3
目が覚めると、コハクは自室のベッドの上にいた。
「気がつきましたか?」
穏やかな声がして、視線をずらすと、包帯まみれの顔の男がこちらを見下ろしている。
「セバスチャン………」
「動かないで。肋骨に罅が入っているようですから」
―――肋骨。罅。
「………っ」
ハインリヒから受けた仕打ちを思い出し、コハクはぶるりと身を震わせた。恐る恐る自分の体を見下ろすと、セバスチャンが手当をしてくれたのか、夜着のくつろいだ胸元から、胴全体に幾重にも巻かれた包帯が見えた。
「ヒスイは………?」
「そこに」
セバスチャンは部屋の隅の椅子を指さした。その上に、毛布にくるまれたヒスイが足を抱えて座り込んでいる。どうやら眠っているらしく、膝の上に顔を伏せたまま、ぴくりとも動かない。
「部屋に戻って休むように言ったのですが、君が目覚めるまでは死んでも動かないと」
「まあ………」
いつもと変わらずそこにある我が子の姿を確認し、コハクは心から安堵のため息をついた。怪我をするのがヒスイではなくて本当に良かったと思う。
「それにしても無茶をする………。一歩間違えれば、君は今頃どうなっていたことか」
「………でも、それでヒスイが助かるなら、わたしは後悔しないわ」
例え、殺されることになっても。コハクは薄く微笑んだ。愛しい主の手にかかって死んだコハクはきっと幸せだ。しかし、セバスチャンは眉を顰め、いつになく真剣な声で言った。
「………コハク。君は、もっと自分を大切にすべきです。君は、君が思っている以上に価値のある存在だ。そんな風に容易く投げ出して良いものではない。特に旦那様にとって君は、今やかけがえのない女性なのだから」
「え………?」
きょとんと瞬くコハクを見下ろし、セバスチャンは腰に手を当てて呆れたようにため息をついた。
「全く………旦那様も言葉が足りないけれど、君も鈍すぎます。コハク、君はもっと貪欲になって良い」
「………意味がよく、分からないのだけど」
コハクが戸惑いの表情を浮かべていると、すっと伸びてきた大きな手が、右の頬に優しく触れた。
「もっと自分に自信を持ちなさい。君はとても可愛いし、魅力的だ。思わずその首筋に噛みつきたくなるくらいに」
ちらりと白い牙を覗かせて、セバスチャンは妖しく微笑んだ。彼の見えないはずの目が、コハクの喉元をじっと見つめているのを感じる。コハクは頬を赤らめた。
「………からかわないで」
「おや、僕は本気ですよ? こんなことを言ったと知られれば、旦那様に八つ裂きにされてしまうでしょうが」
セバスチャンはコハクから手を放し、先程のどこか色めいたそれとは違う、優しい笑みを口元に浮かべた。
「もっと自分の気持ちに素直になりなさい。旦那様も、きっとそれを望んでいるはずですから」
「自分の、気持ち………?」
コハクはそっと胸に手を当てた。
―――ハインリヒが愛しい。
それはコハクの中で、もはや息をするように自然な感情だった。一度だけ、その想いを口にしたことがある。ヒスイを守るために屋敷から逃亡したコハクを、ハインリヒが迎えに来たときだ。それまでコハクはハインリヒへの想いを必死に隠し続けてきた。コハクの一途な気持ちなど、ハインリヒにとっては煩わしいだけだ。コハクは何一つハインリヒの負担になりたくなかった。そして何より、拒絶されるのが恐ろしかったのだ。けれど、思わず本心を口走ってしまったコハクを、ハインリヒは突き放すことなく、元通り側に侍ることを許してくれた。これ以上、一体何を望めるというのだろう………?
「―――とにかく、今は怪我を治す方が先です。仕事は全て僕に任せて、しばらくゆっくり休みなさい」
セバスチャンは諭すように言い、コハクに痛み止めの薬を飲ませた。その効果か、やがて耐え難いほどの眠気に襲われ、コハクは静かに目を閉じた。