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ほわいとげうざ

作者: 軽名 南太

寒い日だ。身を切るような冷たい風が凄まじい勢いで吹いている。体の芯まで凍ってしまいそうとは、こんな日を言うんだろう。しかし、俺の中を流れる滾る血を鎮めることなどできない。この日を待ちかねて、俺の体はカッカカッカと燃えている。


今日は今年最後の奴との戦いだ。この日のために血のにじむような努力を重ねてきた。死んでも負けるわけにはいかない。


いつものように一人での来店を告げると、カウンターに座らされた。(…またか)俺は苦笑いを浮かべた。


大将はいつも俺をカウンターに座らせたがる。アンタの気持ちはよくわかる。俺たちの命がけの戦いを特等席で見届けようって魂胆だ。


まあ、いい。大将としての特権だ。アンタにその覚悟があるなら、俺たちのギリギリの戦い、見事見届けてみせるがいい。


「ご注文は」大将が言った。いつものセリフだ。フッ。俺は小さく笑った。


大将、アンタは知ってるはずだ。俺たちの真剣勝負のメニューを。これまで数えきれないぐらいの名勝負を眼の前で繰り広げてやったんだ。


しかし、アンタだって聞きたくて聞いてるんじゃない。わかってても聞かなくちゃならない。それがアンタの役目だからだ。「焼き20とビール」流れるように注文した。


注文が終わってからの時間。これは何とも言えない時間帯だ。あと数分もすれば、奴が姿を現す。今年締めくくりの戦いが始まる。楽な戦いにはならないだろう。まあ、いいさ。そんなことは先刻承知だ。




思い起こせば、今年もさまざまな死闘を繰り広げてきた。今年一発目の戦いは奴の気合の入り方がすごかった。蜃気楼のような湯気を上げ、俺に襲いかかってきた。


しかし、そんなことに躊躇する俺じゃない。軽やかな箸さばきで一つつまむと、そのまま口の中へ放り込んだ。そして平気な顔をしてムシャムシャと噛み砕いてやった。その時の大将の驚いた顔は今でも鮮明に覚えている。


しかし、奴はそんなに甘くはなかった。正直に言うとムシャムシャとまでは行かなかった。ムシャとやった時点で、地獄のように滾った肉汁が溢れてきた。思わず、声が出そうになった。


俺の舌に逃げる場所なんて、どこにもありゃしない。かと言って、肉汁を吐き出すことなんてできない。それだけは絶対にできない。


俺はプロだ。奴との戦いを汚すような真似は絶対にできない。プロとしての誇りがそんなことを許さない。


俺の舌はひん死の重傷を負いながらも、何とかビールでやり過ごした。いつもよりビールが冷えていたのが幸いした。こんなとき、心から頼れる相棒だ。しかし、初めに受けたダメージを修復しようとビールを飲み過ぎた。当然、後半戦は相棒なしで戦わなくてはならない。


七転八倒しながらも俺は奴を口の中に入れ続けた。味なんてわかるもんじゃない。こうして今年の初戦は奴の圧勝に終わった。




命がけの戦いを前に心拍数が上がっている。何度経験してもこればっかりはどうしようもない。そうこうしているうちにオバちゃんがビールを持ってきた。


バカな!


どういうことだ?


持ってくるタイミングが早すぎる。奴の登場には、まだ5分はかかるはずだ。


この数分が俺たちプロにとって、どのような意味を持つのか、オバちゃんにはまったくわかっていない。当の本人はのん気な顔をして笑っている。


今年最後の大事な勝負に思わぬハンデを負ってしまった。のどが異様に乾いている。しかし、焦ってビールを飲むことはできない。地獄の時間だ。


もう、奴が登場するはずだ。皿に醤油と酢とラー油を入れる。1対2対2。この黄金率を間違うわけにはいかない。わずかな味の違いが勝負の明暗を分けることを俺は知っている。素早く箸でかき混ぜ、箸先にチョンとつけると味見をした。完璧だ。


