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(二)

 それは、白昼に起きた。

 幸江は記憶の断片を手繰って、あれが何だったのか、思い出そうとした。

 あの時の寸前に、電話の向こうの彩子が、誰かに受話器を手渡した。育はその何者かの声に耳を傾け始めた。

 ここまでの記憶は鮮明だった。その先が、彼女には信じられない。母親としては、忘れ去りたいものだった。

 彼女にとって、最も悲劇的な一瞬が、唯一最愛の存在から放たれたのである。

「育! ……やめて…………!」

 母と子の間に、取り返せない亀裂を生んだ。修復できるのは、もう一人の育の理解者。騎道をおいて他にはない。

「すぐに連絡を入れますよ。安心してゆっくり休みなさい」

 頭を動かすこともできずに、病室の天井を見据えながら、幸江は血を吐く思いで『速く来て……』と祈っていた。

 10月18日、月曜日の深夜のことである。



 富士の麓には、広大な緑の魔境と呼ばれる樹海がある。その、人を拒絶しながらも魅了する、深い緑の砦の手前に、景観を損なわないよう配慮された広大な施設が存在した。世界的にも知名度の高い総合企業FISの研究所の一つ。数あるラボの中でも、重要度、機密性が屈指と噂される施設であった。

 全体の50パーセントが居住区で、育たち親子はここに住まいし、機密保持上外へ出ることはない。残りは研究施設となっているが、やはり機密保持等の観点から、建物は三つの棟に別れていた。

 現在もっとも研究員の密度が高い場所が、処置治療棟である。その原因が、一人の十歳になった少年だった。

 集中管理室Aに通された騎道に、言い訳のように主治医と名乗る、やや憔悴した面持ちの壮年の男が告げた。

「催眠暗示にもかからないんです。精神が昂ったままで」

 騎道は目を疑っていた。信じ難かった。

「あなた方は、これでもエキスパートなんですか!?」

 声を荒げる騎道に、部屋中の研究員が顔を上げた。

 部外者に対する、険悪な気配が漂う。

「彼の拘束を解いて下さい。今すぐに!」

 冷ややかな反応を受けて、騎道はすぐさま行動した。ためらわず、隣室へ続くドアへ駆け寄りノブを回す。

「! ここを開けて下さい」

 騎道は背後を振り返ろうとはしない。ドアのガラス越しに、ベッドに横たえられたままの少年だけを見つめていた。

 十歳を過ぎた、まだ人間社会との正常なコミュニケーションを持たない少年。このラボで救われるために、彼は自分で選んで、ここに来たのだ。なのに……!

「……こうするより、他に手段が無いんです」

 育の主治医は、もう一度細い声で断言した。

「なぜですか!? 彼が何をしたと?

 あの点滴が何かくらい、僕にもわかりますよ。あれは微量なモルヒネだ。意識をクスリで拡散させて、更に身体を厳重に拘束して。室内には、対ESP電磁波ですね。

 育君の身体には、負担が強すぎるレベルだと、わかっていてこうしているんですか!?」

 騎道が最後に見た少年の頬は、少なくとも幸福な桜色をしていた。うなだれて力の無い育の頬は、異常なまでの興奮状態を示す朱色に染まっていた。

「詳しい経緯を説明しますよ。とにかく彼の母親に会って下さい。そうすれば、君もあれが納得できるでしょう」

 ここの副主任でもあり、育の担当であるオルソンは、主治医に代わって釈明した。彼自身も、尽くす手のない沈痛をこらえていた。

 騎道は、とても込み上げる怒りを隠し切れなかった。

 ひとまず、騎道は集中治療室を後にした。広い連絡通路に出るなり、彼は小さな子供たちに取り囲まれた。

「育を助けて。お兄ちゃんしかできる人が居ないって」

「育のお母さんが言ってるよ。速く来てって」

「泣いてるの、育。早くここに連れて来て」

「帰れなくなっちゃうよぉ」

 泣き出す子も出る始末。十数人の子供たちは、口々に育が……、と騎道に訴える。いつしか胸の怒りが変質していた。

「大丈夫。ちゃんと連れてくるよ。みんなまた、育と仲良くしてくれるね?」

 子供たちは素直にうなずきを返す。彼等は、それぞれ特質は異なっているが、育と同じ存在である。異能者。サイキックな力を秘めた、それゆえに現代社会と不適応な子供たちだった。

