贖罪者は黒衣をまとい。
黒衣の男は深夜の学び舎を駆け抜ける。
アレイスタ王立魔導騎士学校。
魔導回路を組み込んだ騎士鎧を纏い、強大な魔法と剣術を組み合わせた魔導剣を操る魔導騎士の訓練校であり、アレイスタの騎士階級、貴族階級の子弟に身分にふさわしい教養と作法、自覚を教え込む寄宿校であり、新たな魔術、錬金術を探求する研究機関でもある。
その広大な敷地を横切り、深奥に佇む研究棟に到達した男は、建物の壁を蜘蛛のように這い上がって二階の窓に取り付いた。
隙間にナイフをねじ込んでこじ開け、音もなく屋内へ潜り込む。深夜の研究棟に人の気配はない。さらに駆け、目的地である特別研究室の前に立つ。
魔導騎士学校の学長ゴルゾフがローデスの『光の獣』の資料と設備を搬入した研究室だ。
手にいれるべきものはここにあるはずだった。
魔導式の錠前に魔導水銀を流し込んでロックを解除、室内に潜り込む。
部屋の中には淡い金色に光る大型水槽がいくつも並び、勇者ヴェルクトと同じ桃色の髪の娘達が眠るように浮いている。
『光の獣』。
ローデスの研究を引き継ぎ、量産を企てていることは把握していたが、ここまで早く培養技術を確立し、兵器として仕上げてくるとは思っていなかった。
その見積もりの甘さが、悲劇を招いた。
自責の念に耐えながら研究室を探るが、目的のものは見つからない。さらに奥へと踏み込み、扉を開くと、そこもまた水槽の部屋だった。
だが、浮いているものは違う。
全身の皮膚を剥がされ、筋肉組織や臓器、魔導回路の類を縫合された男達。少年の姿が多いが、成人男性も混じっている。
『聖騎士』
ダーレス王が勇者に代わるものとして配備を宣言した新兵器。
素体になっている者の多くは、魔導騎士学校の生徒だろう。『光の獣』の研究開始から程なく、魔導騎士学校は平民を対象にした奨学金制度を開始、平民出の優秀な生徒を受け入れるようになった。
英断と思っていたが、真実はこれだ。
奨学金という餌をまき、自ら試験を受けさせることで『聖騎士』の素材を選別していただけだったのだろう。
こみ上げる怒りと憎悪を押し殺す。ここにきたのは贖罪のためだ。勇者ヴェルクトを救う手立てを見つけ出し、あの男の元へ届けなければならない。それが今の自分にできる最大の贖罪だ。
再び歩き出そうとした刹那、声が響いた。
「ほら、やっぱり裏切ってたでしょ?」
少女の声。邪気のない、だが、どこか忌まわしい響きを帯びた声だった。
振り向くと、扉の近くにメイシン王太子と学長ゴルゾフ、そして見覚えのない少女の姿が現れていた。少女は勇者ヴェルクトが着ていたものと同じ青と白の衣装を身につけている。髪と目の色は違うが、面差しも勇者ヴェルクトにどこか似ていた。だが、印象は全く違う、ヴェルクトというのは、勇者という称号が不似合いな、ふわふわした物腰の少女だったが、こちらの少女は、とろりとした女の色香が強く匂った。
「驚きましたな」
怪老人ゴルゾフは、芝居掛かった声をあげた。
「よもや彼が国家に背いていようとは、この老人、夢にも思いませなんだ」
「残念だ」
メイシン王子は黒衣の男に問う。
「密偵七家の長たる貴様ががなぜ裏切った、ミスラー」
黒装束の男、アレイスタ密偵七家筆頭ラクシャ家当主、王の耳ミスラーは、無言で短刀に手をかけた。
謎の少女が無邪気な表情で言う。
「王様が嫌いだったみたい。ずっと我慢してて、でも、あの子が殺されて、付き合いきれなくなったんだね」
心の中を見透かしたような言葉。
実際、見透かしているのだろう。
少女の言葉は真実だった。
王の耳ミスラーは裏切り者である。
勅許会社の総帥バラドに伝書鳩を送り、マティアル教教会跡にアレイスタの追っ手が送られることを伝え、逃亡させたのは、ミスラーの仕業だ。
動機は、ダーレス王を初めとするアレイスタ王侯貴族の腐敗と堕落。
ラクシャ家は王の耳。情報活動によって反逆や犯罪を未然に防ぐと同時に、あるがままの国情、民草の生活や窮状などを王に伝えることで、政を支える存在でもある。その信念の元、ミスラーは冷徹、忠実な密偵長であり続けて来た。
若き日のダーレス王は、未熟な部分はあれど、仕えるに足る主君であった。だが、歳を経るにつれて堕落し、腐敗していった。自身の欲望の赴くままに国政を動かし、民を省みなくなった。王に阿る佞臣どもを重用し、ミスラーが彼らの不正を伝えても、正当な裁きを行うことはなくなった。
そんな日々の中で、ミスラーはバラドに出会った。