戦いの舞台は整った。後は奴の登場を待つばかりだ。



しかし、待てど暮らせど奴は現れない。どういうことだ。宮本武蔵を気取るつもりか。


こうしている間にもビールの温度は少しずつぬるくなっていく。首筋を嫌な汗が伝った。焦るな焦るな。奴の術中にはまったら終わりだ。俺は静かに目を閉じた。


「お待ちどう様、焼き20です」オバちゃんの威勢の良い声とともに奴が現れ、俺は目を開けた。


ゴクリと生唾を呑み込んで俺は奴を見た。ひと目見て、俺は目を疑った。


奴はただ大人しく皿の上に並んでいた。青白い顔をしてただただ並んでいた。今年初めに見た奴の気合は少しも感じられない。この体たらく、到底受け入れられるものじゃない。生涯の宿敵である、この俺を愚弄する気か。


オバちゃんが早めに持ってきたビールについての心配も、とんだ杞憂だったわけだ。こんなやる気のない奴が相手なら相棒の手助けなどいらない。俺の気持ちは急速にしぼんでいった。


ふざけるな。俺はこんな勝負のためにここにいるんじゃあない。これまでの血のにじむような努力はなんだったんだ。


腹立ちまぎれに俺は口の中に2つまとめて放り込んだ。


「はおう!」


思わず声が出た。



2つ一緒に入れたために、口の中は灼熱地獄と化した。


謀られた!


すぐにビールを流し込む。少しぬるい。


ここに来てオバちゃんのフライング配膳が大きなハンデになっていたことを痛感した。自分のしでかしたことの重大さにも気づかず、本人はニコニコと俺を見ている。


「大丈夫ですか」隣の女性客が声をかけてきた。


(大丈夫かだって?大丈夫なわけがないだろう!)これは命をかけた戦いだ。そもそも、無傷で終わらそうなんて思っちゃいない。第一、女子供が男同士の戦いに口を挟むんじゃない、とも思ったが、俺も大人。小さなことにいちいち目くじらを立てるような男じゃない。「お、お気遣いいなく」と言ってやった。



