12
ハインリヒの手が肩にかかり、コハクはびくんと痙攣した。例えどんなに嬲られることになっても、最後の瞬間までヒスイを腕に抱きしめていようと心に誓う。しかし、いつまで待っても、恐れていた終焉は訪れなかった。
「―――帰るぞ」
「え」
どこへ………?
恐る恐る顔を上げたコハクを、ハインリヒはヒスイごと容易く抱き上げた。コハクはぎょっとし、そのまま玄関へ歩き出そうとするハインリヒを慌てて引き止める。
「待って、待ってください。一体、どこへ………」
「屋敷に決まっている。お前は自分が帰る家も忘れたのか」
「帰るって………わたしが?」
「他に誰がいるというのだ。この愚か者めが。私を飢え死にさせる気か」
ハインリヒは目を細め、赤く腫れたコハクの頬をゆるりと撫でた。痛い。それでも、労るように触れた指先から、コハクを思いやる気持ちが伝わってくる。自惚れても、良いのだろうか………?
黙り込むコハクに、ハインリヒは不機嫌そうに柳眉を潜めた。
「………不服か。やはり好いた男がいるのだな。どこにいる? 今すぐ殺してきてやる」
「な、違います! わたしがお慕いしているのは、旦那様だけです………っ!」
言ってしまってから、はっとした。決して口にしないようにしていたその言葉。言ってしまえば、主人とメイドにしては近すぎて、けれどもそれ以外に言い表すことの出来ない不安定な関係が壊れてしまうと思った。
ハインリヒは慌てふためくコハクを見下ろし、満足げに頷いた。
「そうだろう。そうでなくてはな。ならば、何の問題もないではないか」
「でも、でも、ヒスイはダンピールで―――」
「それがどうした」
ハインリヒは戸惑うコハクの言葉を遮り、何でもないことのように言った。
「ダンピールごときに滅ぼされる私ではない」
それに、と。
「お前の子供に殺されるのなら、悪くない」
そう言って、不気味なほど美しく笑んだハインリヒの眼差しは、コハクが今まで見たどれよりも優しかった。
* * * * *
ハインリヒの腕に抱かれて二年ぶりに屋敷に戻ったコハクを、セバスチャンは見えない目から涙を流して心から喜んでくれた。ヒスイの存在にはさすがに戸惑いを隠せず、しばらく絶句していたものの、コハクの子供ならばと最後には受け入れてもらうことができた。ヒスイの方も物腰穏やかなセバスチャンを気に入ったらしく、父親であるハインリヒよりもよほどよく懐いていた。
「………一つ、聞いても良いですか?」
「何だ」
ハインリヒの膝に頭を預け、ソファにしどけなく寝そべっていたコハクは、気怠い声で尋ねた。身に纏っていた衣服が大いに乱れ、ところどころ露わになっているその肌を悪戯になぞっていたハインリヒは、動きを止めて静かに答える。ヒスイをセバスチャンに預け、二人きりになってすぐ、ハインリヒは性急にコハクを抱き寄せ、その首筋に噛みついた。よほど飢えていたらしい。容赦なく血を奪われた後、久しぶりの熱に翻弄されたコハクは、しばらく指先さえ動かせないほど疲弊していた。
「わたしがいない間、旦那様はどうしていたのですか?」
「………寝ていた」
いつも堂々としているハインリヒにしては、珍しく気まずそうな声だった。コハクは僅かに目を瞠り、ハインリヒの顔を見上げようとして、断念する。いまだ両目がハインリヒのスカーフで塞がれたままであることを思い出したからだ。
「酷く喉が渇いて目覚めたら、お前がいなかった。セバスに訊けば、しばらく姿を見せないから、私が殺したと思って諦めていたらしい。二年間お前を捜しもせず、勘気を恐れて私を起こしもしなかった。私は寝起きが悪いからな」
その光景が目に浮かんで、コハクは思わずふっと笑ってしまった。コハクがあれこれ深刻に悩んでいたとき、彼らはいつもと変わらない日々を送っていたのだと思うと、滑稽でおかしかった。
「私は、お前を殺したい」
ふいに、ハインリヒが甘く囁いた。
「一滴も残さず、お前の血を飲み干したい。分かるか? 耐えているのだぞ。この私が」
脈打つ心臓の上を彷徨っていた冷たい指が、容赦なく爪を立てた。痛みと共にとろりと溢れ出した鮮血を、柔らかな唇がなぞり、愛おしむように口づける。なんて幸せなんだろう。狂気を孕んだ行為を受け入れながら、コハクはうっとりと目を閉じた。
本編完結。
続編につづきます。