第三話
音を、出してはいけない――。
暗闇を切り裂いたかのように発光している黄色い眼がふたつ。
(こっちに来るな来るな来るな来るな来るな)
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
四肢を引きずる音だけが聞こえる。
廃屋の記憶が鮮彩に甦る。
潰れて伸び切った手足。動く度に糸を引く黄色い膿のような粘液と血と、ミイラをすり潰すように食い散らかす、所々生えていない平たい歯。
露出した頭皮から生える傷んだ髪を振り乱しては首がポキポキと鳴っていた。
世界には化け物と俺の二人きりしかいないように錯覚する。
ザッ、ザッ、ザリ、ザリザリ……。
口に袖を突っ込んで息の一つでも漏らさないようにガチガチと鳴る歯を必死で抑えた。
這いつくばって潜り込んだせいか、汚れた服を介して土の味が口の中に広がる。
蜘蛛のような姿勢でゆっくりと後退する。
あの化け物からなるべく距離を取りたかった。境内の下、月光から逃れるように奥へ奥へ。
(気付かないでくれ、気付かないでくれ)
靴はとうに脱げていた。それが幸を奏したのか、不思議と動く音は出ていなかった。
カチカチカチカチカチ。
歯を打ち鳴らす音、あいつが俺を探している。
「足りカチカチなカチいカチカチカチカチカチ……」
足りない?何が?
「どどどどどこどこどこどこどこ」
足りない、俺が、食い足りない?
俺を探している。俺を食おうと探している。
境内の中の二人はどうなったんだろう?
――二人の腹の中から顔を上げる影が一つずつ。
クチャクチャと咀嚼音、嫌な想像が頭をよぎるが振り払うように体を強張らせた。
どれぐらいの時間が経っただろう、雲が月に被ったのか、光が辺りから消えていく。
「いない、いない、いない」
カチカチカチカチ。
蜘蛛女はふいに後ろを振り返ると来たときと同じように手足を引きずって出ていった。
後には粘液のような物が残されていた。
(……助かったのか?)
それでも俺は動けなかった。一歩でも動いたらまたアイツが帰ってくるような気がして。
~♪~♪♪
ビクリと体が跳ね上がった。
ポケットの中から、着信音。
慌ててポケットに手を突っ込み、スマホを投げ捨てようとするが、狭い空間の中で這いつくばった状態からでは中々上手くいかない。
(クソ、クソ、クソ)
強引にズボンの上からボタンをやみくもに連打する。
(アイツが来る、来る、来る……)
自分でも手のひらが酷く汗をかいているのが分かった。
電源を切る前に着信音がピタリと止まる。
カン、カン……。
目の前に何かが投げ込まれた。
血染めのシルバーのスマホ。ディスプレイが光っている。
「リョウの……」
手に取ると、粘液にまみれていた。
ねっとりとした不快な感触。
【ケイタ 発信中...】
「ヒッ」
腹ばいの体制からひっくり返ると、足でスマホを遠くに蹴り飛ばす。
それで、何かから逃げられるはず、と勘違いするように。してしまいたくなるように。
ズル、ズル、ズル、ズル……。
「あ、あ、あああああああ」
黄色の瞳が、蜘蛛が、月光を背に迫ってきている。
慌てて動くも、べチョリ、と先程、蜘蛛女が残していった粘液が体にまとわりつく。
「やだ、いやだいやだ」
ゴン、と太い柱が背に当たる。低い天上にしたたか頭をぶつけたが、それでも後退しようとする。
ザリ、ザリ、ザリ、ザリ。
(狭い狭い狭い暗い暗い怖い怖いごめんなさいごめんなさいごめんなさい)
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい許して、ゆつしてゆるしてゆゆゆ」
足に生暖かくて硬い物が徐々に体重を押し付けてくる。
眼前には蜘蛛女の頭が、髪がほぼないウジがたかっている頭が近づいてきている。
その表情はとてもじゃないが見れない。
ぎゅっと目をつぶる。吐息が顔に掛かる。
蜘蛛女の体が完全に俺の上に乗っている。
付け焼き刃のお経をひたすら唱えた。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」
カチカチカチという音は俺の口から漏れているのか、女の口から漏れているのか分からなかった。
頬に温度のない、ザラリとした感触が何度も何度も広がる。
腐ったような色の長い舌で何度も舐められている、この状況でどうして気絶できないんだろう。
瞼の上にまで広がる、その感触に耐えきれなくなり、思わず目を開けてしまう。
ドアップで見てしまった。
落ちくぼんだ眼孔、黄色い瞳に縦長の黒い瞳孔。
