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それから十日が過ぎた。久々にエプロンドレスを身につけたコハクは、ヒスイと共にハインリヒの部屋の前に立っていた。
「本当に行くの………? 母さま」
不安げに揺れる大きな瞳に見上げられ、コハクは困ったように微笑んだ。
「もちろん。旦那様を起こすのは、わたしの役目だもの」
言いながら、コハクはそっと自分の脇腹を撫でた。服の下には、今も白い包帯がきつく巻かれている。怪我はまだ癒えていない。セバスチャンの見立てでは、完治まで一ヶ月ほどかかるとのことだったが、激痛で動けなかったのは最初の数日だけで、痛みは徐々に和らぎ、すぐにベッドから起き上がれるようになった。今では呼吸の度にかすかな痛みを覚えるものの、日常生活にほとんど支障はない。心配性のセバスチャンは、完治するまで仕事には戻らなくて良いと言ってくれたが、ただでさえ人手が足りずに駆け回っている彼に、これ以上負担をかけるわけにはいかない。それに、どうやらここ数日、ハインリヒの機嫌がすこぶる悪いらしく、コハクの代わりに彼の身の回りの世話をしているセバスチャンが、日増しに傷だらけになっていく姿を見ていられなかった。
「母さま、痛むの………?」
心配そうな声がして、コハクはハッと我に返った。腹部を押さえたまま黙り込んだコハクを、ヒスイが不安げに見上げている。
「平気よ、ちょっとぼんやりしただけ」
コハクは慌てて笑顔を取り繕ったが、ヒスイはますます表情を曇らせてしまった。透けるように白く小さな手が、コハクのエプロンの裾を縋るようにきゅっと掴む。
「ねえ、母さまが行くことないよ。今までみたいに、セバスに任せようよ」
「そんなわけにはいかないわ。ほら、母さまは一人で大丈夫だから、あなたは戻ってセバスチャンの手伝いをして」
「でも………」
「大丈夫。ね?」
「………分かった」
「良い子ね」
コハクはヒスイの頭を撫で、額と頬に優しくキスをした。ヒスイは今にも泣き出しそうな顔で頷き、何度も振り返りながらその場を去っていく。
「………ふう」
小さな背中が見えなくなってから、コハクは小さくため息をついた。あの出来事以来、ヒスイはコハクの側から片時も離れようとしなくなり、ますますハインリヒを嫌悪するようになった。それはハインリヒも同様で、今までは何かにつけてヒスイを虐げてばかりいたが、近頃は視線さえ合わさず、まるで最初から居ないもののように振る舞っているという。ベッドでセバスチャンから聞かされた事実に、コハクはただひたすら胸を痛ませていた。元々希薄だった親子の関係がより儚いものとなり、その原因が自分にあることを、コハクは心から悔いていた。
「―――旦那様、コハクです」
コハクは扉をノックし、部屋の中に呼びかけた。予想通り、返事はない。コハクはあれから一度もハインリヒに会っていない。同じ屋敷内とは言え、これほど長い間ハインリヒの側を離れたのは久しぶりだ。一体、どんな顔をして会えばいいのだろうか。コハクは少し躊躇った後、扉を開けて中へ入った。
いつもは固く閉ざされているカーテンが開き、銀色の月光が室内を静かに満たしている。常よりも明るい部屋の中、コハクはすぐにハインリヒの姿を見つけることが出来た。ハインリヒは白い夜着のまま、窓辺に寄せられたソファにゆったりと腰掛けていた。コハクの存在に気づいているはずなのに、その気怠げな眼差しは月夜を見上げ、時が止まったように動かない。久しぶりに目にしたその横顔は、月の光を浴びて不気味なほど美しく、まるで現実感がない。その赤い瞳にうっとりと見つめられ、氷のような唇に幾度も口づけられたことがあるはずなのに。
「旦那様―――?」
「消えろ」
冷たい声で短く切り捨てられ、コハクは息を飲んだ。呆然と立ちすくむコハクを、ハインリヒは決して振り返ろうとはしない。こんなことは初めてだった。ハインリヒはいつも、コハクの目を射抜くように見る。相手の意思を絡め取り、支配するために。だから、コハクはハインリヒにじっと見つめられると、すぐに何も考えられなくなり、いとも容易く自分を差し出してしまうのだ。そして、それはコハクの望むところでもあった。それなのに………。
「出て行け。もう二度と、私の前に姿を見せるな」
「―――っ」
凍りついたようにその場から動けないコハクを、ハインリヒの冷ややかな声がさらに追い詰める。いつかはこんな日が来ると思っていた。なぜ、とは思わない。ハインリヒに飼われるようになってから、早五年以上の月日が過ぎている。常に死と隣り合わせの生活の中で、コハクが今日まで生きてこられたのは、ハインリヒのほんの気まぐれに過ぎない。いつ飽きられて殺されてもおかしくはなかったし、それでも構わないと思っていた。コハクには最早、ハインリヒのいない生活など考えられなかったから。
「………いや、です」
だから、コハクはハインリヒの怒りを覚悟して、拒否の言葉を口にした。ハインリヒの側を離れるくらいなら、いっそこの場で命を奪われた方がましだと思った。ハインリヒがゆっくりと振り返り、コハクはごくりと息を飲む。わずかに乱れた前髪の間から覗くその瞳には、コハクが予想していた憤りの色はなく、ただ静かで、空虚だった。
「ハインリヒ、さま」
震える声でその名を呼ぶ。コハクは勇気を出して、一歩前に踏み出した。すぐ目の前まで歩み寄っても、ハインリヒは何も言わなかった。コハクは胸の前で祈るように指を組み、ハインリヒの足下に跪いた。
「お願いします。何でもしますから、どうか、わたしを見捨てないでください。旦那様のお側を離れたら、わたし………どうやって生きていけばいいのか分かりません」
コハクは今にも泣き出しそうな顔で、縋るようにハインリヒを見上げた。肘掛けに頬杖をついたハインリヒはゆっくりと瞬きをし、次の瞬間、コハクの肩を強く蹴飛ばした。