勅許会社という組織の急成長を嫌ったダーレス王の勅命を受け、勅許会社の弱みを探るために動いたミスラーは、勅許会社の監視活動を通じてバラドという男を知っていった。
そしてエバージュと呼ばれる地域で大規模な虫害が発生した。
破滅の蝗と呼ばれる大型昆虫の異常発生である。エバージュ地方の農業は破綻し、深刻な飢饉が発生した。その情報を得たミスラーはダーレス王に支援を提言したが、ダーレス王は魔王軍との戦争を口実にエバージュ地方の切り捨てを判断した。ダーレス王に取り入る佞臣、ターミカシュ公爵の策謀によるものだった。虫害への対処失敗を理由にエバージュ地方の領主を取り潰し、エバージュ地方をターミカシュ領とする。そういう企てであった。
権力者の我欲のため、無辜の民が犠牲となる。それを見かねたミスラーは勅許会社に接触し、エバージュの救援を申し入れた。
それを受けたバラドはアスール王子と連携してエバージュ支援に乗り出し、破滅の蝗を根絶、食糧支援によってエバージュ地方を救った。
この一件から、ミスラーはバラドという男に友情を覚え、交流を持つようになった。
本人は商人と称しているが、本質は神がかり的なセンスを持つ博徒に近い。着の身着のままのところから、ヴェルクトという存在をマネージメントすることで常識はずれの利益を叩き出し、勇者パーティーを抜けた後はそれまでに培ったコネクションと資産を運用し、世界最強の経済組織を生み出す。
まともな商人が、まともな商売で成し遂げられることではない。狂気めいた賭けを日常的に繰り返し、勝ち続けて成し遂げた奇跡だ。才覚を通り越し、魔性めいた能力の持ち主と言える。それでいて奇妙な恬淡さがあり、打算や損得、欲得を知りつつ、それに縛られない。それが必要と判断すれば莫大な資産をためらわず、見返りなしで動かす懐の大きさも備えていた。
欲得ずくで利得を巡って足をひっぱりあい、民草をかえりみないアレイスタ王侯貴族の醜悪と向き合い続けていたミスラーにとって、バラドとの出会いはある種の福音であった。
だがそれでも、ミスラーはアレイスタの臣であった。バラドという男に惹かれはしても、王の意向に真っ向から背くような意思はなかった。アレイスタの国情、世界情勢に関する情報交換などは密接に行うようにはなったが、あくまでも常識的な範疇に留め、国家機密となるような情報を流すようなことはなかった。
はっきりと離反を決めたきっかけは、勇者ヴェルクトの死後に届いたバラドからの手紙であった。
勇者の死への疑問、情報収集への協力を求める書状を受け取ったミスラーは、その時点で勇者ヴェルクトの死の真相を悟っていた。
ヴェルクトが魔法生物であることを探り当て、ゴルゾフと共にエメス回路という弱点を割り出し、ダーレス王に報告したのは他ならぬミスラーである。気づかないはずがない。ミスラーは王都に運ばれた勇者ヴェルクトの遺体を調べ、首の後ろのエメス回路が切られていることを確認した。
ミスラーは絶望し、激昂した。
ヴェルクトという少女に野心はなかった。
後援者たるバラドやマティアル教にも勇者を利用してアレイスタを追い落とそうという意図などなかった。ダーレス王という小人が、政敵や民草を弾圧し続けた男の歪んだ心が、世界を救った少女を食い殺した。
わずかに残っていた忠誠心は、完全に喪われた。
代わりに贖罪がミスラーの行動理念になった。
ミスラーが勇者の正体を探り出さなければ、エメス回路のことを割り出さなければ、悲劇は起こらなかった。
ミスラーはアスラ失踪事件の調査の指揮を取りつつ、実際にはバラドに逃走するように連絡し、自分自身が調べ上げた『光の獣』に関する情報も流した。
そして、勇者を蘇生する手立てを探るため、『光の獣』に関する最重要資料、エメス書を手に入れるために魔導騎士学校への潜入計画を整え、実行に移したのだ。
「そうか」
メイシンは頷いた。
「確かに父上の治世には問題が多かった。ターマカシュ公爵をはじめとする貴族どもの増長もひどかった。私の時代は旧弊は排除し、新しい、幸福なアレイスタを作らなければな」
翳りのない、力強い言葉と表情、若き王太子の理想像のような風格があった。
「だが、国家への反逆は大罪だ」
研究室の天井のあたりから、おぞましい気配が生じた。
天井全体がタールのような黒色に染まり、そこから、ねじくれた四角錐型の頭を持つ黒い怪物の群が、コウモリのように頭から生えてくる。
異形の神の眷属どもであった。