向くと、奇妙な娘が宙に浮いていた。マティアル教の修道女の姿だが、額には細くねじくれた四角錐の角があり、背中には光でできた翼が生えている。四角錐には嫌な記憶しかないが、少女が身に帯びた空気そのものは柔らかく、暖かいものだった。
「君は?」
天の使いがやってきたにしては、額に四角錐があるのはおかしい。しかし地獄の使者とも思えない。
「マティアルと言います。迎えにきました。行きましょう。あるんですよね? 伝えなくちゃいけないこと」
マティアルは男の手を取ると、そのままふわりと空に舞い上がる。男の体も、空中に浮かびあがった。
「待て、どこに行く」
「社長さんのところです。行きましょう。あなたの心がまだ形を持ってるうちに」
「バラドのところにか」
「はい、だいたいのことは私が伝えたつもりですけど、本当の意味は、あなたじゃないと伝えられません。あなたの想いは、あなた自身が伝えなきゃダメなんです」
「だが、私はもう……」
死んでいる。
「私が伝えられるようにします。私はあなたが見えてます。あなたが語れるようにします。だから来てください! 今なら間に合います!」
マティアル。
大聖女の名を名乗った少女は、涙目で叫んだ。
思い出した。
忌まわしい魔獣と成り果てていた頃、誰かが心に触れてきた。
誰かが想いを受け止めてくれた。
この少女の声だった。
「……わかった。行こう」
最後の役目を、果たさなければならない。
「はい! 急ぎます! ちゃんとつかまっててください!」
マティアルは速度をあげる。
ドルフ山をめがけ、息を切らせて飛んでいく。
○
○
○
○
○
恐怖の蛇竜を消滅させた俺は、ドルフ山中腹の本陣でアスール王子たちと合流した。
じっとしていても気詰まりだ。本陣の撤収作業を進めていると、空からバカが飛んできた。
違う。
大聖女だ。
『光の獣』の元になった存在というだけあって、時々ヴェルクトにかぶって見えることがある。
マングラールの兵たちの目の前で四角錐の角を出し、光の翼を広げた大聖女マティアルは、半透明の男をぶら下げ、息を弾ませながらこちらに飛んでくる。
「社長さん社長さん社長さんっ!」
「落ち着けこっちだ! 何やってるんだバ……」
勢いでバカと言いそうになるのを飲みこんだ。
次いで、マティアルがぶら下げた男の顔に気づく。
「ミスラー⁉︎」
大声をあげた俺の目の前へ飛んできたマティアルは半透明のミスラーを地上におろし、自分も着陸した。
「はい! 連れてきました!」
さすがに目が点になった。
大聖女マティアル。異形の神の化身のやることとはいえ、理解と想像を超えすぎていた。どういう顔をしていいか、どういう反応をしていいかわからない。
口元に手をやり、息を吐く。
目元が熱かった。
「驚かせてすまない。時間がなかった」
生前同様、生真面目の見本みたいな調子で密偵長は言った。
「そうみたいだな」
亡霊のような状態らしい。体が透けている上、少しずつ崩れていっているようだ。
「どういう状態なんだ?」
「死んだ。かろうじて魂魄だけ地上に残っているが、それも消えかけているようだ。完全に消えてしまう前に、伝えたいことがある。聞いてくれるか」
「ああ」
頷き、そばにいたイズマに声をかけた。
「すまない。アスール殿下とボーゼン、ラシュディを呼んでくれないか」
「わかった」
「待つか?」
「いや、すぐ始めよう。後から来るやつには後で俺から伝える」
全員集合を待っても仕方がない。
椅子なんて気の利いたものはない。適当な岩の上に座り、ミスラーの言葉に耳を傾ける。
ヴェルクトの正体を探りあてたのがミスラーたち密偵七家であったこと。その償いのため、エメス書という書物を求め魔導騎士学校の研究所に乗り込み、メイシンとゴルゾフ、ジルという少女に囚われたこと。メイシンが異形の神の眷属を使役したこと、魔導騎士学校で『光の獣』の培養と『聖騎士』の生産が行われていたこと。
