(三)
混沌とした表層意識。悪意に満ちた嵐が絶えず吹き荒れ、繰り返し悲しみをえぐりだし、吹き上げ、自暴自棄に堂々巡りを繰り返す。その直中を騎道は潜り抜けて、最深部を目指す。追いすがり押し返そうとする精神波を、一度受け止め、無力化して前進する。かわすだけでは、波動が育自身を傷付ける。すでに自己という認識も失っているのだ。
呻くように呟きが、騎道に届くようになった。
沈んでゆくほどに、周囲は生命力の輝きを失っていた。果てしない暗闇に向かっているようだった。
「僕なんか居ない方がいいんだ。……僕のせいで」
「育? 君は誰だ? 一体、誰の思考に染まっているんだ?」
錯乱している育に、騎道の声は届かない。
「僕が兄さんを死なせてしまったんだ……。上坂さんだって、何も悪いことをしていないのに……。僕は兄さんたちを守らなきゃって、思っただけなのに。僕のせいだから、僕がなんとかしなきゃ……そう思ったら。……あいつが出て来て……!」
「やめるんだ、育。考えるんじゃない。
それは君のことではないはずだ」
「兄さんたちは僕のせいで、苦しんで……。あいつのせいで……、僕があいつを……」
「育っ、目を覚ませ……!」
更に神経を尖らせても、苦悩する意識は全方向で反響して、真の居場所が掴めない。
「お兄ちゃんなんて、呼ぶな……!
僕の兄さんなんだぞっ! なんで火事の時に死ななかったんだよ! お前なんか只の邪魔者だ!!
お前さえいなければ……。お前が悪いんだ!
……お前だってバケモノなのに。消えろよっ!」
気違いじみた罵声。この育は誰かに囚われている。
「数磨君……なのか……?」
騎道は、否定したいと願った。
光輝だけでなく、秋津数磨は上坂にも手を下していた……。
心電図は穏やかな波形を造り、まだ育が薬で抑えられていることを示している。しかし、全ての拘束力を解除した今、大きな変化が現れるのは時間の問題である。
育の狂気が完全に覚醒するまでの時間に、真実の育の意識に巡り合い、引き戻さなければならない。
一瞬でも遅れたなら、狂気のハリケーンが外部へ向けて荒れ狂い、全てを育の中に注ぎ込んでいる騎道は、完全に無防備のまま、八つ裂きにされたとしても不思議はない。
オルソンは、肉体には意識が無いはずなのに、両膝をついた状態で倒れもしない騎道をじっと見守った。
彼等は、告げられた最善の手を尽くし終えていた。
誰かの意識と同化した為に、育は分裂状態になっている。
呼びかけても反応の無い育から離れて、更なる沈下を試みた。完全な暗闇になった奥に、微かな命の輝きを感じた。
騎道は近寄りすぎないように、停止した。
「お兄ちゃんなの? こーきお兄ちゃん? きどーお兄ちゃん?」
細い、極めて頼り無い声が騎道に流れ着く。
「さあ? どっちかな?
