3日間の合宿ー初日ー
「わーいい天気!合宿日和だねー!さー行こう!」
部員たちよりも張り切っているのは哲也だ。何がそんなに嬉しいのか、満面の笑みである。哲也は現地集合でもいいと皐月は言ったのだが、「何言ってるの!家を出た瞬間から合宿は始まってるんだよ!」と分かるような分からないようなことを言われてしまった。
山犬峠までは電車で30分、そこからバスで15分だ。
皐月は臨時とはいえ顧問なので、引率に少し緊張していた。一人で引率なんて、したことがなかったのだ。
もう一人の大人である哲也は、完全に部員になじんでいる。大人の頭数には数えられないほどだ。無理矢理男子部員の間に座り、何事か話し込んでいるが、皐月からはその内容は聞こえなかった。
「ねえねえ、普段の皐月先生ってどんな感じ?」
「どんなって・・・2年生は授業を受け持ってもらってないから、あまり関わったことがないんですよ」
哲也の質問に義成が答える。慎も重ねて言った。
「哲也先生、それなら1年生の方がわかると思いますよ。おーい、タケ、マー君、こっち来いよ」
慎に呼ばれ、武志と万里が哲也の座っていた座席の方に来た。
「何ですか?」
「哲也先生が、湯川先生の普段の様子を知りたいそうだ」
「普段の様子っすか」
武志は考えるようなポーズを取った後、話し出した。
「うちの高校の教師陣の中では断トツに若いし、結構美人だから、俺たちが入学した当初はかなり噂になったんっすよ。でも授業を受けてみたら厳しくって、騒いでたやつらも減ったって感じですね」
「厳しいんだ?」
「ええ、まあ。考えようとしない生徒はビッシビシしごきます。でも、頑張って考えても分からなかったってときには、親切に問題を解説してくれてるかなー」
武志は情報を集めたり、人間観察をするのが好きなたちで、いろいろな人物をかなり良く見ている。
「マー君は何かないの?」
先輩である慎に促され、万里は少し考えた後、ぽつりと言った。
「実験の時の・・・白衣姿がかっこいいです」
「おお白衣!萌えるねー!」
哲也は一人で想像して盛り上がっている、が。
「そこ、車内では静かに!」
部員の誰よりも早く皐月に注意を受け、それ以降は静かにするように努力したのだった。
昼過ぎ、無事合宿所に着き、荷物を各部屋に置くと、ホールに集合した。
ホールと言うよりは小さなドームと言う感じで、球体の上半分だけの形をしていた。
そのため中に入って声を出すとよく響く。防音もそれなりにしっかりしているらしく、演劇の練習にはもってこいだった。
「よーし、じゃあ、まずはいつもの発声練習、それから滑舌の練習だ」
哲也が指導者らしく、指示を出す。部員たちは横一列に並び、発声練習を始めた。皐月が、持っていたノートにメモしていると、哲也がそれに気付いた。
「皐月先生?何書いてるの?」
「いつまた演劇部の顧問になるか分からないし、何事も勉強だから、記録しておこうと思って・・・」
「まじめだねー。えらいえらい」
ぽんぽん、と頭を撫でられる。
「私、先生なんですが」
「頑張り屋さんにはなでなでしてあげることにしてる。あ、ハグの方がよかった?」
「遠慮いたします」
近くにいると調子が狂うと感じ、皐月は哲也から距離を取った。
通常の発声練習が終わると、哲也が部員たちにプリントを配った。
「やったことある?」
「何度か・・・」
直子が答える。皐月が渡されたプリントを見ると、『外郎売り』と書かれていた。
「何ですか?これ」
「滑舌の練習によく使われるんだ。早い話が、早口言葉がいっぱい詰まった文章かな」
皐月の疑問に哲也が答え、お手本ね、と読み上げる。今までのおしゃべりとは違い、腹に響くような大音量で、一字一句間違えず、抑揚をつけはっきりと読んでいく。
さすがは本職・・・と、皐月も少し見直した。
「はい、じゃあ2年生3人で3分割、1年生は4分割して。今から5分後が本番です。みんなの前で一人ずつ読んでもらいます」
そう言った後、哲也がにやりと笑った。
「真剣にできるよう、3回言い間違えた人には罰ゲームをしてもらいまーす。好きな人の名前を大声で叫んでもらいましょう!」