なんてこった。奴を愚弄していたのは俺のほうだった。一瞬たりとも奴のやる気を疑った己が恥ずかしい。奴とはもう30年以上の付き合いだと言うのに。


30年以上たって初めて見せた奴のこの巧妙な手口。どう見てもこの勝負をなめてかかってるように見せかけておいて、あの滾った肉汁はなんだ。


この大事な戦いのために用意周到にこんな手を用意していたとは。30年以上たってなお、奴はまだ成長を続けている。


しかし、こちらとて、そう簡単に白旗を上げるわけには行かない。何しろ今年の最終戦。この勝負にかける意気込みは決して奴には負けはしない。


言うまでもなくポイントはビールの投入のタイミングだ。これを間違うと即命取りになる。


舌の状態は最悪だ。この熱い肉汁2つ分に一遍にさらしたのだ。無理もない。腹立ちまぎれに2つ入れたことが悔やまれる。


大将がチラリと視線を送ってきた。まさか、冷めるのを待ってるのか、とでも言うようなその視線。


バカにしてもらっちゃ困る。確かにいいのをもらっちまったが、これで終わるような俺じゃない。


俺は大将の視線に気づかないふりをして一つほおばった。すかさず、咀嚼を始める。


舌が悲鳴を上げる。次々に襲ってくる肉汁は恐るべき高温だ。


素人はここで無理をして、返って傷口を広げてしまうものだが、俺はそうはいかない。すかさずビールだ。


しかし、欲望に負けてグビグビと飲むようじゃ話にならない。舌の様子、ビールの温度、果てには気温と湿度等綿密に計算に入れ、飲む分量を考慮する。


オバちゃんのフライングのせいで多少飲む量を増やさなければならないのは大きな痛手だが、ここは我慢だ。コップを傾ける角度に注意しながら、ビールを投入する。


ここからはテンポよくことを運んで、あっという間に10を平らげた。


舌は相変わらずベロンベロンの状態だが、もちろんおくびにも出さない。


げうざ、ビール、げうざ、げうざ、ビール、げうざ。流れるような展開に大将の目つきが変わっているのがわかる。


たしかに2つ食いはうかつだった。20、30代のハナタレ小僧のような真似をしてしまったと言ってもいいだろう。


しかし、2つ食いの危機を乗り越え、ここまで体制を立て直すなんてことは、ハナタレ小僧にはできない芸当だ。


感心するのはまだ早い。なんてったって、今年最後の真剣勝負だ。残りあと半分ある。この先まだまだドラマがあるぜ。


舌はとうに限界を超えているが、俺は責める手を緩めない。


げうざ、げうざ、ビール、げうざ。


テンポ良く進んではいるが、ひと口ひと口が命がけだ。奴の最終戦にかける意気込みが伝わる肉汁の熱さだ。むしろ、どんどん熱くなっているような感覚すらある。


しかし、残り5つになったとき、最大のピンチが訪れた。残り5つでビールはのこり30CCほどになってしまった。


冷静にことを運んでいたつもりが、あまりの熱さにビールの量が進んでしまっていたのだ。俺は小さく舌打ちした。


眼の前の大将もこの危機に気付いたようだ。奴もプロ。ここが、この大一番の勝負の分かれ目になることを知っている。


おもむろに調理場でグイッと一杯水を飲みやがった。気を落ち着けて、この世紀の瞬間を迎えようとしている。


この危機的状況を俺がどうさばくのか、それとも奴の頭脳的な先制攻撃の前にひれ伏すのか、アリーナ席で観戦する気だ。


この貴重な30CCをどう使うか。これがすべてだ。5回に均等に分けようとすれば、1回ごとの効果は、ほぼないに等しい。それでは負けは目に見えている。


どうする?どこでどう使う?これまでの俺のすべての経験と技を使って、この窮地を乗り切るんだ。



肚は決まった。


一気に決める。大事なのはテンポ。そのためには奴を一度たりとも挟み損ねてはならない。俺は軽く呼吸を整えた。



行くぞ。


げうざ、げうざ、げうざ、げうざ、ビール、げうざ。



4回連続のげうざは厳しい。2回連続のところで舌に痺れが生じ、ビールに手が伸びかけたが、プロとしての自覚がそれを押しとどめた。


俺は最後の一つを呑み込んだ。最後の最後まで奴の肉汁は恐ろしく熱かった。この勝負にかける奴の意気込みが伝わってくるような、そんな熱さだ。


大将は目を丸くしている。アンタがこの道に入って何年たつか知らんが、この早業は見たことがないだろう。


俺だっていつもこの早業ができるわけじゃない。今日に合わせてすべての体調管理を行って万全を期してこその、この奇跡の連続技だ。


今日の勝負は俺の優勢勝ちと言うところか。いつもならもっと、げうざとビールの味のハーモニーを楽しむ余裕もあるんだが、さすがに今年最終戦。奴はそんな余裕を与えてはくれなかった。


でも、俺は今日の勝負にはとても満足している。30年以上たっても向上心を忘れない奴の勝負への厳しい姿勢、それに冷静に対処して、無事に勝ちを収めた俺のプロとしての自覚。


大勝負を終え、俺はようやく水を口にした。氷の入った冷たい水も死闘を繰り広げた舌をすぐに癒すことはできない。舌の痛みが奴との戦いの激しさを物語っている。


大将がこっちを見ている。しかし、何もしゃべらない。いや、しゃべれないんだ。


アンタもこの店じゃ、年間何千何万という試合を目の当たりにしたんだろう。


しかし、自分で言うのもおこがましいが、間違いなくこの試合が今年のベストバウトだ。


アンタもいいものを見たな。本音を言えばこちらが金をもらいたいぐらいだが、気にするな。ちょっと遅くなったが、俺と奴からのクリスマスプレゼントだ。


「ほひほうはま。ほひひかったほ」舌がうまく動かなくて、言葉がきちんと話せない。しかし、そんなことは関係ない。男同志の戦いに言葉はいらない。それが証拠に大将が俺を見る目、あれは、あこがれのプロ野球選手を眼の前にした野球少年の目だったぜ。


今年の試合はすべて終わった。


やった。俺はやったんだ。すべての力を出し切って、奴との勝負に勝った。


その内容もお互いの勝負に対する姿勢も申し分のないものだった。お蔭で正月は碌なものを食べられそうにない。


しかし、それもプロとしての宿命だ。次の勝負は年明け、負けられない勝負であることは言うまでもない。

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