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「あっ」
―――どん!
背中から床に倒れ込んだコハクは、怪我をした腹を抱えて蹲った。痛い。けれど、それでも良い。どんなに無惨な殺し方でも構わない。生きて見放されるくらいならば、どうかこのまま、ハインリヒの手で息の根を止めて欲しい。暗い期待に満ちた眼差しで見上げれば、ハインリヒは優雅に足を組んだまま、無様に転がるコハクを氷のような瞳で見下ろした。
「見捨てる………? それは、お前の方だろう」
ハインリヒは肘掛けに頬杖をつき、怜悧な声で詰るように言った。
「やはり、最初に殺しておくべきだった。お前は、いつでもあれに手を差し伸べる。この私よりも」
「え………?」
コハクはハインリヒの足下に這いつくばったまま、きょとんと瞬いた。あれ、とはヒスイの事だろうか。ふと、どこか聞き覚えのある問いかけだと思った。十日前、コハクがヒスイを庇って気絶する寸前。ヒスイが大切な息子であると訴えたコハクに対し、ハインリヒは低い声で問うたのだ。『私よりもか』、と。その時のハインリヒはまるで母親に見捨てられた幼子のような、何とも言えない表情を浮かべていた。今と同じように。
―――まさか。
コハクはようやくその事実に辿り着き、頬が熱くなるのを感じた。けれど、いや、そんなはずはない。まさか、ハインリヒがヒスイに嫉妬しているだなんて。
「旦那様」
「あれを連れて、どこへなりと消えるが良い。お前達を見ていると、この手でずたずたに引き裂いてやりたくなる」
「―――っ」
コハクは胸に沸き上がった衝動のまま、ハインリヒに抱きついていた。その白い首筋に縋りつき、離すまいと強く胸に抱きしめる。コハク自らハインリヒに手を伸ばしたのは、これが初めてだった。慣れない感覚に、鼓動が早鐘を打つ。
「………コハク」
抑揚のない声が名を呼ぶ。すぐに突き飛ばされるかと思ったが、意外にもそうはならなかった。ハインリヒは浅く呼吸を止めたまま、コハクの腕の中でじっとしている。
「いいえ、いいえ………わたしは、どこにも行きません。行けません。たとえ死体になっても、旦那様のお側にいます。だって、わたしは―――」
―――自分の気持ちに素直になりなさい。
ふと、セバスチャンの言葉が頭に浮かぶ。今しかないと思った。
「わたしは、この世の誰よりも、あなたが愛おしいのです」
「嘘だ」
コハクの一世一代の告白を、ハインリヒはいとも容易く否定した。その表情を見るのがおそろしくて、ハインリヒの肩に顔を埋めたまま、コハクは首を振る。
「いいえ。本当です。わたしは、心から旦那様のことを―――」
「ならば、なぜあれに笑いかけ、あれのために泣く? あまつさえ、血を与えるなど―――お前の全ては、私の物であるのに」
コハクは顔を上げ、恐る恐るハインリヒを見下ろした。両手をだらりと降ろし、コハクの腕の中で大人しくしているハインリヒが、どこか拗ねたような顔をして横を向いているのが信じられない。それはまるで、お気に入りの玩具を取り上げられたときのヒスイにそっくりで。コハクは思わず微笑み、白皙の頬にそっと触れた。
「ヒスイは、大切な息子です。わたしにとって、かけがえのない愛し子。ですが―――」
コハクの言葉に、ハインリヒが不快げに顔を歪める。コハクはこくりと息を飲み、固く引き結ばれた紅い唇に己のそれをそっと重ね、離れた。
「―――こんなことをするのは、旦那様だけです」
ハインリヒはぴくりと眉を上げ、不服そうにコハクを見上げた。
「………あれにもしている」
「それは、意味が全然違います」
コハクは困ったように笑った。確かに、寝る前のおやすみのキスや、先程扉の外でしたような額への口づけは日常的にある。けれど、それは我が子への親愛の証であって、ハインリヒと交わすような濃厚なものではありえない。
「―――」
だから、再び口づけ、畏れ多くも、自ら舌を絡ませた。わざと鋭い牙に舌先を這わせ、血を流す。最初はされるがままだったハインリヒが、いつの間にかコハクの腰を引き寄せ、唇の端からこぼれ落ちた血を舌で追いかける。二人の体はずるりと崩れ落ち、コハクはソファの上に仰向けになった。両手首を掴まれ、顔の横に縫い止められる。結われていない艶やかな黒髪が、上から雨のように降り注ぎ、コハクの視界は出口のない暗闇に包まれた。主導権を奪われ、荒い息を吐く。
「………子供と、こんなことはしません」
「本当か?」
血の恍惚に濡れた赤い瞳が、疑うように細められた。冷たい手が太ももをなぞり、コハクの内に眠る快楽をじわじわと呼び覚ましていく。久しぶりの感覚にコハクの体は抵抗を忘れ、手足から力が抜けた。
「あ………」
「あれは、ここに触れていないのか?」
「なっ」
コハクはぎょっとし、閉じかけていた瞼を開いてハインリヒを見た。
「あ、当たり前です! ヒスイは、血の繋がった息子、ですもの」
「………? 人間の考えることは、よく分からない」
ハインリヒは心底不思議そうに呟いた。魔物の間には禁忌などないのだろう。親兄弟との交わりも珍しくないのかも知れない。ハインリヒが血を分けた我が子に対して、そんな心配をしていたとは思いもしなかった。
「痛っ………!」
その時、コハクは思わず悲鳴を上げた。ハインリヒは動きを止め、ばつの悪い顔で口を押さえるコハクをじっと見下ろす。大きく足を抱えられ、腹部が圧迫されたのだ。思いがけずハインリヒの真意を知った喜びのあまり、コハクは怪我の存在をすっかり忘れてしまっていた。
「………」
ハインリヒは無言で、未だきっちり留められたままであるコハクの胸元に手を掛けた。慣れた手つきで釦を外していくと、徐々に幾重にも巻かれた白い包帯が現れる。強い打撲で青黒く変色した皮膚が、そこから少しはみ出しているのが見えた。
「痛むのか」
「あ………」
コハクは咄嗟に首を振り、ハインリヒの胸にすり寄った。行為を止めて欲しくなかったからだ。この時のコハクは、後から考えても信じられないほど自分の欲求に素直だった。
「え………?」
ふいに、体が浮いた。かと思うと、上体を起こしたハインリヒの膝に抱き上げられていた。そのままゆっくりと体を下ろされ、コハクは大きく息を飲む。
「やっ………!」
急激に訪れた快楽に、コハクは目が眩んだ。力が抜けて背後から倒れそうになったところを、しなやかな腕が引き止める。抱き寄せられ、広い肩に額を預けたコハクは、ほうと安堵の息を吐く。いつからだろう。かつては恐怖と絶望しか感じなかったこの瞬間に、安らぎと幸福を見出すようになったのは。
「お前の主は、私だ。つまり、お前は、お前自身のものではない。全て、この私のもの。例え、血の一滴さえ、他人にくれてやることは許さない」
耳元で囁かれる傲慢な言葉とは裏腹に、コハクの手を取り、その細い指先にうっとりと口づける動作は恭しくさえあった。燃えるように熱い舌先が、今も微かに残る幼い牙の痕を消し去るようになぞる。
「分かったな………?」
血と闇を閉じ込めた邪悪な瞳が、コハクを見つめ、艶やかに問う。答えなど、最初から決まっている。優しく、乱暴に乱されながら、コハクは何度も頷いた。
「………はい、ハインリヒさま」
おわり