王子の心は蕩けて堕ちる。
勇者ヴェルクトの国葬、王太子メイシンとの冥婚の準備は順調に進んでいた。
アレイスタ王宮の大霊廟に安置された勇者の遺体は純白の婚礼衣装を着せられ、美しく透き通ったガラスの棺に移されている。
少女の着替えや棺の飾り付けをすませた侍女たちを下がらせ、メイシンはヴェルクトと二人きりとなった。
ガラスの棺の蓋を開き、冷たい頬をそっと、愛おしげに撫でる。
メイシンがヴェルクトに結婚を申し入れたのは、ダーレス王の命令が全てではなかった。
愛情はあった。
そうでなければ、七年もの間、過酷な旅を共にできたはずがない。
ヴェルクトという少女のあり方は、欲望や権謀の渦巻く王宮に生まれたメイシンにとっても好ましく、愛おしいものだった。ヴェルクトの処分を命じたダーレス王の命令に抗うことはできなかったものの、自分の傍で、生涯を共にして欲しいという想いにも嘘はなかった。
喪失感は深かった。魔王討伐、勇者処分の功績を認められ、兄アスールを追いおとす形で王太子の地位は手に入れたが、心は乾いたままだった。遠からず、メイシンは王になるだろう。だが、父であるダーレスの意図は国政の実権を掌握したまま、国王としての儀礼のみをメイシンに任せる二重体制だ。
言ってみれば、ただの王冠置き場だ。
「どうすれば、よかったんだ、私は」
答えを求めたわけではない。
ただの泣き言、繰り言のつもりだった。
だが何かが、その言葉に応じる。
「泣かないで」
不可思議な少女の声が響いた。
甘く、柔らかく、だが、根源的な畏怖を煽るような声だった。
ぞわりとして振り向くと、奇怪な少女が霊廟に浮いていた。長い黒髪に黒いドレス、その顔は、棺の中で眠るヴェルクトにどこか似ている。ドレスのスカートの下からは、クラゲのそれに似た触手が無数に伸び、うごめいている。左右の肩甲骨のあたりから、黒くねじくれた四角錐のようなものが伸びていた。
異形の神の四角錐。
「な、なんだ。貴様は」
「ジル」
少女は空中にふわふわと浮かびながら、ふわふわと微笑んで言った。メイシンが愛した少女の、勇者ヴェルクトが見せてくれた表情に似ていた。
「王子様を誘いに来たの」
「何を、言っている?」
戸惑い気味にそう問いかける。
奇怪極まりない少女だが、敵意や害意は感じなかった。むしろ、失くしたと思っていた温もりのようなものを強く感じた。
「私は王子様たちのいう、異形の神の化身のひとつ。王子様を誘いに来たの」
異形の少女はまた、ふわりと微笑んで続けた。
「新しい魔王になってほしいの」
「私を、惑わせるな!」
メイシンは叫ぶ。異形の少女の微笑みは変わらない。
「ひどーい。取引しようって言ってるだけなのに。魔王になるならいいことを教えてあげるよ? その子を蘇らせる方法とか、その子と同じものを作る方法とか」
「蘇らせる?」
メイシンは目を見開く。
「やっぱり聞いてないんだ」
異形の少女はコロコロと笑う。
「ひどいお父さんだよね」
芝居掛かった動作で、異形の少女は腕を組む。
「その子はね、勇者なんかじゃないんだよ? 『光の獣』っていう錬金文明の魔法生物。だから、首の魔導回路を書き直せば息を吹き返すし、素材と機材を集めれば新しいものも作れる。この国でも、同じようなものを作り初めてるみたい。新しい魔王になってくれたら、やり方を教えてあげる。中古じゃなくて、新しいものを作れば、王子様だけを好きになってくれるよ? あと、私。私も王子様を好きになってあげる。王子様だけのものになって、ずっと、ずっとそばにいてあげる。どう?」
異形の少女は無邪気に言いつつ、大霊廟の床に降りた。クラゲの触手のようだった足が、白い人間の足に変わる。裸足のまま、メイシンに歩み寄り、両手を伸ばしてその両頬に触れる。
甘やかに微笑んだ。
「幸せにしてあげる」
異形の少女の微笑みは、メイシンが望んだものと似ていた。望みながらも得られなかった少女の笑顔に似ていた。
メイシンの意思と思考は甘く爛れ、蕩けだす。
目元が熱くなる。嗚咽がこみ上げるのを感じた。
「……ああ……あぁ……」
甘くため息をつき、滂沱の涙を流しながら、メイシンは異形の少女に取りすがり、抱きしめる。
幸福な温もりが、柔らかく、甘美な毒が、触れ合った体から染み入ってくる。
「いい子だね」
嗚咽する王子の背中に腕を回し、異形の少女は甘く、ただ甘く囁く。
とろりと心を酔わせ、腐らすように。
「もう、なにも、苦しまなくていいからね」