准聖女は蛇竜に触れる。
その魔獣の名は恐怖の蛇竜。
体長百ヤード。
黒い蛇体に人の髑髏状の頭部を持つ超大型魔獣。
魔王軍の切り札として第一次、第二次ゾンダ大会戦に投入され、人族連合に甚大な被害をもたらした存在だ。
「なんでこんな大物がいきなり湧いてでて来やがる」
大地を腐らせて這う巨影と馬で並走しつつ、ラシュディはつぶやいた。暴れてはいないが、恐怖の蛇竜が這った後の地面は腐って毒沼となる。毒沼はそれ自体が邪悪な生命を持つ不定形の魔物であり、生物の肺を腐らす瘴気を放ちながら膨れ上がり、一帯を死の沼地へと変えてゆく。這っているだけで大災害だ。
今の所市街への被害は出ていないが、このまま直進を続ければマングラールの湖都リッシュを直撃することになる。
「あんたのいう『敵』の関係か?」
背中にくっついている准聖女に問う。巨大魔獣出現の報せを受けたマングラール偵察隊についていきたいと駄々をこねたため、ラシュディが面倒をみることになった。普通なら無視するところだが、准聖女は「『敵』の気配がする」と口にした。
無視のできない響きがあった。
「はい、異形の神の力を感じます」
巨漢の老兵の胴体に腕を回し、准聖女はいった。
「異形の神? 魔族の神のことか?」
「はい」
「だから一体なんなんだお前さんは」
異形の神を『敵』とみなす存在。異形の神は人族の敵と言ってもいい存在ではあるが、この准聖女は神憑りだ。どういうものがついているのか見当がつかなかった。順当に考えるとマティアル教の大聖女マティアルということになるはずだが、何度聞いても「まだ内緒です」というばかりだった。
「そうですね、そろそろ説明します。でもまずは、あの人を止めないと」
「あの人?」
「あの人は、人間です。異形の神の力で植え付けられて、ああなっちゃったんです」
静かな口調で、ぞっとするようなことをいう准聖女。
「……マジかよ」
「マジです」
「もとに戻せるのか?」
「もう、無理です。人としての体は、もうめちゃくちゃになっちゃってます」
切なそうに言った准聖女は、老兵の体から手を離す。
「捕まってろ、あぶねえぞ」
「支店長さん」
馬の尻に手を当て、准聖女は言った。
「アナのことは、嫌わないであげてください。偶然私と波長があっただけで、アナ自身は普通の人間の女の子ですから」
鞍の上で立ち上がり、准聖女は目を閉じる。その額から、すっと黒いものが延びた。獣の角に似た、黒くねじれた四角錐。
異形の神の四角錐。
「なんだそりゃ」
振り向き、目を剥いたラシュディに、准聖女は少し困ったように微笑んだ。
「後で説明しますね、ちゃんと」
准聖女は馬上から身を躍らせる。地面に叩きつけられる代わりに、背中から緑色の輝く光の翼を広げ、地上近くを滑るように飛翔する。
マティアル教で祀られている大聖女マティアルの像に似た姿。
だが、大聖女の像には、ねじくれた四角錐の角などなかったはずだが。
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飛翔した准聖女は恐怖の蛇竜の前方へ回り込む。全身から瘴気を発する恐怖の邪竜だが、今の准聖女の体には影響しない。構わずに距離をつめ、巨大な髑髏の眉間の部分に手を触れた。
問いかける。
「どこへ行くんですか? なにを苦しんでいるんですか?」
回答はない。
恐怖の蛇竜は止まらない。慟哭に似た声をあげながら、ただ、這っていく。
