光・1
―――ガシャン!
ガラスが割れる鋭い音が響き、厨房で夕食の支度をしていたコハクとセバスチャンは顔を見合わせた。慌てて食堂に向かうと、長テーブルに着席しているのは彼らの主であるハインリヒだけで、その正面に座しているはずのヒスイの姿が見当たらない。
「若様!」
セバスチャンが緊迫した声を上げ、ヒスイが座っていた椅子のそばへと駆け寄る。その足元にうつ伏せの状態で倒れる幼い背中が見え、コハクは悲鳴を上げた。ヒスイの周囲には粉々に割れた皿の破片が散らばり、急いで駆けつけたコハクの靴の下でぱきりと砕ける。セバスチャンに助けられ、のそりと起き上がったヒスイの狭い額からは、真っ赤な血が流れていた。
「ああ、何てこと………!」
コハクは今にも倒れそうなほど青ざめ、エプロンの裾でそっと我が子の顔を拭い去る。ヒスイはぱちりと柘榴色の目を開け、涙ぐむ母を励ますように無邪気に笑ってみせた。
「泣かないで、母さま。これくらい何ともないよ」
「―――そうだとも。ダンピールは、頭をぶち抜いても死にはしない」
騒ぎの中、優雅に食前酒を口にしていたハインリヒが、素っ気なく言い捨てた。その手前のテーブルに並べられた食器が一枚足りない。ハインリヒが我が子に向かって皿を投げつけたことは明白だった。
「旦那様………」
「下がれ」
何かを言おうと慎重に口を開いたセバスチャンを、ハインリヒは視線さえ向けずに冷たく切り捨てる。主人の命令に絶対服従であるセバスチャンは口を噤み、怪我をしたヒスイを抱き上げて無言のまま退出した。コハクも二人の後を追いかけたかったが、ハインリヒの許しもなく動くことはできず、後ろ髪を引かれる思いでその場に留まった。
「………ヒスイが何か粗相を致しましたか?」
先に沈黙を破ったのはコハクだった。ハインリヒは手元のグラスを弄びながら、酷く簡潔に言い切った。
「目障りだ」
何の感情も籠もらない、冷たい声。父子が共に暮らすようになってから随分経つが、ハインリヒが我が子の名を呼ぼうとしないことに、コハクは早々に気づいていた。コハクは内心暗いため息をつく。ハインリヒに親子の情を理解してもらおうなど、もとより期待はしていない。ましてや、ヒスイはダンピール。己に破滅を招く存在と仲良くなれという方が無理なのだ。それを側近くに置くことを許し、殺さないでいる。ハインリヒにとって最大の譲歩だろう。
―――それでも。
コハクはぎゅっと唇を噛み締めた。今でも時々、思い出してしまうのだ。まだ両親が健在で、家族三人で暮らしていた頃の記憶を。生活は決して楽ではなかったけれど、両親は何よりもコハクを一番に思いやり、大切に育ててくれた。ヒスイにも同じ愛情を与えてやりたい。それをハインリヒに求めることが間違いなのだと分かってはいても、つい夢見てしまうのだ。ハインリヒとヒスイ、そしてセバスチャンと共に過ごす穏やかで優しい日々を。
「………申し訳ありません。今すぐ片付けますので」
コハクは愚かな幻想を振り払い、テーブルの下に身を屈めて、割れた食器の破片を拾うことに専念した。細かい物はあとで箒で集めなければならない。少し離れたところにある欠片に向かって伸ばした手を、ふいに捕らえられた。
「泣いているのか」
その言葉に、また一つ涙が零れた。全く気配を感じなかったのに、すぐそばにハインリヒが立っていた。コハクは醜い泣き顔を見られたくなくて、深く項垂れたまま、ふるふると首を振ることしかできない。
「………お前は、あれのためには泣くのだな」
ハインリヒがその時どんな表情をしていたのか、コハクはついぞ知ることはない。一瞬後、ハインリヒの姿は霧のようにその場からかき消えていた。