 このラボは、サイキックを専門に研究する施設である。

 恐らく世界でも最高水準の。それでも、加納育の変貌には、お手上げの状態であった。



「騎道さん、来てくださったんですね……」

 目を見張る騎道を見上げ、幸江は涙を浮かべた。

 彼女は絶対安静の重傷を負っていた。鎖骨に一ヶ所、肋骨は二ヶ所骨折。その上、全身強打という状態であった。

 見えない巨大な手に、床に叩き付けられたのである。

「……生まれて初めて、あの子を恐ろしいと思いました。

 でもそれは、ほんの一瞬だったんです。なのに、育は感じ取ってしまって……。

 私はあの子の母親なのに、取り返しのつかないことをしたんです。こんな目に遭うのは、当然ですわ……」

「何か間違いが起きたんです。自分を責めないで下さい。

 育君が、お母さんを傷付けたいと思うはずがない」

「ええ。あれは育の意思ではありません。それだけは言えます。あの時の育は、私の育ではなかったんです。

 でも……、私を弾き飛ばした後は、あの子なんです。

 オルソン先生から聞きました。

 今の育は、ひどく苦しんで、荒れて、自棄になってしまって……。きっと私に、見捨てられたと思っているんですわ」

 自分が母親を、生命に危険があるほどの怪我を負わせてしまった悔い。後悔が、小さな育を混乱させていた。

「今の育は、とても危険な存在となっている。

 今まで君が触れてきた加納育という意識は、彼の精神の奥深くに閉じこもっているんだ。

 精神感応を得意とするスタッフの中でも、特に優秀な者でさえ、彼の正常な精神に辿り着くことは出来なかった。

 逆に、育の表層意識を占めている、おぞましい諸々の悪意に攻撃され、ダメージを受けている。

 精神体だけでなく、外部へも彼は手加減のない攻撃を仕掛けたよ。まるで小さなハリケーンだった……」

 オルソンは、幸江の病室から、育が最初に変化した育親子の部屋へと、騎道を案内した。

 天井も高く、広いワンルームである。だが、室内は異様な状態だった。複雑に砕けたソファの残骸が散乱し、本棚、サイドボード、丸テーブルといったすべてのものが破壊され、原型をほとんど止めてはいなかった。

 見る者の背筋を寒くさせるのは、絨毯に点在する、赤黒い染みだった。育の錯乱の犠牲者は、母である幸江一人ではなかったのだ。当のオルソンも右腕に裂傷を受けていた。

「麻酔ガスを使って一時は沈静化することができた。だが、数分で効力を無くして、彼は暴走した。本能的な自己防衛のために、新陳代謝が異常に活性化されていたらしい。

 今の状態は止む無くとった処置なのだ」

 騎道は黙ったまま、先に部屋を出た。

「他に有効な手段があるのなら、教えてもらいたい。あれしか我々には方法が無かったんだ。この先どうすればいいのかも、正直言ってわからない」

「……このまま、育が衰弱しきって、命を救うことさえ手遅れになるまで、あなた方には何もできないでしょうね」

 追いかけるオルソンの足が止まる。

「育をすべての拘束から解放して、僕を彼の側に行かせてもらえれば十分です」

「危険なことだよ。君だと、感じる余地もないんだ。自己の精神に内向して、それ以外を全て排除しようとする反射的行動しかみられないんだ」

 騎道の厳しい言葉に、オルソンは腹も立てずに騎道を諭す。

 公平な人だと、騎道は感じた。オルソンのように力強く柔軟な精神の人物が、育には最も必要だったのだ。まるで父親のように、受け止める人間が。

「育君を連れ戻せるか、僕にも自信はありません。

 でも、あなた方が最善を尽くしたように、僕も持てる全てを賭けます」

 騎道は左手で、額にかかる前髪をかきあげた。額に冷たい汗が滲んでいた。身体はまだ完全ではない。

 オルソンが騎道の状態を知っているなら、騎道がどう言い張っても引き止めているはずだ。専門家の鋭い観察眼をかわすために、騎道は足を早めた。

「……もう誰も失いたくないんです」

 つぶやく騎道の声の重さに、オルソンは引き止める言葉を失っていた。



 研究員たちは、先程とはやや様相を変化させていた。騎道の姿に、期待する視線を向ける者も現れている。

「育君の拘束のロックを解除して下さい。ドアのキーも」

 博士らしき、一人の壮年の男性が進み出た。

「我々に協力してくれるのなら、我々のやり方に従ってもらいたい。それがここのルールだ」

 騎道はじっと、彼を見返した。

「君がどういう人間か、噂ではあるが今聞いたよ。

 君のように優れた能力者の協力は大歓迎だ。だが、すぐに動き出す前に踏まなければならない段階がある。君の力は、彼を必要以上に触発してしまう可能性もあるのだ」

 オルソンに言ったことを、繰り返す気は起きなかった。言っても無駄である。博士に迎合する一人は、警備室に電話をかけている。対ESP用に厳しく訓練された彼等につまみ出されるか、力づくでここから追い出されるか?

