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月夜の恋人  作者: 咲良
続編
20/24

白薔薇の夜・1

 刻は黄昏。

 いつものエプロンドレスの上に厚手のショールを羽織ったコハクは、バスケットを片手に一人森の中を歩いていた。

「早く帰らないと………」

 血のように赤く染まった夕空を見上げ、ぽつりと呟く。

 急に熱を出して寝込んでしまったヒスイのために、街へ薬を買い求めに出かけたのだが、思いの外時間がかかってしまった。ぐずぐずしている間に、ハインリヒが目覚める時刻がすぐそこまで迫ってきている。

 ハインリヒの眠りは深く、コハクが棺の蓋を開けなければ起きることはまずない。だが、ごく稀に自ら目を覚ます夜もあり、その時にコハクの姿が側になかった場合、なぜかハインリヒの機嫌が急降下するのだ。

「―――っ」

 過去に受けたおぞましい仕打ちを思い出し、コハクはぶるりと身震いして、屋敷へ向かう足をさらに速めた。

 ノーブルロット邸は人里から隠れるように深い森の奥にある。コハクは滅多に外の世界へ出ることはないが、たまに外出するときは決まってセバスチャンが供としてついて来てくれる。

 だが、今回は例外が起きた。セバスチャンは先日、ふとしたことでハインリヒの怒りを買い、無惨にも足を折られてしまったのだ。骨はすぐに繋がったものの、さすがにしばらくは自由に歩けないらしく、いまだ杖を手放せない状態にある。

 それでも足を引きずりながらついてこようとした心配性のセバスチャンを何とか押しとどめ、一人屋敷を出てきたコハクだったが、日が落ちかけた人気のない道を進むのはやはり心細い。

 ショールを胸元でかき合わせ、不安を紛らわすために深呼吸をしようとした、そのときだった。

「ねえ、君」

 不意に、少年の声。

 転ばないよう、足場の悪い地面を見つめていたコハクは、ぎくりとして顔を上げた。立ちすくむコハクの数歩前に、一人の美しい少年が佇んでいた。

 年の頃は十をわずかに超えるほどで、ヒスイよりいくらか年上に見える。少し癖のある銀色の髪。蝋のように白い肌。どきりとするような紅い唇。未発達の華奢な体に、深い藍色の貴族的な衣裳を纏っている。

 そして、コハクが何より注目したのは、彼の瞳の色が鮮やかな真紅であるということ。それは、少年がハインリヒの同族であることを示していた。

「君がノーブルロット卿に仕えるメイドかい?」

「………」

 コハクは返答に迷い、結局肯定も否定もしなかった。だが、少年はすでに答えを知っているらしく、黙り込むコハクに構わず話を続けた。

「僕はセシル。セシル=メルロー。君のご主人様の古い友人だよ」

 セシルと名乗った少年は、にこりと無邪気に微笑み、一歩前に進み出た。コハクは思わず後退る。幼い子供の姿をしているとは言え、決して侮ってはならない。吸血鬼は姿形や性別さえも自在に変幻させることが出来る。ハインリヒと旧知であるというならなおさら、同じように永い時を生きてきた恐るべき魔物である可能性が高い。

 ―――逃げなければ。

 コハクの中の本能がそう告げていた。急いで踵を返し、駆け出そうとした時には遅かった。体の自由が奪われて、身動きが取れない。声さえ封じられ、助けを呼ぶことも許されない。

「大人しくしててね。良い子だから」

 歌うような声だった。セシルは恐怖で震えるコハクを眺めながら、ゆったりと近づいてきた。あどけない顔立ちに、妖艶な笑みが浮かぶ。それを目にしたが最後、コハクの意識は闇に飲まれた。

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