こちらで把握している情報や、先にマティアルが伝えてくれた情報との重複が多いが、ミスラーの語りたいように語らせる。ミスラーは報告のプロだ。ペースを誤って途中で消滅したりはしないだろう。
「以上だ」
そう告げた密偵長の姿は、だいぶ薄らいでいた。
「わかった。後のことは任せてくれ。ヴェルクトは必ず救う。メイシンとジル、ダーレス王は必ず倒す。他、何か気になることは、思い残しはあるか?」
「ターミカシュ領で水害が起きた。例によって支援が滞っているようだ。今は難しいかもしれないが、可能であれば支援を頼みたい」
「それはそれでやっとくが、そういう話じゃねえよ、兄弟」
この男らしい真面目さだが、そういうことを聞いたんじゃない。
兄弟という言い方は一方通行だ。こっちが砕けた態度を取らないと、会話が際限なしに堅く重苦しくなる。
「そういう話を聞きたいんじゃない。王の耳じゃない、密偵七家でもない。ミスラーって男の言葉を聞きたい。俺もただのバラドとして聞く」
「そういうものは、ないな」
「肩書きない俺はダメか。ひでぇ話だな」
「すまない。私は密偵としての自分しか持っていない。私個人としての言葉を求められても、なんと言っていいかわからない。父親としての言葉ならばなくはないが」
「それでいい。聞かせてくれ」
「……息子と、娘たちを頼みたい。私が帰らなければ、勅許会社のバラドかマングラール公を頼れと伝えてある。うまく逃げ延びられれば、お前たちの元に馳せ参じるだろう」
「おい待て、そういうのは一番最初に言え」
一番重要で、新しい情報だ。
「家族のことは言いにくくてな。頼めるか?」
「引き受けた」
「あとは、勇者殿に謝っておいてほしい」
「わかった。そもそもお前を責めるような奴じゃないが」
「では、これで全部だ」
「本当だな?」
「なくはない。だが、今更言っても仕方がない」
ミスラーは立ち上がる。時間のようだ。その姿は、ひどくぼやけたものになっていた。
「ここまでにしておこう」
「もう、ダメか?」
「もうしばらく持つと思うが、大勢に看取られて行くのも面はゆい。最後は自分が消えるまで、歩いてみようと思う」
「そうか」
この男らしい慎ましさだ。
「……勇者殿と、この国を頼む」
「……手を出せ。拳を作って」
「こうか」
ミスラーが伸ばした拳に俺も拳を触れ、笑ってみせる。
「任せろ、兄弟」
「待て」
無言で見守っていたアスール王子が言った。
「余を差し置いて国を頼むだの任せろだのとは僭越な」
ずかずか歩み寄ってきたアスール王子は俺とミスラーの拳に自分の拳を当てた。
「耳よ。貴様の願い。余が確かに聞き届けた。安心して逝くが良い。アレイスタの千年の平和、余が叶えてくれよう」
「お願いいたします。アスール殿下」
ミスラーは微笑し、涙ぐむような表情を見せた。
「いうまいと思っていましたが。やはり、いうことにしましょう。アスール殿下、私はあなたの耳となり、お仕えしたかった。だが、私はここまでです。後のことは、お願いいたします。どうかアレイスタを、勇者をお救いください」
「無論だ。余の名において誓う」
「バラド。色々押し付けてしまったが、まずは勇者を、ヴェルクトを取り戻すことを第一に考えてくれ、幸福にしてくれ。世界のために、先頭で戦った娘が報われない。そんなことがあってはいけない」
「ああ、わかってる」
「これで、安心していける」
ミスラーは拳を下ろす。
「おさらばです、アスール殿下。ありがとう、大聖女殿。あとは頼む、兄弟」
最後に一度だけ、俺を兄弟と呼んで、密偵長は踵を返す。
ぼんやりした陽炎のような姿で、ゆっくりと山頂に向けて。
「送っていきます」
そう言ったマティアルは、ミスラーを追って行く。
最後にもう一度、声をあげた。
「じゃあな! 兄弟! お前に認められたことは俺の一生の誇りだ!」
ミスラーは足を止めない。
代わりに一度だけ、ふわりと腕を上げ、小さくなって行く。
最後まで付き添ったマティアルの話では、ミスラーは山頂まで登って行った。
そこで足を止め、王都の方角を見つめながら、静かに消えて行ったそうだ。