 どちらにしろ、頭の堅い人間と争っていいことは何もないし、彼らは彼等なりにここでの義務に縛られての発言だ。

 主治医が、賛同して立ち上がった。

「博士のおっしゃる通りだよ。もう少し様子を見て、徐々に君には手を貸してもらいたい。我々は君を中心に、これから特別チームを編成して、プログラムを立てて……、!」

 その場の全員の視線を、瞬時に騎道は集めていた。彼は左手で眼鏡を外し、手近な机に乗せた。

「たしか、セクションEのシークレットボックス№3に、僕のデータが入っているはずですよ。噂だけでなく、そちらら当たっていただければ、これから僕が何をするか、多少は正確に理解していただけると思いますが」

 超常現象を専門にする人間ばかりのはずだが、彼等は唖然と目を剥いていた。

 彼等が注視する少年は、明らかに変貌している。艶やかだった黒髪は、今は蜜色の金色に。瞳は、鋭い意志を秘めて、物静かな湖のたたえる蒼であった。

「なっ……!」

 若い研究員が、隔離室内を見つめて絶句した。確かめるように、とっさに騎道を振り返って。

「最低限の機材以外の電源をすべてカットしてください。バックファイヤを起こして、この部屋の正常なマシンも破壊するかもしれません。それと、他の能力者をこの建物からすべて退去させて下さい。どうなるか僕にもわかりません。彼の思念に、感応してしまう恐れがあります」

 丁寧に、だが強い威圧感をもって、騎道は語り出した。

 逸早く状況を把握し、誰かが呟いた。

「……バイロケーションか……!?」

 彼等は同一の人間を同じ視界の中で、二人目撃している。

「無茶をするな。騎道君!」

 声を上げるオルソン。突然の事態に彼も動転した。

 こちらの騎道は、オルソンに少し笑った。厳しい表情に戻ると、隔離室をコントロールする操作卓に歩み寄った。

「とめるんだ、彼を。すぐに!」

「まって下さい! 今の彼に介入したら、騎道君の方が危険です。……すでに、かなりの緊張状態に居るんです……」

 騎道はためらわずキーを叩き、育を拘束している金属の腕のロックを解除した。知ってるのではなく、瞬時に、キーに残留しているオペレーターの思考を読んだのである。

 拘束も解かれ、対ESP波も停止した。セキュリティライトはオールグリーン。彼は顔を上げ、ガラスの向こうの、育の側にたたずむもう一人の自分に、うなずいた。

 意志を得たように、点滴の針が床に転がり落ちる。額と、心拍数を読み取る為に、つけられた電極以外も、同じように育から離れていった。

「……噂以上だ……、すぐに彼のデータを……!」

 今更それが何の意味をもつだろう。オルソンは、あわてふためく同僚を冷めた目で眺めた。

 同じ時間に同じ人間が、それぞれ別の場所に姿を現す。この現象をバイロケーションと呼ぶ。この能力者は数少なく、詳しい研究が待たれている状況ではあるが、現実に存在する現象であると認められてはいた。

 こちらの騎道は、他人の手を拒むように、操作卓に両手をついて守っている。協力を指示しながら、期待はしていないのだ。騎道は単独ですべてを行う覚悟をしている。

 駆けつけた警備員が、騎道の肩に手を掛けた。

「彼の言う通りにしたまえ」

 振り返ると、一人の男性が戸口に立っていた。

「雪村社長!」

 抗議の意味を込めた声が上がる。が、オルソンは助かったと安堵していた。彼は警備員に帰るように告げた。

「何をしている! すぐに他の部屋の子供たちを避難させなさい」

 雪村紫月は一喝で彼等を黙らせると、騎道の元へと歩み寄った。FISのトップに君臨して二十数年。中年期に入ったが、彼の動きは青年の頃とほとんど変わらない。俊敏で知性に満ちて、包み込む強さを滲ませていた。

「聞こえるかい? 紫月だ。何をすればいいのか言ってくれ。その通りにする。君を引き止めたりはしないよ」

 半ば深い放心状態に入っている騎道に、彼らしい豊かな表情は浮かばない。言葉の意味と感情は伝わったのか、騎道は身体を起こして、隣へ通じるドアへ向かった。

 ほんの数歩の間に、騎道は一同に言葉ではない手段で、紫月の問いに答えた。正確なテレパシーであった。

「……全員で、かかってくれ」

 紫月は、ドアを突き抜けてゆく騎道の背中を見送りながら、そう命じた。

「彼をご存知なんですか?」

「よく知っているよ。私の生涯のライバルの懐刀なのだがね、私は彼が気に入っている」

 オルソンは、紫月の思い入れの深さを感じた。

「その保護者が心配していた通り、無茶をする少年だ……」

 歩んでゆく騎道は、ベッド脇に膝をつく彼自身さえも擦り抜けて、育の上に覆い被さるようにして消えた。





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