聴覚が、人の声が聞けるように機能していないのかもしれない。空気の振動ではなく、精神に直接接触した方がいいかもしれない。
「痛かったらごめんなさい」
准聖女は右の掌から長細い肉の四角錐を出し恐怖の蛇竜の虚ろな眼窩の中へと伸ばす。くねりつつ、長い糸となって延びた四角錐は視神経の通り道を抜け、頭蓋の中に入り込む。
繋がった。
肉の四角錐を通じて、恐怖の蛇竜の記憶と感情が、無秩序に流れ込んでくる。
やはり、壊されている。
人の体に無理な力を詰め込まれ、心も体も、めちゃめちゃにされている。残っているのは、強力な使命感だけだ。
それすらも、意図的に残されたもののようだった。
ツタエナケレバ。ツタエナケレバ。ツタエナケレバ。ツタエナケレバ。
そんな思いだけが、ずっと繰り返されてる。
「なにを伝えたいんですか? 誰に?」
混濁し、混乱した恐怖の蛇竜の意識と記憶の中を、さらに深く探っていく。
見つけた。
王子メイシン、最初の魔導騎士ゴルゾフ、そして異形の神の眷属たち、准聖女と同じ四角錐を操る少女に関する記憶。
「ジル、やっぱりいた」
鋭い表情で呟いて、准聖女は四角錐を引き戻す。そして恐怖の蛇竜の額のあたりを、労わるように撫でた。
「ミスラーさんっていうんですね。貴方の伝えたいことは、わかりました。全部じゃないかもしれませんけど、感じ取れたことは、あの社長さんに伝えておきます。少し、待ってください。いまの私の力じゃ、貴方を止めてあげられません。でも、あのひとたちなら」
最後まで言う前に、妙な気配に気づいた。
振り向くと、前方に広がる森林から、大きな白い生き物たちが舞い上がり、群をなして押し寄せてくるのが見えた。
遠くから、ラシュディの胴間声が聞こえる。
「そいつから離れろ! 熊喰蜂が反応してやがるぞ!」
熊喰蜂とはマングラールの北部森林域に生息する世界最強格の野生生物だ。体長六フィートもの巨体をもち、数が集まれば羆や竜の類ですら容易に捕食してしまう白色の巨大蜂。しかも群棲生物であり、北部森林全域を縄張りとし、数万匹単位の巨大コロニーを形成している。
かのマングラール公ですら「あの森の女王ばかりは如何ともしがたい」として、北部森林を不可侵領域とし、不干渉を保つという対応しかできなかった生物だ。
恐怖の蛇竜を生存域を荒らす脅威と認識したのだろう。熊喰蜂たちは攻撃フェロモンを撒き散らしつつ、白い雪崩のように押し寄せてくる。
「いけない」
『敵』の意図が読めた。
だが、どうすることもできない。今は、アナという少女の体を傷つけないようにすることが精一杯だ。
「ごめんなさい、なにもしてあげられなくて」
恐怖の蛇竜にそう言い残して、准聖女はラシュディの所に舞い戻る。
「お待たせしました」
「早く乗れ。巻き込まれたらたまったもんじゃねぇ」
准聖女が四角錐を見せる前と同じ調子でいったラシュディは、准聖女を乗せると馬首を返し、恐怖の蛇竜から距離をとる。
「なにをしてた?」
「あのひとの心に、触らせてもらってたんです。社長さんのお友達みたいです。なんだか、悲しい人でした」
ひどく生真面目で、不器用な心だった。
切なくなるくらいに。