部員たちはえー、や、ヒー、といった声を出しているが、哲也はその反応すら楽しんでいるようだ。
「哲也先生、好きな人が現在いない場合はどうしたらいいですか?」
義成が挙手して言うと、
「その場合は、この中で一番タイプの人の名前を叫んでもらいまーす」
「・・・そっちの方がいたたまれないな・・・」
誰かが呟くのが、皐月の耳に聞こえた。
5分後、2年生から順に、発表が始まった。皐月も5分間、一生懸命読んでみたが、すぐにつっかかってしまう。試しに一部抜き出してみたが、『きく、くり、きく、くり、みきくくり、あわせてきくくりむきくくり』だけでも言えなかった。
たった5分の練習でも、心なしか、舌が疲れたように感じる。
2年生はさすがに上級生の意地を見せたのか失敗は少なく、直子は0回、義成と慎は1回ずつだった。
1年生は、ひなが1回、今日子と武志が2回だったが、万里が3回間違えてしまった。
「さーてマー君、大音量で言っちゃってくださいな」
ニヤニヤが止まらない哲也が万里をつつく。
万里は大変嫌そうにしていた。皐月は罰ゲームはやり過ぎだろうと思い、止めるために椅子から立ち上がった。その時だった。
「・・・俺が・・・なのは・・・せいです・・・」
「ん?誰だって?」
哲也が煽る。万里が、きっと顔を上げた。
「俺が好きなのは、湯川先生です!」
一瞬、ホール内が静かになった。
「ほっほーお」
哲也が言い、万里の肩をがしっと組んだ。
万里にしか聞こえないよう、小声でささやく。
「いーい度胸してるなあマー君。いや、もう今日からお前はマーちゃんだ。マーちゃんと呼んでやる」
「どこの馬の骨だか分からないやつに、湯川先生は渡しません」
哲也と万里の間に見えない火花が飛んでいた。
他の部員たちは「マジかー」「なんかおもしろいことになってきたねー」「これ、そのまんま劇にできるんじゃない?」などと好き勝手言っている。
万里は哲也の腕を振り払い、そうっと皐月の方を見た。本人としても、こんな時に言うつもりはなかったらしい。皐月はと言うと・・・
「万里君、先生分かってるからね!本当に好きな人の名前言うと、後で大変だから、この中にいる一番影響が少ない人の名前言ったんだよね。急に自分の名前が出てきたから、先生びっくりしちゃった」
そう言って、カラカラと笑った。万里はがっくりうなだれ、それを見た部員たちは万里の肩に手を置きながら、「ナイスファイト」「頑張れ」「未来はまだある」と口々に声をかけたのだった。
合宿所の食堂で夕飯を食べ、その後もホールで練習をした。21時に解散となり、入浴後就寝となる。
皐月も部屋に着いているシャワーを軽く浴びた。顧問用に借りた部屋にはユニットバスがついていたのだ。部員たちは、食堂と同じ建物にある大浴場に行っているはずである。
濡れた髪をタオルで拭きながら、ノートを見て今日の練習を振り返る。まったく知らないことばかりだが、だからこそおもしろさを感じた。それに、部員たちが熱心によく着いて行っている。皐月なら、しり込みしてしまうような練習もあった。即興で、自分で役や状況を考えて演じることとか。
机の上に置いてあった携帯が震え、メールの着信を知らせる。見ると、哲也からだった。
『明日の練習内容について話したいので、ちょっと出てきてもらえる?』
いったい何だろうと思いつつ、髪を簡単に束ねて団子状にする。夏は首に髪がかかるだけで暑い。
部屋の鍵と貴重品だけ持って部屋を出ると、哲也が廊下の壁に寄りかかるようにして立っていた。哲也の部屋は、皐月の隣の隣だ。
「呼び出してごめんね、皐月さん」
「いいけど、明日のことって?」
「あーうん、今日は何も言わずに始めちゃったから、事前に言っておこうと思って。明日は午前の涼しいうちに外で体力づくりして、午後はまた演技系の練習にする予定。あと、明後日は午前中までは使えるんだっけ?」
「そう、部屋は引き払うから、荷物持ってホールに集合して、午前いっぱい。食堂でお昼食べて、解散です」