頬を舐める長い舌、腐ったような息の匂い。
据えたような匂いに俺はまた嘔吐する。
それでも目をそむけられない。
肌は所々腐っていて、骨格を作る、骨と言えないような色の物体が露出している。
白髪交じりの黒の髪は老婆のように荒れている。
「み、み、みつけたみつけたみつけたみつけたみつけた」
俺の意識はその瞬間、ようやくブラックアウトした。
眩しい光。朝になり、目を覚ますと見慣れた木造の天井。
俺は寺の住職たちに助けられたようだった。
他の二人のことを聞いたが、「ここにはいない」としか帰ってこなかった。
それでも食い下がり、住職に問い詰めるとやけに要領を得ない回答が帰ってくる。
「巣に連れていかれました」
巣、蜘蛛の巣だらけの、あの廃屋。
「じゃあ、二人は」
続きの言葉はもう出なかった。
静かに首を振る住職の顔が答えを引き継いでくれたように見えた。
風呂に入って体を清めてこいと言われ、何も考えられない状況で向かう。
全身にあの粘液がついていることに気付いて、また吐いた。
嫌な顔ひとつせずに付き添ってくれた見習いの人が俺の背をさすってくれた。
体を血が滲むまでこすった。
風呂を上がると用意されていた清潔な作務衣に着替えて本堂に戻る。
俺を出迎えてくれたのは住職ではなくて、両親だった。
強く抱きしめられると年甲斐もなく涙が溢れてきて止まらなかった。
母親にはビンタされ父親には拳骨を落とされた。
「帰ろう」
父親が強く俺の肩を抱いてくれると同時に手をひかれる。
「でも、」
住職の姿が見えなかった。
「リョウ君とタカフミ君の親御さんが来ているんだ」
父親の厳しい顔で全てを察した。俺は何も言わずに二人に従うことにした。
「住職からの伝言です。なるべく離れて下さい、と」
見習いの方の言葉に静かに頷くと俺は車に乗り込んで「何も無かった」と俺を撫でる母親に抱きついて、また眠った。
あれから数十年が経った。
あの後、俺達家族は逃げるように街を引っ越した。
二人のことも、あの化物のことも分からないままだ。
転校先で何事もなかったかのように生活を始めると、日々の忙しさから少しずつあの出来事が悪夢だったかのように遠ざかっていった。
現実は俺を待ってくれない。
時間の早さは人を癒やしてくれるのではなく、良い思い出も悪い思い出も忘れたかのように錯覚させてくれる。
大学に入り、普通の会社に就職した。
彼女も出来て、妻が出来るのはそんなに遅くはなかった。
今は二人の子供に恵まれて郊外に一軒家も買い、静かに暮らしている。
今日も仕事を終え、帰宅すると妻と子供たちが出迎えてくれる。
「お父さんおかえりなさい」
「おかえりなさい、ねえ、子供を先にお風呂にいれてくれないかしら」
最近はお風呂に子供をいれるのが俺の習慣と化している。
「分かったよ。ふたりとも行くぞー」
次女を抱き上げると長女が俺の後に続く。
脱衣所で服を脱ぐと、何か、違和感を感じた。
「おとうさん、みて」
長女の手には見覚えのない桃色の花の形をしたボディ・スポンジが握られていた。
「お母さんに買ってもらったのか?」
「うん、わたしがえらんだの」
ニッコリと笑う長女の頭を撫でる。
次女もそれに続いて何かを掲げる。
「おとうさん、みて、あひるさん」
アヒルの、風呂桶。
頭の隅を何かがジリジリと焼き始めていた。
「それも、かって、もらったのか」
声が変に上ずっていた。
「うん、おかあさんがこれも必要だからって」
必要、だから。って。
脱衣所を見渡すと、昨日までは無かった、脱いだ服を入れるはずのプラスチックの籠は変わっていて、新しく木の籠が増えていた。
木の籠。アヒルの風呂桶。花の形をしたボディ・スポンジ。
体に汗が伝う。
(思い出してはいけない――)
「な、にを?」
何を思い出してはいけないのだったか?
子供たちが不思議そうに私を見上げてくる。
「おとうさん、どうしたの」
私は歪に笑みを作って、何とか「なんでもない」と声を放り出した。
ペタリ、と唐突に背後から肩に置かれた手に体が固まる。
「あなた、どうしたの?」
なんてことはない、妻の声だ。私は何を怯えているんだろう。
「ああ、なんでもないよ。こんな所までどうしたんだい」
振り返りながら妻が触れていた私の肩に自分でも手を触れる。
べチョリ。
――え。
妻が私をまっすぐ見て、歯が所々ない口で言った。
「やっぱり家族は揃ってないとダメよね。やっと足りた足りた足りた足りた足りた」
事
故
物
件。
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