恐怖の蛇竜に熊喰蜂たちが群がり、襲いかかる。今の恐怖の蛇竜にはまだ戦うための特別な力はない。全身から瘴気を放ち、近づくものを殺すが、それだけだ。縄張りを守るために狂乱した熊喰蜂たちは、腐り落ちることを厭わず、次々と恐怖の蛇竜に取りつき、牙と毒針を突き立てていく。恐怖の蛇竜は咆哮し、のたうつが、熊喰蜂の物量は圧倒的だった。どれだけ犠牲を出そうとも怯むことなく、恐怖の蛇竜に群がり、肉を喰い千切り、毒針を突き立て続ける。熊喰蜂の毒は生命から成る毒だ。恐怖の蛇竜にもある程度は通用する。ましては万を越す数である。全身を熊喰蜂に覆われた恐怖の蛇竜は、やがて痙攣を起こしながら毒沼の中に崩れ落ち、動かなくなった。
「とんでもねぇな、あいつら。恐怖の蛇竜よりやべぇのか」
ラシュディはぞっとしたように言った。
「いえ、これからです」
准聖女は首を横にふる。
「恐怖の蛇竜は、危機に陥ると脱皮をします。その度に、強くなっていくんです」
准聖女の言葉をきっかけにしたかのように恐怖の蛇竜に変化が生じる。
蛹から虫が羽化をするように、恐怖の蛇竜の背中が割れ、巨大な男の上半身のようなものが現れる。その面影は、准聖女が恐怖の蛇竜の心に触れた時に見た、ミスラーという男のそれと同じものだった。
恐怖の蛇竜の体に取り付いた熊喰蜂たちは、すでに恐怖の蛇竜の瘴気によって死に絶えているが、まだ周囲には無数の熊喰蜂が興奮状態で飛びかっている。すぐに反応し、襲いかかろうとする。
今度は、触れることも叶わなかった。
男の上半身、そして黒い蛇体に無数の眼球が生じ、開く。その瞬間、熊喰蜂たちは石へと変わり、落ちていった。
「全身に邪眼だと?」
「あんまり見ないでください。この距離でも、目が合ったら危ないです」
「偵察もろくにできねぇのか」
老兵は舌打ちをする。
周囲の熊喰蜂たちを一通り石にした恐怖の蛇竜は熊喰蜂の死体まみれの古い皮を脱ぎ去り、新たな姿を見せる。
髑髏の頭の蛇体はそのまま、その背中に巨大な男の上半身を背負い、身体中に邪視の眼球を備えた異形であった。
ここまでは『敵』の計算通りの流れだろう。恐怖の蛇竜の成長には、一定以上の力を持つ敵が必要となる。熊喰蜂たちは恐怖の蛇竜を育てるための生贄として利用されたのだ。
再び動き出す恐怖の蛇竜。
それを迎え撃つように、森に新たな巨影が現れる。
体長五〇ヤード超の白い巨大蜂。
熊喰蜂決戦体。
縄張り意識の強い熊喰蜂は、巣が違えば同種同士で殺しあう。他の巣を殲滅するために特別に育てられた純戦闘用超大型熊喰蜂、それが決戦体だ。恐怖の蛇竜の接近を存亡の危機と見なした熊喰蜂の女王が投入した切り札であろう。
だが、手遅れだった。
恐怖の蛇竜は両手を組んで空へとかざす。その手の中に、長大な柄を持つ瘴気の斧が現れた。雲の高さに届く長さ、雲を切り裂く巨刃。
瘴気の斧が現れた瞬間に、熊喰蜂たちは滅びを悟り、動きを止めた。それほどに圧倒的で、絶望的な力だった。
黒い斧が振り下ろされる。
最初はゆっくりと雲を抜け、加速し、稲妻の速さに。熊喰蜂も、決戦体すらも、眼中にはなかった。死と破壊の黒斧は生命の根幹、マングラール北部森林の中心部に突き刺さり、漆黒の大爆発を引き起こした。
瘴気の爆発。
木々が、大地が、その地に生けるものの全てが腐食し、黒く干からびて砕け散る。熊喰蜂たちも、決戦体も、マングラールの偵察隊の面々も、何もかも。
自身もまた爆発に飲まれかけた准聖女はギリギリで結界を張り、自身とラシュディ、馬を守った。
そうして、マングラール北部森林は消滅した。
生命の気配の消えた黒い荒野を、恐怖の蛇竜は這い進む。
大切なことを伝えるために。
アレイスタを救わんがために。