皐月は合宿の予定を頭の中で思い出しながら言う。
「分かった。じゃあ明後日は創作劇でもやるかな」
「用事は以上ですね?では、おやすみなさい」
電話でもよかったんじゃないかと思いつつ、皐月は自分の部屋に体を向けた。
「ううん、もう一つ」
哲也の声が聞こえ、いつかと同じように腕をつかまれた。遠心力でそのまま皐月の体は部屋と反対方向にぐるりと回り、いつ開けたのか哲也の部屋のドアの中に入っていた。
「・・・何ですか」
「この状況でそれ聞くの?皐月さん」
哲也が後ろ手にドアを閉める。
ドアの前に立たれているので、抜け出せそうにない。窓もついているが、あまり大きいものではない。通れなくもないだろうが、その前に捕まるだろう。
哲也が皐月に近づく。
「本当はね、ゆっくり行くつもりだったんだけど・・・思わぬ伏兵も出てきちゃったし、あまり悠長にしていられないかなって」
「伏兵?」
哲也がじりじりと近付いてくるため、皐月もじりじりと後ろに下がる。幸い、哲也がドアから離れている。うまく横をすり抜けられれば、外に出られる。
「皐月先生が結構モテるってこと。まさか高校生まで虜にしてるとは・・・」
昼間の万里のことを言っているらしい。
「あれは、罰ゲームだから仕方なく言ったんでしょ」
「うわ、本気にされてない。マーちゃんかわいそー。俺としてはありがたいけどね」
今だ、と皐月は哲也の横を走り過ぎた。ドアを開けようとして・・・
(鍵かかってる!?)
「やだなぁ皐月さんてば。鍵くらいかけるよ」
ドアノブをガチャガチャと動かしている皐月の方に哲也の腕が伸び、皐月を囲う。ドアと哲也の間に挟まれてしまった。
「皐月さん、シャワー浴びたの?いい匂いがする」
「ちょっ、何して・・・」
哲也との距離が近い。近すぎる。
「皐月さん、なかなかなびいてくれないんだもん。既成事実を作ってからってのもありかなって」
そう哲也が言うと、皐月のあごに手をかけ、上を向かせ、唇を重ねた。
「・・・!」
皐月はありったけの力を込めて、哲也の胸を押す。哲也がバランスを少し崩し、唇が離れた。
「皐月さん、強いなぁ。ま、夜は長いからね」
哲也は余裕そうだ。
皐月は哲也をにらんで言い放った。
「次キスしたら舌噛んで死んでやる」
いきなりの物騒なセリフに、哲也は呆気にとられたような顔をした。
2人はそのまま、しばし見つめ合う。皐月にとっては、『にらみつける』という表現の方が適切だったが。
「皐月さんなら、やりかねないね」
「当たり前でしょ、本気だもの」
にらみつけたまま、皐月は言う。本気だった。自分を守るためならば。
「昭和な貞操観念だね」
「放っといて。好きでもないやつに抱かれるくらいなら死ぬ。私は結婚する人にしか体を許さないって決めてるの」
世の中には体だけの関係をもつ男女もいるらしいが、皐月にはそれが信じられなかった。
人生でたった一人、それでいいではないか。ずっと一緒にいたいと思った人、その人とだけ関係をもてれば。
固いと言えば固いし、古くもあるが、ある意味では純情な考え方だった。
皐月の目をしばらく見つめた後、哲也はようやく雰囲気を緩めた。
「仕方ない、今夜は諦めますか」
「未来永劫諦めてくれるとありがたいんだけど」
「それはできないかな」
「私なんかより、周りに素敵な女性がたくさんいるでしょうに」
とりあえずの危機は回避したらしい。ドアの鍵を開け、皐月は廊下に出た。
「いないよ」
哲也がぽつりと漏らす。
「え?」
「皐月さん、俺が軽い気持ちでこういうことしてると思ってるでしょ。誰にでもしてるって」
確かに皐月は、そう思っていた。出会いからして、本気だとは思えない。遊び相手を探しているなら、別の人にしてほしいと。
「皐月さんだけだよ。こんなに本気になったの。そこは知っといてね」
じゃあおやすみ、と言って、哲也はドアを閉めた。
「だから何だっていうの・・・」
皐月は、今の言葉をどうとらえたらいいのか分からず、考えることをやめて、部屋のベッドにもぐりこんだ。
慣れないことだらけで疲れていたのか、横になると一瞬で深い眠りに落ちていった。