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満月の夜。儚い銀色の月光が、ノーブルロット邸の庭を照らしている。屋敷内に飾るための薔薇を切り取っていたコハクは手を止め、ひっそりとため息を漏らした。
「どうしたの? 母さま」
コハクの足下にちょこんと座り込み、薔薇の棘を取り除いていたヒスイが不思議そうに首を傾げる。コハクは困ったように微笑み、手を差し伸べてヒスイを立たせた。
「………何でもないわ。さあ、そろそろ中に戻りましょう。旦那様がお帰りになる時間だわ」
ハインリヒは今夜も狩りへと出掛けている。旦那様、という言葉を耳にした途端、ヒスイは父親譲りの美しい顔を盛大にしかめた。
「あんな奴、放っておけばいいのに」
「まあ、“あんな奴”だなんて。旦那様をそんな風に言ってはだめよ」
コハクは小さく眉を顰め、主人に対する我が子の無礼な発言を窘めた。しかし、ヒスイは悪びれる様子もなく、あどけない頬を膨らませてぷいとそっぽを向く。
「………ぼく、あいつキライ。いつもいつも母さまに意地悪ばかりするんだもの。なのに、どうして母さまはあいつの側にいるの?」
「ヒスイ………」
コハクは言葉に詰まった。コハクがハインリヒに抱く、畏怖と愛情が混ざり合った複雑な感情を、幼いヒスイに説明することは難しい。話をごまかすように、夜風で乱れた黒髪をふわりと撫でてやると、白い額にうっすら浮かぶ赤い傷跡が目に入る。昨夜、ハインリヒによってつけられた傷だ。セバスチャンから血を貰い受け、一晩でほとんど完治したが、あと数日は痕が残るだろう。
「………ごめんね」
「どうして母さまが謝るの? 悪いのは全部あいつなのに」
ヒスイのその言葉を、コハクは即座に否定することができなかった。ハインリヒの言動は気まぐれで、そのほとんどがコハクの理解を超えている。それでも構わないと、コハクはハインリヒの側に侍ることを望んだけれど、その運命に無関係のヒスイを巻き込んでいいはずがない。このままではいけないと、分かっているのに。
「母さま、血が」
くいと手を引かれ、長い思考に沈んでいたコハクは我に返った。
「あ………」
考えることに夢中になるあまり、切り取ったばかりの薔薇を握りしめていたらしい。鈍い痛みと共に、指先から鮮血が溢れ出していた。ヒスイの紅い瞳が濃度を増し、うっとりと物欲しそうに潤むのが分かった。幼いながらも、血の味がもたらす恍惚を知っているのだ。
「噛んでは駄目よ」
コハクは菓子を与えるような気分で、ヒスイの口元に手を差し出した。ヒスイはぱっと目を輝かせ、コハクの指をぱくりと咥える。無邪気な小さい舌が、拙い動きで傷口の上を這う。ヒスイに血を与えるとき、ハインリヒがもたらす快楽とは全く別の、優しい気持ちがコハクの心を温かく満たしていく。
―――そのときだった。
「ヒスイ!」
コハクは叫び、咄嗟にヒスイを抱きかかえた。次の瞬間、脇腹を強く蹴り飛ばされ、腕に抱いたヒスイを必死で庇いながら、玩具のように地面に転がる。
「う、あ………」
あまりの激痛に息が出来ず、コハクは蹲ったまま小さく呻いた。霞む視界の先に、闇色の外套を纏ったハインリヒが立っている。いつからそこにいたのだろうか。ハインリヒは言葉もなく、今し方、その足で容赦なく蹴倒したコハクを、感情の読めない瞳で静かに見下ろしている。
「母さま!」
痛みで声も出ないコハクの代わりに、腕の中から這いだしたヒスイが悲鳴を上げる。一緒に地面を転がったときに擦ったのか、白い頬が少し赤くなっていたが、それ以外は無傷であるらしく、コハクはほっと安堵のため息をつく。ヒスイが無事ならば、それでいい。
「母さま、母さま、母さまっ」
「へいき、よ。ほら………泣かないで」
実際は、平気とはほど遠い。臓腑を抉るような鈍痛が全身に広がり、コハクは起き上がることさえできない。おそらく、骨が折れているのだろう。それでもヒスイを心配させまいと、顔を引きつらせながら微笑み、泣きじゃくる我が子の頬をそっと撫でた。
「なぜ、庇った」
地を這うような低い声が、すぐ上から降ってきた。恐る恐る視線を巡らせば、音もなく側にやって来ていたハインリヒが、寄り添うコハク達を、憤るわけでも嘲笑うわけでもなく、ただ無表情に見つめている。『庇う』ということは、やはりハインリヒの狙いはヒスイだったのだ。認めたくなかった現実を突きつけられ、コハクは悲しくて堪らなくなった。常に気配を感じさせないハインリヒの姿を、視界の端に見つけることができたのはほんの偶然。その凍えるように冷ややかな眼差しが、ヒスイに注がれていることに気づいた瞬間、体が勝手に動いていた。
「………この子は、たいせつな、わたしの息子です」
「私よりもか」
それは、意外すぎる問いかけだった。コハクは一瞬痛みを忘れて、呆然とハインリヒを見上げる。その、月さえ霞む美貌に浮かぶ、途方に暮れたような、どこか幼い表情は見間違いだろうか。ぼやける目を凝らして確かめようとする前に、コハクの意識は吸い込まれるように闇へ落ちた。