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ハインリヒ達と共に屋敷に戻ったコハクは、その日の仕事を免除され、すぐに自室へ下がることを許された。部屋に入ったコハクは、外套を脱ぐ気力もなく、そのままぐったりと寝台に倒れ込んでしまった。
「これからどうしよう………?」
ぼんやりと天井を見上げ、コハクは誰へともなく呟いた。今はまだ体に何の変化もないが、いずれは赤子の成長と共に腹が膨らみ始める。このまま妊娠を隠し通すことは不可能である。ならば、医師の助言に従い、ハインリヒに気づかれる前に子供を堕胎させる?
そうすれば、これからもハインリヒの側で暮らしていけるだろうか。しかし、ほんの小さな胎児とはいえ、ダンピールは恐るべき魔物だ。そう簡単に殺されてくれるとは思えない。
「……………」
無意識の内に腹部を庇い、仰向けに寝ていたコハクは、そっと子宮の真上に両手を置いてみた。まだ膨らみもしないそこに、今のところ特に違和感は感じられず、己が妊娠しているなど嘘のようだった。本当にここにハインリヒの子供が宿っているのだろうか。
「ねえ、そこにいるの?」
そっと、呼びかけてみた。返事など、あるはずもないのに。
『かあさま』
不意に、どこからともなく幼い子供の声が聞こえ、コハクはぎょっとした。慌てて起き上がり、室内を見回すものの、もちろん他の誰かがいるはずもない。
『ここだよ、かあさま。ここにいるよ』
「―――っ!」
声が外からではなく、頭の中に直接響いている。コハクはまさかと思い、恐る恐る腹を撫でてみると、きゃらきゃらと楽しそうな笑い声が上がり、子宮の辺りがじわりと温かくなった。
「うそ………」
何ということだろう。まだ生まれてもいないのに、この子にはすでに確かな意思がある。人間ではありえない異常な事態に、胎内に宿る小さな生命が紛うことなき魔物なのだと改めて思い知らされ、コハクはぞっとした。
―――その時だった。
コンコンと控えめなノックの音が響き、コハクはぎくりと硬直した。
「僕です。中に入っても大丈夫ですか?」
セバスチャンだ。コハクは急いで居住まいを正し、動揺を押し隠して「どうぞ」と返事をすると、扉の隙間から包帯まみれの顔がひょいと現れた。
「コハク、具合はどうですか?」
「今は何ともないわ。心配をかけてごめんなさい」
寝台の端に腰を下ろしたコハクは、腹部を隠すように腕を前に回し、ぎこちなく笑って見せた。その答えにほっとした笑みを浮かべたセバスチャンは、コハクの膝の上に小さな器とスプーンを載せた銀盆を置いた。
「君の好きなバニラプリンだよ」
「わあ」
蓋を開けると、おいしそうな甘い香りがふわりと広がる。セバスチャン特製のそれはコハクの大好物であり、たびたび頼んで作ってもらっていたものである。
「これを食べて、早く元気になってくださいね。君がいないと、旦那様が不機嫌で困ります」
そんなはずはないと思うが、セバスチャンは至って真面目な顔で頷いている。コハクは苦笑しながら、スプーンを口に運ぶ。甘さが控えめで、とても美味しい。
『おいしいね、かあさま』
再び幼い声が響き、コハクはぎくりと硬直してセバスチャンを見た。しかし、セバスチャンは不思議そうに首を傾げただけで、どうやら何も聞こえていないようである。
「どうかしました?」
「な、何でもない。プリン、とても美味しかったわ。ありがとう」
「どういたしまして。今日はゆっくり休んでくださいね」
セバスチャンは優しく微笑み、銀盆を持って部屋を出て行った。その背中を笑顔で見送りながら、コハクは罪悪感で息が詰まりそうになる。心から自分を心配してくれる人を騙していると思うと、胸が痛くてたまらない。一人部屋に残されたコハクは、再び寝台の上へ横たわり、胎児のように膝を抱えた。
『どうしたの、かあさま? どこかいたいの?』
―――ああ。
聞きたくないのに。耳を塞いでも、頭の中に木霊する子供の声からは逃れられない。ぎゅっと目を閉じて、必死に聞こえないふりをしていると、子供は今にも泣き出しそうな声でぽつりと呟いた。
『かあさまは、ぼくがきらいなの………?』
―――ぼく?
この子は男の子なのか。コハクは頭の中で子供の姿を想像した。ハインリヒによく似た黒髪と、紅の瞳を持ち合わせた美しい子供。まるでハインリヒの生き写しのような幼子が、天使のように愛らしく微笑み、呆然と立ちつくすコハクの元に駆け寄って来る。縋るように伸ばされたその小さな手を振り払い、あまつさえ、息の根を止めることが、果たしてコハクに出来るだろうか?
「………できない」
コハクは呆気なく観念した。無理だ。コハクには殺せない。愛しいハインリヒの血を引く子供の命を、無惨に奪うことなどできるはずがない。
「ごめん………ごめんね………」
『かあさま………?』
コハクは泣いた。例えほんの一時でも、慈しむべき我が子に殺意を抱いてしまった自分が許せなくて。
「ヒスイ」
『え?』
「決めたわ。あなたの名前よ」
『ぼくの、なまえ?』
「そう。あなたはヒスイ」
『………ぼくは、きえなくてもいいの?』
不安げに囁かれた言葉に胸が痛んだ。子供は母親の心理に敏感なのだ。コハクは精一杯優しく微笑み、我が子を安心させるように何度も腹を撫でた。
「もちろんよ。わたしがあなたを守ってあげる」
例え、ハインリヒの側を離れることになっても。