密会
深夜。コハクはヒスイと二人で厨房にいた。辺りには砂糖とバターの甘い香りが漂っている。
「ねえねえ、まだ? 母さま」
ヒスイはオーブンの前にしゃがみ込み、そわそわと落ち着かない様子で側に立つコハクを見上げる。メイド服の上に真っ白なエプロンをつけたコハクは、くすりと微笑んだ。
「待って、もうすぐ焼き上がるわ。ほら」
オーブンがチンと軽やかな音を立て、火が止まる。コハクはヒスイを離れさせ、火傷をしないよう慎重に扉を開けて鉄板を取りだした。色とりどりのドライフルーツが乗ったクッキーがこんがりと焼けている。ヒスイが横から覗き込み、わあっと無邪気な声を上げた。
「おいしそう!」
「ふふ。皿に乗せて、お茶にしましょうね」
「うん。僕、ポットを出してくる」
たたっと軽い足取りで食器棚へと駆け寄っていくヒスイ。その小さな背中を穏やかに見つめながら、コハクは無意識に脇腹を撫でていた。怪我はすっかり完治し、今では痛みも全くない。不思議なことに、あれからずっとハインリヒの機嫌が良いままで、ヒスイの姿を見かけても無闇に嬲ることはなくなった。それでもコハクはなるべく二人を会わせないように注意し、ハインリヒが夜の狩りに出かけた後、こうしてヒスイを部屋から連れ出して過ごしているのだった。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
二人は食堂に移動し、並んで席に着いた。ヒスイはお行儀よく椅子に座り、まだ温かいクッキーを口に入れた。
「おいしい!」
「良かった」
コハクは微笑み、自分も一つ摘んでかじった。ほどよく甘くておいしい。レシピはセバスチャンから教わったものだ。今夜は彼もハインリヒと共に出かけていて屋敷にはいない。おそらく夜明け前まで戻ってこないだろう。親子二人きりで過ごせることはなかなかないため、コハクはこの貴重な時間を大いに楽しんでいた。
「ねえ、母さま」
ふと、ヒスイがクッキーを食べる手を止めてコハクを見た。
「なあに?」
「膝に乗っても良い?」
「良いわよ」
コハクは椅子を引き、腕を広げた。ヒスイはパッと目を輝かせてコハクの膝の上によじ登り、ぎゅっと抱きついてきた。
「ふふ、甘えん坊ね」
「大好き、母さま」
「わたしも、ヒスイが好きよ」
さらりと癖のない黒髪を撫でてやりながら言うと、ヒスイは嬉しそうに微笑み、コハクの胸にすり寄った。コハクはヒスイを抱きしめ、白い額へと唇を寄せた。そのときだった。
「わあっ」
不意に、ヒスイが声を上げ、膝の上から重みが消えた。驚いて振り返ると、すぐ後ろに漆黒の外套を纏ったハインリヒが、至極不機嫌そうな顔で立っていた。
―――いつのまに。
絹の手袋に包まれた優雅な手が、まるで子猫のようにヒスイの襟首を掴み上げていた。しまった。今夜はやけに帰りが早い。青ざめたコハクが腰を上げる前に、ハインリヒはヒスイをぽいっと床に放り投げた。
「ヒスイ!」
コハクは慌てて立ち上がり、咄嗟に伸ばした手を横から掴まれた。そのままぐいと引き寄せられ、唇が塞がれる。
「ん―――!」
驚きに目を瞠るコハクの耳に、「若様!」と駆け寄ってくるセバスチャンの声が背後から聞こえた。けれど、振り返ることは許されない。突然の行為に戸惑い、コハクが逃げようとすればするほどハインリヒの舌は執拗に追いかけてくる。最後にぺろりと唇を舐められ、体を離されたときには手足に力が入らず、コハクは真っ赤な顔でその場にへたり込んだ。
「これは、私の物だ」
しっとりと艶を帯びた声が、挑むように告げた。その視線の先にいるのは、セバスチャンに抱き起こされ、床の上に座り込んでいるヒスイ。目の前で濃厚な行為を見せつけられた幼子は、ぽかんと呆気にとられた顔で父である男を見上げた。
「分かったな? ―――ヒスイ」
初めて息子の名を呼んだハインリヒは、どこか満足げな笑みを浮かべ、呆然とする三人を残して姿を消した。