もっと近くに来て、よく見てごらんよ?」
ふわりと、一瞬育の姿が浮かび上がる。感情が高まった証拠だ。
「区別がつかないよ。ダメ……、近付かないでよ」
「近付いていないよ。よくごらん? 瞳の色が違うだろ?」
物事の表面を見て判断する能力が劣る育は、最初から騎道の本質を見透かしていた。力も髪の色も、瞳の色も。
「どんな色をしてる? 太陽の色? 山の色?」
「……お空の色だ……。 !」
身を乗り出す小さな輝きに、騎道は手を伸ばし包んだ。
「捕まえた……。迎えにきたよ。一緒に、帰ろう」
育は驚いて、ただ目を丸くして騎道を見上げた。騎道は微笑んでいる。帰ってもいいのだと、育は体の力を抜いた。
もう一人の騎道は、表層に最も近い部分で混乱している育と遭遇した。
『育? やめて! 育……!!』
ここでは、母親の叫びだけを繰り返している。嘆き続ける幼い少年の心は、血を流し、疲れきっていた。
「僕みたいに、お母さんを傷つけるバケモノは居ない方がいいんだ……」
何もかもを手放そうとする寂しさが、騎道に届く。
「それは違う! 絶対に違うんだ。
君は強い悪意を受けて、瞬間的に同化させられたんだ。お母さんは、君ではないものに怯えたんだ。断じて、君を嫌いになったわけじゃない。もう悲しまなくてもいいんだ。
お母さんは君を今でも愛してる。
君は君を否定した悪意に、負けてはいけないんだ!」
育は小さな肩を寄せていた。騎道の底知れないパワーが彼を引き戻し、魂に輪郭を与えた。だが、騎道の尽くせる手はそこまでである。もうあと一歩、そこから踏み出せばいいのに、それができるのは、育自身でしかない。
「沢山の人が君を待っているよ。悲しかったことは、忘れてしまうんだ。ほんの今だけ忘れて、ここにおいで?」
手を伸ばしても、育は首をすくめる。後退りをする。
苦しいのだろう。辛すぎて、母親の顔を見ることもできないだろう。自分のもつ力の恐ろしさを痛感させられたのだ。周囲が赤く燃えはじめていた。穏やかだった鼓動が早まっている。静かに、薄く残忍な笑みを浮かべた狂気が、背後に迫りつつあった。
もしも、手遅れになったなら。今度こそ育は、自分自身さえ死に至らせるだろう。後悔を抱えたままで。
「ここに来るんだ、育。苦しくて、辛くて、逃げだしたいだろう? でも……! 逃げても何もならない!」
わかってほしい……。残酷な願いだとよく分かっている。
騎道は、自分の中に湧き上がる絶望を抑え付けた。
「……お兄ちゃん……? 泣いてるの……?」
「……育、一人で勝手に行くんじゃない……。みんながそんなの許さないからな……。統磨さんみたいに、勝手な真似……」
「……泣かないで……? 泣かないでよ、お兄ちゃん?」
騎道の堅く握り締めた手に、小さな手が重なる感触。向かい合って、黒い大きな瞳が、騎道を見上げている。
「忘れるよ? 僕、忘れる。だから、泣かないで?」
ワスレル。一言がまるで呪文のようだった。じりじりと肌を焼くほどだった悪意が、嘘のように晴れていった。
二度と手放すことのないように、騎道は育を引き寄せた。
「一つだけ聞かせてくれないか。君は統磨さんの為に、あのアパートの火事の寸前に、自分で心を閉ざしたんだね?」
「うん……。お兄ちゃんが大好きだから……。そうした方がいいと思った。
お兄ちゃんが大好きなあの人、泣いてたの。大きいお兄ちゃんを助けたいからって」
火事当夜の記憶が蘇る。幸江が家を空けたのを見計らったように、一人の少年が育の部屋に上がってきた。
『君には消えてもらえ。兄のことを、一言でも漏らしてほしくないんだ』
『……大好き、なんでしょう?』
彼は、脈絡のない10歳の子供の言葉に怯んだ。
『誰の、ことを……』
『お兄ちゃんが、大好き……。僕も、大好き……』
育は、人差し指で自分をさした。
『……違う。私は……、家の為に……』
『……大好き……』
育は、虚ろく畳に倒れていった。考えもしなかった事態に、彼は狼狽し、その場を飛び出した。いずれアパートが炎に包まれるなら結果は同じことだと、手を下さずに。
「だから僕ね。自分でそうしなきゃって……」
騎道はぎゅっと育を抱き締めた。
「ごめんよ。育君。
僕は……、統磨さんを救えなかったよ……」
悔いても失ったものは戻らない。騎道は絶えず承知して、後悔を追い払ってきたのに、無垢にされた精神の力場では、自分をごまかすことができなかった。
「ねえ、お兄ちゃん? 秋津のお兄ちゃん、笑ってたね?」
精神だけで交流する二人は、記憶さえも共有できる。
「あ……、ああ。……笑ってた」
「……良かったね」
暖かくて清浄な風が彼等を包み込んでいた。
「うん……。そうだね」
騎道が知るはずもない。彼の肉体は、涙を流していた。