4階からプロポーズ
合宿から2週間が経った。
哲也は、あれからもちょくちょく皐月にメールをしてくる。
新しい演劇部のコーチの話だとか、居酒屋のおもしろいお客さんの話だとか、他愛もない話ばかりで、婚姻届については一切触れてこない。
その件に関しては、皐月の気持ちを待つつもりらしい。皐月も、メールには一言二言のそっけない返事をするのみだった。
合宿最終日に受け取った婚姻届。
『夫になる人』の欄には漏れなく記入され、印鑑まで押されていた。さすがに証人は書かれていなかったが、いざとなれば頼める友人はいる。皐月が記入さえすれば、提出できる状態だ。
『本気の証』と哲也は言った。それを信じていいのか、皐月はずっと悩んでいた。
仕事をしていれば気がまぎれるが、休みの日に家に一人でいるとつい考えてしまう。
哲也に会って聞けばいい。本当に本気なんですか、と。
ただ、哲也を前にしてそれを聞けるのか、その返事を聞いたら自分はどうするのか、考えがまとまらず、思考が出口なしの迷路をさまよっているようだった。
気晴らしに外に出ようと、電車に乗って出かける。大きな本屋がある駅で降りる。
現実逃避には本屋はもってこいだ。楽しく、明るい本の世界に入りたい、できれば恋愛要素はない方向で。
暑い日差しを浴びながら、本屋に向かって信号を渡る。夏休み中のせいか、平日なのに若い子たちがたくさん歩いていた。
皐月はその人ごみの中から、知っている顔を見つけた。
哲也だ。
皐月の前5mほどを同じ方向に歩いている。横顔が見えたので、間違いない。
まだ気持ちの整理がついていないままで会いたくないと、皐月はタイミングを見計らって離れようとする。
信号を渡り切り、哲也とは別の方向に行こうとした時、人ごみで見えなかった哲也の腕が見えた。
その腕を組んでいる、女性の姿が。
可愛らしい恰好をした女性と哲也は、何やら親しげに言葉を交わし、笑い合っている。その姿を見て、皐月は走ってその場を離れたのだった。
数日後、皐月は4階にある化学実験室で片付けと備品のチェックをしていた。汚れるので私服の上に白衣を着て、袖をまくりあげている。
窓を開け、冷房を入れずに作業していた。今は、過酷な空間で頭を使わない作業に没頭していたかった。
街で哲也と女性を見かけて以来、哲也のメールには返信していない。
何度か着信もあったが、当然出ていない。着信拒否にするほどの勇気もない。
本人に確かめればいい。何も、恋人だと決まったわけではないのだから。
よく妹だとか、友人だとか、ある話ではないか。
妹や友人が、あんな腕の組み方を、するわけない。
そもそも、哲也と付き合っているわけでもないのだから、何を気にする必要がある?
だって、記入済みの婚姻届をもらったのに。それってひどくないか?
キスだってしたのに。本気だって言ったのに。
全部、嘘だったの?
「あーもう!」
考えないようにしたいのに、頭の隅に追いやってもすぐに出てきてしまう。
今は目の前のことに集中しようと、皐月が気を取り直した時だった。
「こんな暑い中で作業して。また倒れたらどうするの」
「・・・澤部先生・・・どうして・・・?」
教室のドアに寄りかかるようにして、哲也が立っていた。
スタスタと教室の中に入って来る。
「だって皐月さん、急に返信くれなくなるし。電話も出てくれないし。様子が変だって聞いて」
「誰がそんなこと・・・」
「演劇部一同。ナリに『哲也先生、何したんですか?』って言われたよ。身に覚えはないんだけど」
そういうと、皐月の目の前に立ち、じっと目を見つめていった。
「俺、何かした?」
「別に、何も」
まっすぐな目を見ていられず、皐月は目をそらす。
「嘘」
「嘘じゃないです。何もない。・・・もともと、何もなかったんだから」
「・・・どういうこと?」
「どうもこうも、私と澤部先生の間には何もないんだから、先生がどこで何をしていようと私には関係ないってことです」
「関係ない、か」
哲也の視線が鋭くなる。
「関係ないでしょう?さ、部外者の方は出ていってください」
哲也は両手で皐月の両手首をつかみ、そのまま壁に押し付ける。
「何するんですか!」
「こっちのせりふですよ。どうして関係ないなんて言うかな。こっちは本気だって、何度も言っているのに」
