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そこは都の中心近く、多くの貴族達が屋敷を構える閑静な住宅街。その中でも一際豪奢な建物を見上げ、ハインリヒは鋭い目を細めた。固く閉ざされた漆黒の門には、見覚えのある白薔薇が屋敷を守るように蔦を絡みつかせている。
「―――開けろ」
門番は見当たらない。だが、ハインリヒが抑揚のない声で命じると、すぐにギイと重い音を立てて独りでに門が開き、突然の訪問者を玄関へと無言で誘い込む。どうやら歓迎されているらしい。ハインリヒは長い外套の裾を翻し、躊躇なく歩き出した。目指すべき場所は分かっている。誰もいない廊下を進んで行くにつれ、独特の臭いが鼻をつく。血だ。それも大量の。知らずハインリヒの足取りは速まっていき、やがて駆けるようにして辿り着いた先は屋敷の最奥。
「……………」
ハインリヒは扉の前で立ち止まると、片足を振り上げて容赦なく蹴破った。鍵が掛けられていなかった扉はいともたやすく開放され、室内の様子が明らかになる。広い部屋の中心に置かれたソファに、月のように美しい銀髪の男が悠然と腰掛けていた。男は突然の侵入者に動じることもなく、にこりと無邪気に微笑んでみせる。
「やあ、ノーブルロット卿。久しぶりだね。僕からのプレゼントは気に入ってくれたかい?」
「―――――」
ハインリヒは男の言葉を無視して、密かに息を飲んだ。コハクが居た。男の膝の上に頭を預け、目を閉じて仰向けに横たわっている。白薔薇を思わせる純白のドレスを着せられたコハクは、生気のない顔で静かに睫毛を伏せたまま、ぴくりとも動かない。その胸元が、赤く染まっている。
―――まさか。
「………セシル=メルロー」
地を這うような冷たい声で名を呼ばれ、男―――セシルは小首を傾げてくすりと笑った。
「久々に会ったのに、そんな怖い顔しないでよ。心配しなくても、眠らせてるだけ。きっと楽しい夢を見ているはずさ」
セシルはハインリヒと同質の紅い瞳を猫のように細め、長い指をぺろりと舐めた。その手が赤黒く染まっている。手だけではない。白く煌めく銀髪も、凄艶なる薄い唇も、青ざめた首筋も、見事な刺繍を施した藍色の衣裳も、本来の色が分からなくなるほど血でべっとりと濡れている。それらからしたたり落ちたものが、コハクの白い胸を赤く汚しているのだった。『食事』を終えた後であるということは一目瞭然である。セシルの足下には、無惨に食い散らかされた数人の女達が片付けられぬままに無造作に転がっていた。
「それにしても………」
セシルは頬にかかった髪を掻き上げ、ふふと愉快そうに笑みを零した。
「君が人間の女にご執心という噂は本当だったんだね。そんなにこの子が大事なら、箱に入れて特別にしまっておくことだよ。黄昏時に一人歩きなんかさせるから、子供に化けた悪い吸血鬼に拐かされるんだ」
セシルは血まみれの手で眠るコハクの頬を撫で、「怖かったよねえ?」と耳元で優しく囁いた。次の瞬間、目にもとまらぬ速さで闇が蠢く。
「―――触るな」
ハインリヒが低く呟き、ごとりと鈍い音を立てて何かが床に転がり落ちた。
「………おやおや」
セシルは目を瞠り、おどけたように両手を挙げて見せた。右手首の上から先がなくなり、だらだらと大量の血が止めどなく溢れ出している。その膝の上には、最早コハクの姿はない。ハインリヒはセシルの血に濡れた手とは逆の手で、未だ意識が戻らないコハクを抱き上げ、出口へと歩き出した。セシルは追いかけてくるつもりはないらしく、ソファから立ち上がる素振りも見せない。
「―――そうそう、君に礼を言わなくちゃ。僕がしばらく眠っている間に、ツェリルが随分と世話になったようだからね」
ふいに背後からかけられた言葉に、扉をくぐろうとしていたハインリヒは足を止めて振り返った。セシルは白い骨が見えている腕の断面を舐めながら、にやりと厭らしい笑みを浮かべる。
「母親に似てとんでもないあばずれだったけど、僕にとってはあれでも可愛い娘だったんだよ。これは、その仕返し」
「………貴様」
ハインリヒはセシルの邪悪な笑顔を睨みつけ、無意識のうちに腕の中のコハクを強く抱き寄せていた。セシルがあははと狂ったような笑い声を上げる。ハインリヒはそれ以上一言も発することはなく、眠り続けるコハクを連れてセシルの屋敷を後にした。




