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ふわりと頬を優しく撫でられ、コハクは目を覚ました。起き上がろうとして、体が思うように動かない事に気づく。
「しばらく横になっていろ」
頭上から、声。見上げると、闇色の衣装を身に纏ったハインリヒが、棺桶の縁にゆったりと腰掛けて、横たわるコハクを見つめていた。
「血を奪いすぎた。すぐには動けまい」
―――ああ。
先程までの出来事を瞬時に思い出し、コハクは後悔のあまり頭を抱えたくなった。ハインリヒがもたらす強烈な快楽に飲み込まれ、情けなくも意識を飛ばしたのだ。自身を見下ろすと、汚れた体は清められ、恐れ多くもハインリヒが身につけていた夜着を着せられている。首筋には丁寧に包帯が巻かれており、傷の手当てもされている。全てハインリヒの手によるものだろう。主人の寝床を占領し、あまつさえ世話をしてもらうなど、メイドとして失格である。己のしでかした不始末に青ざめたコハクは、思い通りにならない体を強引に起こした。
「申し訳ありません。今すぐ仕事に戻りますから………あ」
勢いよく立ち上がろうとして、くらりと目眩に襲われる。そのまま倒れそうになったところを、素早く差し伸べられた大きな手に支えられた。
「愚か者め。お前は私の言うことが聞けないのか?」
ハインリヒは腕の中にコハクを抱き寄せながら、苛立った声で言った。
「いえ、その、旦那様………」
「今日はずっとここにいろ。何もしなくて良い」
「でも、それではセバスチャンが困ります」
セバスチャンとは執事の名だ。ノーブルロット邸の敷地は広大である。にも関わらず、使用人はメイドであるコハクと彼の二人だけしか存在しない。掃除や洗濯、庭の手入れに食事の支度。他にも仕事は山のようにあるというのに、ぼんやり休んでいる暇はない。そうコハクが訴えると、ハインリヒは柳眉を顰め、至極不機嫌そうな眼差しでコハクを睨んだ。
「コハク。お前は主人の言葉よりも、執事を優先するのか?」
「いえ、そういう意味では………」
「ならば、私の言うことを聞け。命令だ」
命令。そんな風に言われてしまえば、コハクは服従せざるを得ない。ハインリヒに肩を押され、コハクは躊躇いながらも大人しく棺桶に横たわった。噎せ返るような薔薇の香りと、濃厚な血臭が鼻をつく。ここで幾度もハインリヒに翻弄され、時にはその腕に抱かれて夜明けまで眠りに落ちた事もある。コハクにとって、ここは特別な場所。
「眠れ」
額に口づけを贈られ、コハクは内心どきりとする。ハインリヒはコハクを玩具のように弄んだかと思えば、こうして気まぐれに恋人を甘やかすような優しさを見せる。そのたびに、コハクは勘違いをしてしまいそうになる。ハインリヒにとって、コハクは飢えを満たすためのただの家畜でしかないのに―――。
(それでも、構わないの)
コハクは心の中でそっと呟いた。ハインリヒの側にいるためなら、血でも体でも差し出せる。きっと、殺されても幸せだ。そう。愚かな事に、コハクは恋をしているのだ。この美しく残酷な吸血鬼に。
―――今は、何も考えたくない。
ハインリヒのいつになく穏やかな視線を感じながら、コハクは静かに目を閉じた。