「そんなの、信じられません!」
「どうして?」
「どうしてって・・・だって、澤部さん、付き合っている方がいるんでしょう?この前、見かけました」
「え?」
責めよう、追究しようと思っているのに、皐月の声はだんだん小さく、弱くなっていった。
「腕組んで、歩いてた・・・可愛らしい女の子と・・・」
「それ、俺?女の子?え?」
「澤部さんでした。横顔が見えたもん・・・」
「えっと、ちょっと待って、それ、いつの話?」
「この前の火曜日、です」
「・・・・・・ああ。あの人か」
「ほら、やっぱり」
「皐月さん、あの人はね」
「妹だとでもいうつもりですか?」
先手を打って皐月は言う。その手は効かないと。
「いや、俺の母親の妹。つまりおばさん」
哲也の一言に、皐月は戸惑う。
「おばさん・・・え、だって、ずいぶん可愛らしい恰好で、だから・・・」
「あー、おばさん聞いたら喜ぶぞ。俺の彼女に間違われたなんて言ったら」
「だって・・・でも・・・え・・・?」
哲也は皐月の手を離し、スマホを取り出して操作した。写真を1枚、皐月に見せる。
「この真ん中の人だろ?」
「この人、だ・・・」
写真には、3人の人が映っている。1人は哲也、もう1人は街で見た女の人・・・写真で見ると、歳がかなり上であるように思う。そしてもう1人は、さらに年上で哲也とどことなく似ている・・・哲也の母親だろうか。
「おばさんはね、だんなさんとけんかするといっつも俺のところ来て、憂さ晴らしに遊びに行くの。その時に目いっぱい若い格好して、ナンパされたり俺とカップルに見られたりすることを楽しんでるわけ。迷惑な話だよな」
皐月は思考がついて行かない。この数日悩んだのは、何だったのだろう。
呆けている皐月を見て、哲也は苦笑いしながら言った。
「こんなことになるなら、先に言っとけばよかったね」
「ごめんなさい・・・私、また裏切られたのかと・・・」
「え?」
「な、なんでもないですっ」
皐月は慌ててパタパタと手を振る。哲也には関係ないことだ。
「まあでも、初めておばさんに感謝したい感じかな」
「え・・・?」
「皐月さん、やきもち焼いてくれたんでしょ?」
「ち、違うっ。だって、あんな物くれたくせに他の女の子と会ってるなんて・・・」
「それがやきもちっていうんだよ、皐月さん」
「違いますっ!」
真っ赤になりながらそう叫ぶと、皐月は準備室に入り、ドアを閉め、鍵をかけた。
「皐月さん?」
「私はまだ仕事がありますので!これで失礼します!」
ドアの向こうから哲也の声がする。
「俺、まだ伝えたいことがあるんだけど」
皐月は準備室の床にうずくまる。もう頭の中がいっぱいいっぱいで、これ以上は容量オーバーだ。
「・・・皐月さん、元カレに浮気でもされた?」
「なんでそれを・・・!」
「あーやっぱり。初めて会った時から、なんとなくそうかなって。トラウマ抱えてそうだったから・・・」
哲也の言うとおりだった。
皐月は大学時代、一緒の学部だった男性に告白された。
気軽に声をかけてくれ、かなり積極的にアプローチをしてきた男性だった。皐月は、自分の貞操観念をあらかじめ話し、それでもいいなら、と答えた。男性は、「結婚したくなるまで、いつまででも待つよ」と言ってくれた。
その3日後には、彼は他の女子と付き合い始めたらしい。完全な二股だった。しかし、皐月はそれを知らなかった。知ったのは、付き合って4か月後。皐月の友人がその2人を見かけたからだった。
「待てないなら待てないって、断ってくれればよかったのに・・・。その4か月間、彼がくれた言葉やしてくれたことは、全部嘘だったってことでしょ・・・?もう、そんなこと嫌。怖い・・・」
ぽろぽろとこぼした弱音を、哲也はドアの向こうで聞いている。顔が見えないのが、せめてもの救いだった。
「皐月さん、みんながみんな、そんな酷いことするわけじゃないよ」
哲也の声は優しいが、皐月は受け止めきれない。
「そうかもしれないけど、だって、分からないもん・・・。特に、簡単に甘い言葉を言う人は、怖いの」
「俺は言葉にしないと伝わらないって思ってるから、何でも口に出してるの。好きだってことも、言わなきゃ伝わらないでしょ」
「それはそうだけど・・・」
「とにかく、皐月さん、出ておいで。ちゃんと顔見て話したい。まだ伝えてないことがあるんだ」
