トロイメライ
コハクがハインリヒの屋敷に戻ってから初めての冬が訪れた。窓の外には雪が白く降りつもり、夜になれば空気が凍りつくほど冷えこむ。コハクはいつも通りハインリヒを起こした後、湯浴みの世話をするために浴室へと同伴した。寝起きのハインリヒは非常に危うい。機嫌が悪い日には理由もなく虐げられ、気絶するまで血を搾り取られたこともある。そのため、夜の支度を手伝う際は、どんな些細な粗相もないように細心の注意を払わなければならない。
浴槽の縁にゆったりと腰かけたハインリヒが、気だるげな眼差しでコハクを見上げた。その視線の意味を、コハクは正確に理解している。タオルや着替えの用意をしていたコハクは手を止めて、ハインリヒの裸足の足元へ跪く。恐る恐るハインリヒの腰に手を伸ばし、寒さと緊張から微かに震える指で緩く結ばれた腰紐をゆっくりと解いた。しどけなくはだけられていた夜着がするりとハインリヒの肩を滑り落ち、彫刻のように整った肌が露になる。ハインリヒは衣服を着替えるとき、己の手を煩わすことは一切ない。全てを任せられたコハクは、何度繰り返してもこの行為に慣れることはできなかった。
ハインリヒはゆるりと立ち上がり、浴槽の中に身体を沈めた。庭に咲く薔薇の花びらを浮かべた湯から、ふわりと濃厚な香りが立ちのぼる。コハクはハインリヒの背後に回り、長い黒髪を恭しく手に取った。桶に掬った湯に浸しながら、毛先まで丁寧に香油を塗り込んでいく。ハインリヒは夜毎王者のように美しく装う。狙いを定めた獲物を虜にするために。その手伝いをするコハクの心境は複雑だ。本当は決して行かせたくはない。どうか、その白い指先が触れるのは自分だけであって欲しいと、愚かにも願ってしまう。
―――くだらない。
コハクは自嘲する。コハクの全てはハインリヒの物だが、ハインリヒは髪の一筋さえ何一つコハクの物になる事はないのだ。コハクがハインリヒの元に戻ってから暫く過ぎたが、二人の関係は驚くほど以前と変わらない。コハクはそれで充分だと思っている。ハインリヒの側近くに侍ることができるのなら、例えどんな惨い仕打ちをされようとも耐えてみせる。そのためには、つまらない嫉妬や独占欲など邪魔なだけだ。
髪を洗い終え、今度は体を清めるために、しなやかな手を取ろうとした時だった。
「何を考えている」
「え?」
あっと思った時には手首を掴まれ、浴槽の中に引き込まれていた。服を着たまま湯に浸かったコハクは、咄嗟にハインリヒの肩に手を当てて体を支える。
「な、なにを………」
「質問しているのは私だ」
ハインリヒは猫のように目を細め、ずぶ濡れになったコハクを見据えた。
「何を、考えていた」
もう一度問う。コハクは戸惑った。コハクの脳裏を占めるのは、常に馬鹿らしいほど全てがハインリヒにつらなることだ。けれども、その胸の内を素直に明かすことは憚られた。
「なにも」
だから、嘘を。
「ほう」
ハインリヒは、にいと唇の端を吊り上げ、酷く嗜虐的な笑みを浮かべた。
「今宵は、余程いたぶられたいと見える」
否定することは許されなかった。乱暴に髪を鷲掴みにされ、湯の中に顔を押しつけられた。苦しい。限界まで落とされ、ようやく解放されたかと思うと、一瞬後には再び湯の中に逆戻りする。コハクがもがけばもがくほどに、ハインリヒは暗い愉悦を覚えるようだった。息も絶え絶えに咳き込むコハクを、ハインリヒは満足げに眺め、蕩けるように優しい声で囁いた。
「苦しいか」
「は、い………」
「私は、とても楽しい」
残酷な笑顔を最後に、コハクの意識は水面に沈んだ。
* * * * *
次に目覚めたとき、コハクはハインリヒの腕の中にいた。長椅子に寝そべったハインリヒの胸にぴったりと抱き寄せられ、身動きがとれない。
「あ………」
「気づいたか」
ゆるりと頬杖をついたハインリヒの動きに合わせて、艶やかな黒髪がさらりと流れる。それはまだ僅かに濡れているようだった。
「タオルを―――」
「いい」
起き上がろうとするコハクを制し、ハインリヒはコハクの身体を包むシーツごと引き寄せた。そこで初めて、コハクは自分が何も身につけていないことに気づき、赤面する。
「寒いか」
「いいえ」
首を振れば、ハインリヒは子供をあやすようにコハクの髪を梳いた。ハインリヒはコハクが用意した衣装ではなく、飾りの少ない部屋着を身につけていた。今夜は出掛けるのをやめたのだろうか。
「眠れ」
そっと額に口づけられ、コハクは言われるままに瞼を閉じた。その日見たのは、優しい悪夢だった。