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月夜の恋人  作者: 咲良
第一部
3/24

3

 コハクがハインリヒ=ノーブルロットと初めて出会ったのは、今から二年前。両親を事故で亡くし 、路頭に迷っていたところを拾われたのだ。それからずっと、彼の元でメイド兼食料として家畜のように飼い慣らされている。その事に嫌悪感はない。人間だとて牛や豚を飼育して食べる。ハインリヒの場合、その対象が人間に変わるだけで、何も不自然な事はないのだ。そう思えるようになるまで長い時間を要したが、今では納得している。そうでなければ生きていけなかった。弱者は強者に従う。それが世界の理なのだから。

 ―――ガシャン!

 水気を拭いていた皿が手元を滑り落ち、床の上で粉々に砕けた。

「大丈夫ですか、コハク?」

 コハクがショックから立ち直るより早く、隣で食器を洗っていた執事のセバスチャンが、灰色の髪を揺らして手元を覗き込んできた。

「ごめんなさい。ちょっとぼんやりしてしまって………」

 しゃがんで欠片を拾おうとしたコハクの手を、セバスチャンが慌てて制止する。

「僕が片付けますから、コハクは食器の残りを洗ってください」

「駄目よ。わたしが割ったんだもの。自分でやるわ」

「いいえ。もし君が怪我でもしたら、すぐに血の臭いを嗅ぎつけた旦那様が飛んできて、喜んで君を連れ去ってしまうでしょう? 余計に仕事がたまって、困るのはこの僕だ」

 セバスチャンは唇を尖らせ、拗ねた子供のようについとそっぽを向く。つい先日、コハクが丸一日仕事を休んだ事を、まだ根に持っているようだ。コハクはくすりと苦笑した。

「今夜は大丈夫よ。『お客様』が来ているもの」

 今、ハインリヒの寝室には若い女がいる。彼が街で拐かして来た人間だ。と言っても、悲鳴を上げて抵抗する者を、無理矢理引きずってきたわけではない。吸血鬼の眼差しには魔力がある。その美しい紅の瞳でひたと見つめるだけで、無力な人間は容易く彼らの手に堕ちてしまう。そして、命さえも喜んで投げ出すほどの従順な下僕となるのだ。

(わたしのように―――)

 ちくりとコハクの胸が痛んだ。ハインリヒに対するコハクの想いも、おそらくは操られたものなのだろう。それでも構わないと思っている。そうでなければ、捕食者に恋い焦がれる己の心に理屈をつける事ができなかった。

 今宵の女は特に美しかった。眩い金髪と、青く透き通った瞳。白く豊かな肢体。そのどれも持たない貧相なコハクが出る幕はない。日々貧血に悩まされているコハクにとって嬉しいことである反面、今頃ハインリヒが他の女の首筋に牙を沈めているかと思うと、嫉妬で気が狂いそうになる。

「コハク」

 名を呼ばれ、コハクは我に返った。セバスチャンがじっとこちらを見ていた。いや、実際は何も見えていないはずだ。セバスチャンの両目には、白い包帯が幾重にも巻かれている。セバスチャンは盲目だ。ハインリヒと血の契約を結ぶ際に、忠誠の証として両目を捧げたのだという。元は人間であったセバスチャンは、ハインリヒから血を与えられて吸血鬼となり、自ら彼の支配に下ったのだ。

「セバスチャン?」

 暗い心を隠して首を傾げると、セバスチャンは包帯に覆われた目で何かを見透かすようにコハクを見つめた後、くすりと意味深に微笑んだ。

「後で、君が好きなクッキーを焼いてあげます」

「それは嬉しいけど………どうしたの、急に?」

「別に、何となくですよ」

 そう言って、セバスチャンはコハクの頭を慰めるように撫でた。完全に子供扱いである。コハクは体の発育はすこぶる悪いが、つい先日成人を迎えたばかりの十六歳だ。もう歴とした大人であるというのに、セバスチャンはいつまでもコハクを赤ん坊のように思っているらしい。けれど、まるで兄が妹に向けるようなセバスチャンの優しさが、コハクは決して嫌ではなかった。

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