「・・・嫌。今日はもういろいろあって疲れちゃった。また今度にしてください」
「出てこないと、後悔することになるよ」
「出ていった方が後悔すると思う」
「そう。どうなっても知らないからね」
そう言うと、哲也がドアから離れた気配がした。帰るのだろうか。
少し胸が痛んだが、仕方がない。
哲也が誰かと付き合っていなかったことが分かっただけで、もう十分だった。
そう皐月が思っていると、突然、窓ガラスが震えるような大音量の声が、ドアの向こう側から聞こえてきた。
「俺は皐月さんが好きです!初めて会った時から好きでした!結婚してください!!!」
「な!何言ってるの!?」
つい準備室から出てきた皐月を見て、哲也はニヤリと笑った。
「まだ言ってなかったから。ちゃんと聞こえた?」
「聞こえたも何も・・・」
「で、どうでしょうか?お返事、いただけますか」
哲也の真剣な表情に、皐月は顔を下に向ける。
自分の気持ちは分かっている。言葉にして、伝えるだけだ。
「・・・私、澤部さんのこと、ほとんど知りません」
「うん」
「知らないのに、結婚なんて、できません・・・」
「では」
気を取り直すように、哲也が咳払いを1つし、向かい合う。
「結婚を前提に、お付き合いいただけますか、皐月さん」
「・・・・・・・・・はい」
かろうじて聞こえるくらい小さな声で答えると、哲也はそっと皐月を抱きしめた。
「俺のこと、これから知っていってよ。俺も、皐月さんのこと、もっと知りたい」
「・・・うん」
皐月も、おずおずと哲也の背中に腕を回し、少しだけ力を込める。
「つきましては、皐月さん」
「はい?」
「キスしていい?」
「なっ・・・!何聞いてるんですか!」
皐月は哲也の背中をぽかぽかと叩くが、哲也は悪びれもせずに言った。
「だって、舌噛んで死なれたら困るしー」
「噛みませんっ!」
「そう、なら安心」
そう言うと、哲也はいったん皐月を解放する。そっと皐月の肩に両手を置き、少しずつ顔を近づける。
「あ、ダメだ」
「え?」
哲也が言い終わった途端、
がらっ。
「何やってんですか哲也先生!」
「マーちゃーん、来るの早いぜこんにゃろー!!」
「え!万里君!?」
実験室のドアを開けて、万里が飛び込んできた。
哲也は万里の首に腕を回し、絞め技をしながら言う。
「あと10秒、いや5秒でいいから遅く来てもらいたかったなぁ先生はー!」
「し、知りませんよっ!いたたたた!」
「あーここにいたー」
「おいマー君、廊下は走っちゃだめだぞー」
「直子さん?武志君たちまで・・・どうしたの?」
演劇部員たちが次々と、教室に入ってきた。
「どうしたもこうしたも先生、さっきの哲也先生の声、部室まで届いてましたよ?」
義成の言葉に、皐月の顔が青くなる。
「演劇部の部室までってことは・・・」
演劇部の部室は1階の端。化学実験室は4階の反対の端。つまり・・・
「2階の職員室にも聞こえていたと思います」
義成の冷静な分析に、皐月は慌てる。
「澤部さん!あなた、何てこと・・・」
「だから出てこないと後悔するよって言ったのに」
まだ万里を絞めて遊んでいる哲也は、へらっと答え、部員たちにまじめに言う。
「いいかーお前ら!日ごろ鍛えた発声はこういう時に役立てるんだ!」
「はい先生!」
「慎君、いい返事しなくていいから!」
皐月がついツッコんでいると、校内放送のチャイムが鳴った。
『湯川先生、湯川先生、至急、職員室までお戻りください』
「呼び出し!?」
「あー、俺、そろそろバイトの時間だわ。じゃあね皐月さん。続きは今度ね」
「続きって何ですか!?」
目をキラキラさせて食いつくひなの迫力に押されつつ、
「なんでもないから!私は職員室に行くから、みんなも早く練習に戻りなさい!」
皐月は叫んで、化学実験室から全員追い出し、鍵をかけて慌てて職員室に戻った。
職員室では、出勤していた先生方がばっちり哲也の声を聞いていたらしく、皐月は夏季休暇中の校長の代わりに、副校長の前で弁明することになった。
劇の練習だ、手本を見せてもらっていただけだと皐月は言い張ったが、誰も信じていないのは明らかだった。
また、部活の練習等で、その時間に高校にいた生徒たちからうわさは広まり、皐月が学内でプロポーズされたことは周知の事実となってしまったのだった。